当麻の欲張りなお願い
暦は二月に入り、厚木基地は一月よりも増して厳しい寒さに襲われていた。寒風が叩きつけるように吹き荒れ、各航空機はエンジンが容易にかからなくなっている。
その為、警戒配備中は各航空機のエンジンカウリングに厚地のシートを被せ、下からヒーターで常に暖めて発動をいつでも出来るようにしておく必要があった。
その厚地のシートを時々めくっては、暖を取る整備員や非番の搭乗員達がチラホラと目立つ。コワモテの彗星夜戦隊整備員、田万川中尉(十二月に少尉から中尉に進級)も、時々シートをめくっては暖を取っていた。
各航空機にシートを被せ終わったみつきは
「あー寒いーっ!」
と、震えながら指揮所に程近い零夜戦隊の零戦のカウリングにかかっていたシートをめくった。すると、既にそこには先客がいた。
「あ、みつき」
彗星夜戦隊の当麻が、こっそりと丸くなっていた。
当麻は草緑色の第三種の軍服姿で、体育座りをしている。軍服という格好からして、どうやら今日は非番らしい。
「当麻さんてば、一人で何やってるんですか」
「だって寒いんだもん」
当麻は子供のように顔を膨らませた。みつきは当麻の横に腰を下ろす。暗いシートの中で暖かい色をしたヒーターが当麻の顔をオレンジ色に照らして、いつだか当麻と二人で蛍を見に行った時の事を思い出した。
あの時も、こんな風にこの人の顔を暖かい蛍の色がゆらゆらと照らしていたっけ──そんな風に当麻の瞳を見ていると、ふと目が合って
「あれからこっ酷く櫻井に叱られたよ」
と、当麻は居心地の悪そうな顔をする。その言葉を聞いてみつきはああ、と思った。
「そうですよ。あんな危険な戦闘ばかりしていたら、いくつ命があっても足りませんよ」
みつきがピシャリと言うと、当麻は罰が悪そうな顔をして
「あー! 俺も戦闘機乗りだったら、思う存分に暴れられたのになあ」
と、溜息をついた。
当麻は艦爆偵察員だから操縦はしない。操縦出来ないわけではないが、操縦員の後ろでチマチマと航路を計算したり打電をしたり──それが偵察員である当麻の仕事。暴れ馬だの空のヤクザだの揶揄される飛行機乗りには、ストレスは溜まりそうだ。
「そうだ。なあ、みつき。俺にお守り作ってよ」
そう言って、当麻は自分の胸元にかけていた紐を引っ張った。すると、服の中から懐中時計が出てきた。文字盤の黒い、偵察員用の海軍夜光秒時計だ。
懐中時計には落下傘用の紐がくくり付けられており、その先には少しボロボロになった可愛らしい小さな虎の縫いぐるみがついていた。
「大体俺達搭乗員は空に連れてくお守り持ってるんだ。被弾しないよう或いは──死ぬ時に寂しくないように」
そう言った当麻の瞳は、オレンジ色の光を悲しげに反射していた。
「親から貰ったり嫁恋人或いは知人友人から貰ったり様々なんだけど」
みつきは手渡された時計についている虎の縫いぐるみに触れた。それは、着物と思われる布を継ぎ接ぎして丁寧に作られたものだった。お腹には五銭玉が縫い付けられており、死線を超えるという願掛けの意味が込められている。
「櫻井なんかは、櫻井の地元の婦人達が作ったピンクのマフラーを貰ったりしてたな、そういや」
その言葉に、みつきはギクリとした。婚約者から貰ったものだとばかり思っていたが、どうやら沢山の人々の思いが詰まった大切なものだったのかと今更知り、嫉妬で一喜一憂していた自分が恥ずかしくなった。
(だ、だから私にマフラーをかけてくれたりしたのか……)
「とはいえ、あいつは他にもお守り貰いすぎなんだけどな」
当麻の言葉にまたもやみつきはギクリとした。他にも、という言葉にみつきは動揺を隠せずにいる。
(わー、やっぱり婚約者からいっぱい貰ってるんだぁ……)
とはいえ、お守りとは武運長久を祈られて作られたもので、いちいちこんな事で嫉妬だの何だのと考えている方がお馬鹿である。みつきは頭を横に激しく振って、雑念を振り払った。
「ねえ、だからみつき、作ってよ。欲張りだけど、俺はもっと……欲しいんだ。みつきが作ってくれるなら何だっていい。そしたら俺、絶対大事にするから」
まるで何かを告白するかのような当麻のその、真剣な眼差しにみつきは思わず胸が苦しくなって
「いいよ」
と微笑むと、当麻は嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。
***
この日の夜は、みつきが久々に下宿先に帰る事が出来た。
翌日休みで、いつもの汚いプレハブ小屋の兵舎ではなく、下宿先でゆっくりと眠れるのだ。
みつきがお守りを作る、と言うと下宿先の主人が気を利かせて着物の端切れを持ってきてくれた。
──お守り、か。
みつきが端切れを前に、どんなものを作ろうか悩んでいると、家の主人がたとう紙に包まれた着物一式を持って来た。
これは端切れを整理していた時に見つけた着物なのだという。
たとう紙の紐を解くと、ふわっと防虫剤の樟脳の匂いが広がると共に、生成色に紫や橙、赤の撫子が全体的に描かれた可愛らしい柄の着物が顔を出した。これは亡くなった夫人の物なのだそうだ。
「みつきさんに差し上げます」
「困ります、こんな大切な物を……」
「いいんです。私にはもう、必要ありませんから。着物というものは、生きてる人が着てこそのものですよ」
そんな事を言われて、主人が部屋を去った後もみつきは部屋の真ん中で暫く呆然としていた。
「着てみたら」
突然聞き慣れた声が聞こえて振り向くと、開けたままの障子の向こうで、長袖のボタンシャツを胸元と袖から覗かせた着物姿の櫻井が立っていた。
「あれ、櫻井さん?」
「俺、今日休みだから」
そういえば今日、櫻井の姿を基地で見なかったと思えばどうやら休みを取っていたようだ。
まるで明治時代の書生さんのような風貌の櫻井は、部屋に入ると撫子の着物にそっと触れ
「美しい訪問着だな」
と、少し光に反射させながら柄や手触りを確かめるように着物を撫でた。
着物の事などわからないみつきには、それが何の着物なのかわからなかったが、櫻井が訪問着だと言うのだから訪問着なのだろう。
「せっかくご主人から頂いたのだから、着て見せて差し上げたらいいんじゃないか」
櫻井にそんな風に言われて、急遽着て見せる事になってしまった。いつの間にかお守り作りから脱線してしまっている。
櫻井は
「着れたら呼んで」
と、右隣の障子を挟んだ隣の自室に戻っていってしまった。
さて、着物を着るに当たって早速問題にぶち当たった。
着物など──浴衣くらいしか自分で着た事が実は無いのだ。
成人式は着付け師がいたし、それ以外で着物を着る機会などあるわけがない。肌着を着て襦袢を着て、腰紐を巻いて──そこから手が止まってしまった。
襦袢の上で、長着をどのように綺麗に着ればいいのかわからないのだ。
(櫻井さんに訊くしか……)
「櫻井さん……、私、着物着れないです」
みつきがか弱い声で言うと、
「え、着物が着れない?」
右隣の障子の向こうから驚いたような呆れたような櫻井の声が返ってきた。
「──嘘だろ?」
「いや、本当です。ずっと、洋服だったので……」
「着物を着れないなんて女は初めて聞いたよ」
障子の向こうからそんな事を言われて、みつきは恥ずかしいような情けないような何とも言えない気持ちになった。




