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現代と過去、みつきの選ぶ道

「白河さん、大丈夫ですか?」


 突然呼びかけられてみつきはハッと我に返った。それと同時に無機質な天井が目に飛び込んできて、目だけで辺りを見回す。

 清潔感のある白い天井には蛍光灯が灯り、本棚がひしめくように並んでいた。手で自分の体を確かめるように触りながらゆっくり起き上がると、作業用のツナギを着て黒いソファの上で横たわっていたようだ。

 そして、向かいには膝の高さほどの机があり、その上には書籍検索用のパソコンが置いてある。


 ここには見覚えがあった。


「呼びかけても返事がないから、ちょうど救急車を呼ぼうと思っていたんですよ」

 眼鏡をかけたワイシャツとネクタイ姿の男性がみつきの顔を覗き込んだ。この男性がここの図書館の司書である事を、みつきは知っている。


 そう、ここは──航空図書館なのだ。


「私、一体どうして……」

 みつきが訊くと

「あそこの机の下で倒れていたんですよ」

と、男性が戦時航空史コーナーを指差した。あの場所は、いつだか──いや、先程(・・)までみつきが本を読んでいた場所だった。


(私は──)


「具合は大丈夫ですか? 一応救急車呼びますか?」

「い、いえ、大丈夫です」


 みつきは早々と立ち上がった。突然当たり前(・・・・)のこの光景──風景に引き戻されて、自分が今まで何をしていたのか、何もかもがわからなくなっている。けれども、少しずつ自分がなにをしていたのか、なんとなく思い出せてきた。


(そっか……私は、本を読んでいたんだっけ)


 まるで初めて来た場所を物珍しげに見るように、辺りを執拗に見回しているみつきの姿を、男性は

「あ、あの。主任の方には私からお話してありますので、早退扱いになってますから、今日は病院に行かれた方が良いかと」

と、戸惑いの表情を見せて言った。


「は、はあ。わかりました」


 図書館から出ると髪を靡かせる静かな風が吹いて、みつきは思わず目を細めた。


「なんだか、とても長い夢をみていたような気がする」



***



 古びた旅館の一室で、少し年を召した女将が水を張った桶に手拭いを入れ絞っている。櫻井は襖を開け、その様子を見ていた当麻に声をかけた。


「具合は?」

「いや、まだ……」

 苦しそうに荒い息をしながらみつきが布団で横たわっている。それに目線をやりながら当麻は首を横に振った。


「軍医大尉殿に解熱剤を投与してもらったけど、容体は良くならないね」

「そうか……」

 

 櫻井は差し伸べる女将の手を断り、脱いだ外套を自分で衣紋掛けにかける。そして、先程特別に陸軍の物品販売所(酒保)で買ってきた果物の缶詰を取り出した。

 それを見た当麻が目を見開いて言った。

「果物の缶詰なんかよく売ってくれたな」

「だろ。コネで売ってもらったんだよ」


 コネというのは嘘であるが、カタブツの陸軍酒保係と難儀な交渉を経て櫻井が購入したものだった。

 昭和十九年の暮れ辺りから、軍でも果物の缶詰は手に入りにくくなっているのでなかなか売ってもらえない。


「物資不足の影響で、他はスッカラカンで何も買えなかった」

「だろうね、海軍うちですらなかなか買えないからね」


 櫻井は布団の横に腰を下ろした。


「それにしても、まさか酷い高熱だったとはね」

と、櫻井が言うと

「三十九度、よく平気でいられましたよ」

と、横で水銀体温計を見ながら女将が答えた。



***



 みつきは、見慣れているはずの風景を真新しく感じながらアスファルトを踏み、信号を渡り──そして煌々と電気で明るい駅へと足を運んだ。


(なんだかとても大切な事を、忘れようとしている気がする)

 思い出せそうで思い出せない何かを感じながら、駅の電子公告に目をやった。化粧品の広告だった。

 ああ、そういえばファンデーション買わなきゃ──そんなことを思ったりしながら、階段を上っていたその時──


──俺達はやるしかない。何かが変えられると信じて、最後まで戦うしかないんだ


 青年の揺るぎない瞳が、脳内でみつきに語りかけた。

 その青年の名前も知らないはずなのに、なぜだかとても良く知っている。そして、この人の役に立ちたいと強く願った気がする。

 

──みつき、忘れないでほしい


 志の強い、その透った声はみつきの足を止めさせた。

 怒られそうな贅沢な色使いの洋服に身を包み、何も知らない──そんな顔をして歩く人々をよそにみつきは一人、忙しない雑踏の中で立ち止まった。


 こうして毎日を楽しそうに笑顔を振りまく若者がいるのは、この国が守られた過去があったから。

 何故だか突然、涙が零れ落ち、みつきの唇から、一人の男の名前が漏れた。


「櫻井……さん」


 名前を出しただけで、胸が締め付けられそうになるほど、大好きで大切な人を忘れようとしていた自分をみつきは許せないと思った。


「私は……私には、戻らなきゃならないところがあるはず」


 

***



「容体は落ち着いたようだね」

 当麻が女将に差し出された緑茶を飲みながら、みつきに目を向けた。


「ええ、よかったですよ」

 頷きながら女将はお盆に乗せたお茶をもう一つ櫻井に渡した。

 櫻井もみつきに目をやると、落ち着いた寝息を立てている。

 振り子の掛け時計を見ながら女将がみつきの脇に差した水銀体温計を抜いて

「三十七度五分ですから、じきに良くなりますよ」

と微笑んだ。


「ありがとうございます」

 と、櫻井が言うと女将は襖を開け、正座をしたまま丁寧にお辞儀をして出て行った。

 櫻井と当麻が軽く会釈をして女将を見送った後、目線をみつきに戻すとみつきが目を開けて天井を見ていた。


「あ、気づいた!?」

 当麻の言葉に、みつきは疲れたようにゆっくりと頷いた。そしてしばらく黙って天井を見た後

「戻ってきた」

と、小さな声で呟いた。

 

「……戻ってきた?」

 不思議そうな表情を浮かべながら当麻が問うと、みつきが目だけを動かして当麻の目を見て頷く。


「さっきね、駅にいたんだ。駅を歩いていたら未来に行く道と過去に戻る道があったの」


 そんな風に言うみつきに、櫻井と当麻は思わず二人で目を見合わせる。


「でね、迷ったんだけど……みんなの役に立ちたいと思ったから、戻ってきた」


 熱で掠れた小さな声で淡々と語るみつきに、しばらく櫻井と当麻の二人はキョトンとしていたが、しばらくして当麻が

「三途の川ならぬ、三途の駅ってやつか」

と、ふっと笑ってその沈黙を破った。


「よく戻ろうと決心できたな。向こうへ行ってたら死んでたかもしれないわけだろ?」

 腕を組んで黙って聞いていた櫻井が言う。


 すると、みつきは天井から目を離さないまま

「向こうでの私は死んじゃったかも」

と、まるで別に生きる道があったような言い方をして、少し笑った。


「なるほど。こっちで生きる覚悟を決めたわけだな」


 みつきは揺れ動いていた表情から強い意志を持った笑みを見せながら、ゆっくり櫻井に目を向け頷いた。


「あのね。櫻井さんや当麻さん達が作った未来の世界は、国民が笑っていて、何も不自由がないよ」


「え?」

 突然そんな事を言うみつきに、櫻井と当麻は再び驚いたように二人で目を見開いた。


「私、そんな未来を作ろうとしてくれる人達を、支えたり笑顔にしたい。だから、みんなと一緒にその未来を作る覚悟を決めたの」


 そう言ったみつきの表情は、何かを決心したような見据えた眼差しを見せている。櫻井はみつきの静かな覚悟を感じて、櫻井は微笑み返した。


「大丈夫。そんな風に言ってくれる人の笑顔を更に守るのが、俺達の仕事だから」

 櫻井はそう言って、照れくさそうに笑った。


 当麻が缶詰の桃を箸ですくって、

「まずは元気になる事が先だろ。果物食べて、ほら、あーんして」

と、言ってみつきの口元へ持っていった。


「なんか男の人に食べさせてもらうのって……恥ずかしい」

 小声でそう言いながらみつきは口を開け、桃を食べると、おいしい、と照れながら笑った。


「──さて、こっちもそろそろ食べ時かな」

 櫻井はそう言いながらみつきの額についていた何か赤いものを剥がした。


「え!? あ、梅干し!?」

「いい感じに干上がってる」

 みつきの熱で干上がって潰れているその梅干しを食べると、みつきが恥ずかしそうな表情で櫻井を睨んでいる。


「ちょっと、いつの間に頭に貼ってあったの!」

「ずっと前から」

「やだ、なんかすっごいかっこ悪い!」

 みつきは額についた他の梅干しを剥がそうとするが、櫻井はみつきの手首を掴んでそれを止めた。


「剥がすなよ、いい非常食なんだから」

「こんなの非常食にしないでください!」

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