私達にとって、大東亜戦争とは
陸軍飛行場に戻ると、櫻井が
「挨拶に行ってくる」
と言って、少しばかりの土産を自分の鞄に移しかえていた。
水地の機体を陸軍に廃棄処分してもらうという事もあり──また、陸軍は移動に使用するバスが無料ではなく切符が無ければ乗る事が出来ないため、自動車の便宜をはかってもらうために、陸軍大隊長及び憲兵隊に挨拶に行くのだと言う。
「陸軍とはちょっと色々あるんだよなぁ」
櫻井は困ったように眉を下げて唇を尖らせていた。
「なにがあるんですか?」
みつきが問うと
「櫻井の父親は陸軍大佐だったんだけど、過去色々あったんだよ」
と、当麻がそっとみつきに耳打ちをした。
櫻井が出ている間、みつきと整備員は森岡の搭乗機を受領するため飛行場の中を案内してもらうと、中破した零戦がそこにはあった。
みつきが確認のためにコクピットに上がると、あまりの惨事にコクピットを覗いたまま動く事が出来なかった。
キャノピーには穴が開き、コクピットには黒く乾いて固まった血や肉片、そして手袋の繊維とみえるものが血と共にべったりと計器や座席、スロットルレバーや操縦桿といった至る所にこびり付いている。
それは被弾した時の惨劇がここに浮かび上がるかのようで、空戦の生々しい傷痕を語るには十分すぎるものであった。
「白河さん、大丈夫?」
整備員に下から声を掛けられ、ハッと我に返った。
「あ……うん、大丈夫」
そう言ってみつきはコクピットを降りたが、牽引車でその零戦を輸送機へ運んでいる間もずっと辺りを黒く染めた血が目に焼き付いて離れなかった。
***
辺りが薄暗くなり、時は薄暮に差し掛かった頃、みつきは九六式輸送機の前でじっとコクピットを眺めていた。
──特に意味などない。ただ、何となくそこで眺めているだけ。
陸軍大隊長、憲兵隊に挨拶を済ませた櫻井に
「みつき、もう暗くなるから行こう」
と、声をかけられた。
みつきは振り向いて、他の搭乗員達の元へ戻ろうと背を向ける櫻井に、聞こえるか聞こえないかの小さな声で言った。
「この戦争の意味ってなに?」
みつきがそう呟くと、櫻井は驚いたような顔をして振り向いた。
「私、わからない。何で日本はこんな事をしているの? もっと平和に暮らす選択だって出来たはずでしょ?」
櫻井は何も言わなかった。
その見開かれた眼には戸惑いの色が見えている。困らせている事を言っている事は承知していた。
「もう、誰かが傷ついたり死んでしまったりするのは嫌なの。櫻井さんや当麻さんだって、いつか死んじゃうかもしれないなんておかしい。誰かが死んで当たり前だなんて、絶対に狂ってる」
そんな風に言っている間に、みつきの感情が堰を切って、瞳から大粒の涙がぼろぼろと頬を伝って、みつきの整備服の色を変えていった。
「みつき」
櫻井は空気に重みを持たせるような、冷静かつ沈着な声でみつきの名を呼ぶ。みつきは答えなかった。
みつきは崩れるように膝を地面に落として、腕で自分の涙を荒っぽく拭きながら感情を吐き出す。
「何で戦争なんかやってるの? こんなものの為に皆死んでしまうかもしれないなんて馬鹿げてる! 戦争を始めた日本は馬鹿よ、私は日本がどうなるか知っ──」
「みつき!」
感情的に泣き叫ぶみつきに櫻井が声を張り上げると、うずくまった姿勢でみつきはビクッと肩を震わせた。
「いいから……いいから落ち着け」
一転して、宥めるような穏やかな声で言いながら、櫻井は一歩一歩ゆっくりとみつきに歩み寄り、膝を落とす。そして涙で肩を小刻みに震わせるみつきの肩を、子供を宥めるように抱き寄せた。
「俺だって、戦争をする事がいいとは思っていない。人が死ぬ事や殺す事だって、当たり前だなんて微塵も思ってない」
櫻井の温かい男の香りがふわりと香った。
みつきの涙で冷えた頬に当たる櫻井の首筋の体温が、とても熱く感じて、その温もりが余計に苦しくさせる。
「みつき、ただ戦争を恨むのは簡単だ。でも、戦争をした行為だけに目を向けていても何も解決しないんだよ」
どうしようもない、というような掠れた声で櫻井は言った。そして、子供に語りかけるように丁寧に言葉を選びながら、ゆっくりと語り始めた。
「この大東亜戦争は、色んな要因が幾重にも重なっている。その根底には、人種主義に基づいた──欧米列強による俺達有色人種への人種差別があるんだ」
みつきが顔を上げると、悲しげにこちらを見る櫻井の瞳があった。
「後世の人々は、大東亜戦争を愚かだと冷笑するだろう。でも、みつき。これだけは忘れないで欲しい。俺達は欧米列強から日本という國と民族、そして誇りを命を懸けて守ろうとしていたという事を」
みつきを見透かすように語りかける櫻井の瞳は、揺るぎない信念を抱いた力強い光がさしている。
みつきはそれを美しいと思った。
それと同時に、無知な自分を恥ずかしいと思った。
「だから俺達はやるしかない。何かが変えられると信じて──最後まで戦うしかないんだ」
そう言った櫻井の、その穏やかで一本の芯を通したように揺るがない語り口は、不思議と安心感があった。
それは、全てを委ねてしまいたくなるような──いや、元から預けていたような、護られているような安心感。
「その為には、命さえ厭わないよ」
櫻井の瞳が見せた覚悟は、日本人としての誇りと、何があっても立ち向かう芯の強い精神を持ち合わせていた。
私は日本人として失格なのかもしれない──
「でも、櫻井さんが死んでしまうのはいや」
「あの、まだ殺さないでもらえるかな」
そんな会話をしていた瞬間、ぐらりと視界が揺れて櫻井の胸に体が勝手に倒れ込んだ。そして、視界は真っ暗な空間へみつきを誘って、意識がぷつりと途切れた。
「おい、みつき」
櫻井がみつきの名を呼ぶが、既にそれはみつきには聞こえていなかった。




