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海軍士官の嗜み

 櫻井は障子を開けると、長襦袢だけになったみつきを見ると慌てて顔を背けながら

「いいからとにかく着ろ、上を!」

と、みつきを急かした。


 この時代、長襦袢だけ──というのは、現代で言う下着だけになっているのと同じだという事をみつきは知らなかった。

 だから、何故こんなに櫻井が戸惑っているのかわかっておらず、みつきがキョトンと首を傾げていると、櫻井は

「こんな姿を本当は安易に見せるもんじゃない。嫁に行けなくなるぞ」

と、恥ずかしさや目のやり場に困るような戸惑った様子で溜息をついた。


「え、あっ! すみません!」

 みつきは慌てて長着を羽織ると、ようやく櫻井がこちらを向いた。


「女の着物の事はよく知らないし、手は貸せないからな」


 櫻井は昭和の男らしく、腕を組んで胡座をかいて口頭で説明を始めた。手は貸せない──と言いつつも、みつきの手が止まると立ち上がり、気まずそうに目を逸らしながらなんだかんだ手を貸した。


 その度にみつきは顔を逸らして目線を畳にやった。櫻井の息遣いや体温がわかって、色々な意味で気恥ずかしくなる。そしてこんな時にも、櫻井の婚約者に対して羨ましく思う気持ちが胸を襲った。


 自分の耳元に近づいた櫻井の横顔を、みつきは今度は顔を背けずに目を閉じた。


 櫻井さんの婚約者だったらこんな風に顔が近付いても、お互い逸らす事なんてないんだろうな──なんて思いながら。





 着物と格闘すること一時間──ようやく帯結びを終え、着物の着付けが終わった。たかだか主人に見せるだけなのに、何故だかこんなに時間をかけて着てしまった。


 撫子の可愛らしい小さな花が全体に散りばめられた着物は、生成色の下地と相まって暖かく優しい雰囲気を出している。煌びやかな濃い赤紫の帯が差し色になっていて、優しいながらもメリハリがあった。

 着物には経年の色褪せは無く、決して肌の色が白いわけでは無いみつきの肌が華やいで見えるほど。


 いつもは横須賀軍需部支給の小汚い整備服。土や油でまみれていて、白かった整備服は黒や茶色に染まり清潔感などは皆無である。そんな訳で、久々に綺麗な格好(・・・・・)をしたと思った。


 ついでに髪も軽く結い上げて留めてみたりして、鏡の前で暫く遊んだ後、一階の居間で新聞を読んでいた主人に櫻井を連れて見せに行った。

 すると主人は

「若い頃、妻が生きていた時の事を思い出します」

と、少し涙を見せながら喜んでいた。


「やはり良く似合いますね。そう思いますでしょう、櫻井少尉」

 みつきの後ろで見ていた櫻井は、主人に言葉を振られると穏やかな声で

「ええ、とても」

と、ただそれだけ言った。


 その言葉に、みつきの胸が高鳴った。着物を着付けている時は終始呆れたような困ったような顔をしていたのに。

 どんな顔をして言ったのだろう──と、みつきは振り向いた。


 そしてみつきと目が合うと櫻井は


「ああ、凄く似合ってる」


と、演技の無い自然に目を細めた笑顔をして意外にもあっさりと言うものだから、みつきは一瞬耳と目を疑った。何気ない一言ではあるかもしれないが、それはみつきの鼓動を熱く弾ませ、頬を赤く染めさせた。





「なんだか脱ぐの勿体無いな」

 自室に戻ろうと、二人で二階への階段を登りながらみつきが言うと

「じゃあ、星でも見る?」

と、櫻井が櫻井の自室に誘った。


 櫻井の部屋には小さな物干し場(ベランダ)がある。物干し場の窓を開けると、星空が見えるのだ。

 みつきの部屋は、高々に育った金木犀の木が邪魔で空が見えないのを櫻井は知っていた。だから櫻井はみつきを部屋に入れたのである。


 みつきが通された櫻井の部屋はさすが海軍士官、いやにすっきりと整理整頓された部屋だった。本以外は殆ど何も置いていない。服は全て丁寧に畳まれているし、あまりに綺麗すぎて目眩がする。雑然と散らかっているみつきの部屋とは大違いだ。


 居心地の悪さを覚えながら部屋に入ると、櫻井が電気を消して窓を開けた。すると、漆黒の空にまるで宝石箱を零したような溢れんばかりの星が広がって、思わず溜息が出た。

 二月の空は空気が澄んでいて、星屑のように小さな星もよく見る事が出来た。


「わあ、きれい……」


 そういえば、今まで星を見る事なんて無かったな──そんな事をみつきは思った。現代の空は明るくて、月を見るのがやっとだったのだから。


「ほら。もう春の星座が見える」

 櫻井は東の空を指差した。


「南南東、高度は約六〇度かな──そこにかに座、少し下がって心臓部に二等星のアルファードを持つのがうみへび座。そこから下がって東、高度約四〇度あたりに一等星レグルス──あれがしし座。これらはもう春の星座だ」


 櫻井は人差し指を空になぞるように動かす。みつきはわけがわからず、その指の先をただ目で追いかけた。


「櫻井さん物知りですね」

と、みつきが言うと

「天測をやっていたからね」

 指を下ろして櫻井は言った。


「天測?」

「ああ。天体の高度を正確に測定し、その数値を元に自分の現在位置を計算する事。海軍士官なら誰でも出来る。飛行機乗りの前に俺達は船乗りじゃなきゃならないから。当麻なんかは偵察員だから長距離移動の時はやってるな」


 そして、櫻井は窓から頭頂の空を見上げて、

「ペテルギウスにアルデバラン、カペラ、エルナト──たくさん星や星座を覚えたな」

と、懐かしむように言った。


「私もやってみたいな」


 何となくかっこいいと思って、何気なくそんな事を言ったが──それは間違いだった。


「道具と──そうだな。SinCosTanサインコサインタンジェントが最低でも理解できないと駄目だな。六分儀で水平線から天体の高度を測って経線儀クロノメーターでグリニッジ時間を出したら、天測計算の公式に当てはめ解を求める。そして二時間後にまた高度を測って、子午線緯度法で計算して──」

「やっぱりいいです」


 少々意地悪な顔をして言う櫻井の言葉をみつきはバッサリと打ち切った。自分の頭の悪さと無知さを露呈させてしまい、居た堪れなくなったからである。


(星がわかる女って、知的でかっこいいと思ったのに)


 情けなくて少し俯きながらみつきが眉をハの字にしていると

「全く、こんなの知っていつ使うんだよ。こんな事出来なくたって何も困らないだろ? 知りたいなら星座だけで十分」

と、櫻井は笑いを堪えながらみつきの頭を軽く二度叩いた。


「星座、教えてやろうか?」

「……うん」


 風は冷たいがこんなやりとりでも幸せで、なんだか今日は心が温かい──そんな風に思った夜だった。

「六分儀」

天体や物標の高度、水平方向の角度を測るための道具

経線儀クロノメーター

天文台で精度検定を受けた正確な時計

「グリニッジ時間」

グリニッジ標準時間(GMT)

「子午線緯度法」

子を北、午を南とした子午線上の、太陽の最大高度を測定して緯度を求める方法

「天測計算の公式」

天体の時角h 、 推測緯度 l 、赤緯 d 、

高度 a = 90 - Cos-1 { Cos (d±l) - Cos l x Cos d (1- Cos h ) }

天体の時角 h 、赤緯 d 、高度 a 、

方位角 Z = Sin-1 (Sin h x Cos d / Cos a )

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