神之池海軍航空隊──日本海軍の闇
燃料が残り僅かとなった櫻井が降り立ったのは、茨城県の神之池海軍航空基地。ここは、三〇二空の厚木基地と違って少し殺伐としている。
いや、殺伐というより戦争も末期なのだと感じさせる、そんな雰囲気。
それもそのはず、特攻機『桜花』を装備した陸上攻撃機の第七二一海軍航空隊、神雷部隊の航空基地だからだ。ここにいる人間の大半は、いずれ特攻隊として散花する運命にある。
今までの実態はともかく、現地部隊の自発的意志という形で行われてきた特攻作戦は、天皇充裁に基づく全軍特攻化を、軍の意志として明示されたばかりだった。
しかし、この神雷部隊の情報は軍機として扱われており、神雷部隊で編成された桜花特別攻撃隊の実態を知る者は、特攻の為に転勤してきた飛行科の人間のみ。
それ以外の人間には、この『桜花』というものの実態は士官ですらも知る事は出来なかった。
*
燃料車によって燃料を補給して貰っている間、櫻井が基地内をふらふらと歩いていると、兵舎脇の通路の一メートル程の台の上に後ろ手に縛られて立たされている男がいた。見張り付きで、首から「これがスパイだ」の札をかけられている。
「なんだこいつは?」
櫻井が見張りの男に問うと
「諜者だ」
と、返事が返ってきた。
このスパイの男は当番兵の格好をしていた。ごみ捨て場で書類を漁っているところを捕らえられたのだと言う。憲兵隊に引き渡すまでの間、こうしてここで晒し者にしているのだそうだ。
こうしてスパイが捕らえられる事は珍しい事ではなかった。日本国内には相当数の諜者がいる事は有名な話であったが、厚木基地には幸いにもそういった人間はいなかったので、実際にこの目で見るのは初めてだった。
「裏切り者……ねえ」
その男の顔をまじまじと見ると、男は目を逸らした。裏切り者の腹を思い切り蹴飛ばしてやりたいような衝動に駆られたが、櫻井はグッとそれを抑えてポケットに手を突っ込んだ。
「神雷部隊は、軍隊としての組織はめちゃくちゃだから、裏切り者が一人二人いても驚かないけどな」
見張りの男が、裏切り者の男を睨みながら言った。
「どういう事だ?」
櫻井が訊くと
「先日、暴動があったんだよ」
と、見張りの男は淡々と語り始めた。
神雷部隊──戦闘機隊ではない他の部隊。その男は『その他の部隊』というものがどういう部隊であるかを語らなかったが、予備士官と下士官の仲がすこぶる悪いのだと言った。予備士官とは、櫻井のように予備学生出身の士官の事である。
何かにつけ予備士官は下士官兵を殴り、下士官は毎日のように予備士官の悪口大会をしていた。
また、度重なる作戦延期によって隊員の鬱憤も溜まり始め、ある日とうとうそれが暴動に発展したのだ。
下士官達が軍刀を持ち出して振り回したり、またはビール瓶で予備士官を殴るなどする乱闘が始まった。止めに入った当直将校を殴り倒し、最終的に総勢二百名の大乱闘にまで発展した。
結局、首諜者とされた下士官二名が軍法会議にかけられ、本来ならば銃殺である所を『大津大学』と称した横須賀海軍刑務所に送られた事によって終わりを迎えたが、隊内のギスギスした空気は未だに解消されていない。
勿論、予備士官全員が態度が悪かった訳では無いのだが、この悲劇は予備士官の下士官との接し方がわからない──意志の疎通が出来なかったからこそ起きてしまった悲劇だった。
自分よりも飛行経験の長い下士官を、階級だけで押し付けてしまった結果だ。
確かに飛行学生の『海軍航空教範』には、「下士官兵とは公務以外で酒は飲まぬ事」だの「下士官兵の言う事は全部信用する必要は無いけれども一応聞かねばならない」だの、下士官達と意志の疎通を取るつもりがあるのか甚だ疑問な記述があり、悲劇が起こるのは必然だったと言えるだろう。
原因が何であれ、軍隊としての規律などもはや消滅してしまったと言っても過言では無い。
そんな矢先で捕まったこの裏切り者である。神雷部隊では、もう何が起こっても驚かないのだ。
「まあ、特にここは重要機密部隊だからな。これだけ荒れてれば軍機を漁るのには好都合だろうな」
見張りの男が言った。
「災難だったな、ここも」
と、櫻井が言うと見張りの男は
「全くだよ。こいつのせいで、俺は当直が増えた」
と乾いた笑みを浮かべた。
***
午後四時過ぎ、燃料の補充が終わり櫻井は整備員にお礼の挨拶を終え、指揮所を横切ると
「あれ、櫻井じゃないか!」
と、声を掛けられた。声のした方へ振り向くと、簡単な木の骨組みで側面を風除けの布を巻きつけただけの指揮所で、置かれたストーブで焼き芋を頬張りながら、同期の立花隆少尉がこちらに手を振っていた。
立花とは同じ飛行科で知り合い、昭和十九年の八月末の実施部隊配属と共に別れたので、半年以上ぶりの再会である。
この神之池基地は、櫻井にとって思い出深い場所でもあった。飛行機搭乗員の養成はここで行われたからだ。
久しぶりの懐かしい顔が、一瞬飛行学生時代を思い出させた。
「久しぶりだな!」
そんな風に言ったのも束の間、同期との久々の再会だというのにどこか居心地の悪さを感じるのは、予備士官と下士官のギスギスした空気のせいだろう。
というより、その背景を知ってしまったからなのかもしれないが。
立花はそんな櫻井の気を察してか
「気にするなよ」
と、笑っていた。
「これやるよ」
立花がストーブで焼いていた芋を櫻井に手渡す。
「ああ、ありがとう」
櫻井はそれを受け取ると、冷え切った手にはその芋の熱さが気持ち良くて暫くそれで手を温めた。
「どうしたんだよ、こんな所に来るなんて」
「燃料が欠乏した。ところで、何かどこかの部隊だったか? 色々あったらしいな」
そう言いながら櫻井は骨組みの指揮所に掲げられた札に目をやった。するとそこには『桜花隊戦闘指揮所』の文字があり、随分と華やかな名前だな、なんて思った。
櫻井はこの部隊がどういった事をする部隊なのかを知らない。
「ここは特攻部隊だからね。色々荒んでるよここは」
立花は困ったような顔をして言ったのだった。
「なに? ここは特攻隊なのか?」
「ああ、もうすぐ九州へ進出する。あとどのくらい生きられるのかななんて、指折り数える日々だよ」
立花がそう言って悲しげに笑うのを、櫻井は何も言えなかった。
櫻井は、戦闘指揮所の『桜花』の文字に目をやると、立花が
「桜花隊だなんて特攻兵器のある部隊の名をそんな華々しいものにして、どうかしてるよ」
と言ったのだった。
「特攻兵器? 特攻兵器があるのか?」
零戦で特攻するのかと思っていたが、また別に特攻兵器があるかのように立花は言う。
「んーまあね。これ以上は言えない」
立花は苦笑いをしながらはぐらかすのだった。
「誰にも言うなよ。この特攻兵器は軍事機密なんだ。俺が言ったと知れたら処罰を食らうからな」
立花の口ぶりから、その特攻兵器はどうやら軍機に触れるような事らしい。櫻井はこれ以上訊くのをやめた。
「櫻井。きっと貴様と会うのも今日で最後だな」
そう言った立花の寂しげな笑顔は、神之池基地を飛び立った後も櫻井の脳裏に焼き付いて離れなかった。
「俺達は将校になりたくて軍人になったわけじゃない。死によって國が救われると思って軍人になったんだ。でも、もう俺にはわかるんだ。戦争は終わる。俺達の負けによってだ」──
櫻井は、そう言う立花の言葉を否定も肯定も出来ず、ましてや気の利いた言葉もかける事が出来なかった。
暗くなった夜空を飛びながらひたすら答えるべきだった正解を求めたが、答えは何も出なかった。
何故なら、櫻井も──いや、海軍の誰もが思っていた。
この戦争は敗けるだろう、って。




