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皇國の英雄―それは、私が見た零戦パイロットの記憶―  作者: ケイ
昭和二十年、一番長い年が始まる
32/90

激戦の末の再開、そして失ったもの

 落下傘降下で着水し、真冬の海でプカプカと浮いていた水地は陸軍に救助され、浜松陸軍病院へ搬送された。

 背中に熱傷が見られた水地はすぐに手術室へ運ばれ、輸液・植皮を行い、現在は十六人部屋のベッドで寝ている。


「あー腹減ったなあ」


 水地にとって、熱傷なんかよりも気がかりだったのは勿体ぶって食べなかった航空糧食の事だった。

 弁当として持たされていた手巻き寿司とサイダーはあれからどうなったのだろうか。今頃、粉々になって海上を切なく漂ってるに違いないと水地は思った。


「ああ! 食べときゃ良かった。サイダーも冷えごろだったのに」


 水地がそんな独り言を言っていると、

「貴様は……何故死ななかったのかよくわかるような気がするよ」

と、突然隣のベッドから声が聞こえ水地が横を向くと、左腕を包帯で吊り下げた森岡が体を起こして呆れた顔をしていた。


「森岡大尉、何故こんなところに!?」

「左手をやられた。この通りだ」

 森岡は、手首から下が無くなった左腕を少し上げて見せた。


「切断……ですか」

 水地が戸惑いがちに言うと、森岡は気が抜けたような寂しい顔をして頷いた。


「もう俺は……零戦に乗れないんだ」



***



 翌日、みつきは『九六式陸上輸送機』という大型航空機に乗り、陸軍の浜松飛行場へ森岡の搭乗機を引き取りに向かう事になった。

 同行者は整備員二名と櫻井。そして操縦・偵察・通信手は彗星夜戦隊から選ばれ、偵察員として当麻も搭乗することになった。

 しかも予定は一泊二日の泊まりで、おまけに手当ても出ているから彼らは不謹慎にも嬉しそうだ。


 昨夜陸軍からの連絡で、水地の無事が確認された事もあり、みつきは二人分の見舞い品──と言っても煙草や甘いものといった些細なものだが、それらを鞄に詰めていると、鞄はパンパンで閉まらなくなった。


 仕方なく何を降ろそうかと考えていると、

「これも持ってけ」

 ゴツン、と頭に何かが当たった。


 みつきが上を向くと、草緑色の軍服(第三種軍装)を着た櫻井がサイダーの瓶で頭を小突いている。


「あいつの事だからこれに餓えてるだろ」

 櫻井はサイダーも入れろ、と言うのだ。


「もう、これ以上は入りませんからね」

 みつきはそれを受け取り、パンパンに膨れた鞄に体重をかけて押し込んだ。





 浜松に着くと、みつきと櫻井、整備員とで浜松陸軍病院に向かった。当麻、他の搭乗員達とは飛行場で一旦別れる事になる。

 

 浜松陸軍病院では、海軍とはまた違った空気が流れていた。病院であるのに、なんだか泥臭いような近づき難いような──不思議な空気である。

 初めてみつきがこの昭和時代に足を踏み入れた時に会ったのは、陸軍の『憲兵』だった。あの時の嫌な思い出のせいで、そんな気持ちにさせるのだろう。


 昭和十八年に完成したばかりだという立派なコンクリートで出来た病院の廊下を、丈の長い真っ白なロングワンピースを着た看護婦に案内されながら歩く。

 退屈しているコワモテの患者達が、整備服にモンペといった格好のみつきを物珍しそうにしげしげと見てくるものだから、みつきは更に居心地が悪くなった。ヒソヒソとした会話も聞こえてくるが、何を言われているのかまではわからないが、あまりいい話ではないだろうということだけは、さすがにわかる。



 しばらく歩いて、みつき達が案内されたのは大部屋だった。

 森岡、水地の二人は窓側のベッドで隣同士で寝ており、意外にも元気そうな顔色をしている二人にみつきはほっとした。

 その安心感が胸からこみ上げて視界が霞み、みつきはそれを必死に瞬きで誤魔化した。


「お二人とも……生きていてよかった」

 

 見舞いとして持ってきた一ダースの煙草『チェリー』を森岡に渡すと

「ありがとう」

と、森岡は少し悲しげに笑った。


 森岡は白衣の内側で包帯に巻かれた左腕を吊っていた。骨がうっすらと浮いた痩せた胸板が、白衣の隙間から覗いている。みつきの視線に気付いて、「あー……、これな」と、溜息をつきながら言った。

 森岡は左手首が殆ど原形をとどめておらず、切断しか方法は残されていなかったのだと語った。


「手が無くなるとこうも不便だとはな。これでもう……俺は操縦もできないし、日本の役に立つ事が出来ないと思うと、俺は……」


 森岡は、迫り来る感情を押し殺すような低い声で言った。左手を失っても尚、日本の役に立てない事を悔やむその姿に、みつきは思わず、もう十分──そう言いそうになった。


 けれども今、この人にそれを言うのはいけない気がして、みつきは息を止めるようにぐっと言葉を飲み込んだ。


「手の痛みよりもな、精神的な痛みの方が俺は辛いんだよ」


 麻酔が切れた後の痛みは想像を絶するもので、さすがの森岡もそれには昏倒しそうになったと言った。

 しかしそれよりも、この先自分が戦闘の役に立たない事を──森岡は憂いている。


 そんな森岡の絶望を飲み込んだような諦めの表情を、みつきはどうする事も出来なくてただ、黙って見ている事しか出来なかった。


「森岡大尉、手を失ったからといって、全てが終わったわけではありませんよ」


 見えない沈黙の霧に日を射したのは、櫻井だった。


「また空へ戻る事が出来る何か良い策があるはず。それは追追考えていきましょう。それだけでない、森岡大尉にはやってもらわねばならない事がまだまだたくさんある。日本の行く末は森岡大尉も握っていますから、一刻も早く戻ってきて下さい」


 冷たい空気に温かみを持たせるように穏やかに言うその櫻井の口調は、やつれたような光の無い目をした森岡の表情に綻びを持たせた。

 森岡は櫻井の目をしっかりと見据えながらゆっくりと頷いて、櫻井も表情を緩めた。


「そうだな。はは、全く……櫻井に慰められるとは、俺も弱くなっちまったな」

 そう言って森岡は苦笑した。


「慰めなんかではなく、俺は当然の事を言ったまでですよ」



 一方、水地は上半身裸の状態で包帯が何重にも巻かれて分厚くなっていた。それが胸を圧迫しているのか、苦しそうに呼吸をしながら

「凄くない? 俺もさ、よく助かったなぁって思ってるよ」

と、笑顔を見せながらあっけらかんと当時の事を話す。


「あの、痛くないんですか?」

 みつきが訊くと、

「めちゃくちゃ痛いよほんとに」

と、水地が背中を指差して言う。


(無理しちゃって……)

と、みつきは思った。


 心配させまいと、水地は明るく振舞っているのだ。そんなことは聞かずとも分かってはいたのだが、火傷は少しでも負えば痛いものだし、植皮をするほどだったのだから本当は恐ろしく痛いのだろう。


「全くもう。あまり動かないで。よくなるものも、よくなりませんよ?」

 みつきはそう言って水地の包帯の巻かれた腕に少し触れると、「いててて!」と、水地は痛がるのだった。


 みつきが水地に見舞い品を渡していると、

「ほら、俺からも貴様に見舞いだ」

と、櫻井が鞄からサイダーを取り出した。


「やっぱ櫻井、俺を良くわかってる!」


 水地は櫻井からサイダーを受け取ると、待ってましたと言わんばかりに一気に飲み干して、満足そうな笑顔をこちらに向けた。


「どうせ、冷やして飲み損なったんだろ」

「何でわかった?」


「……まあ、俺もよくやるからな」

 櫻井は、一呼吸置いて恥ずかしそうに目線を逸らした。


 水地は、海水が意外と温かく救助されるまで意識があった事、お尻から皮膚を移植した事、そして今はガーゼ交換が激痛な事──それらを面白おかしく話しながら

「あーこんな体じゃ、脱いだらみつきちゃんに嫌われちゃうなぁ」

と、調子のいい事を言う。筋肉質で体格の良い体は、水地の自慢だ。上半身裸である今は 、ここぞとばかりに動く腕を少し曲げたり等をして、筋肉を見せるような格好をした。


「ほお。まるで脱ぐ予定があるかのように言うな」

 櫻井が白けたような目をして言った。


「みつきちゃんさえ良ければ俺はいつでも。ねえ?」


 こっちを向かれて同意を迫られ、みつきは言葉に詰まったが、そんな事を言う口達者な水地に、こうしていつものように明るく振る舞うのはこちらへの彼なりの心遣いなのだろうと思った。

 みつきはそれに、切なくなるような胸の痛みを感じて

「そんな傷さえも水地さんの魅力だから、私は嫌いませんよ」

と、言って微笑んだ。


 水地は嬉しそうに目を輝かせながら、

「それって、俺と結……」

「少なくとも結婚は貴様とじゃないな」

 水地の言葉に被せて、櫻井がみつきの代わりに答えた。


「ああ!? まだそうか聞いてないだろうよ!」


 ムキになって答える水地に、

「はは。水地、貴様は本当に……馬鹿だな」

 横で黙って見ていた森岡が、肩を震わせながら水地を笑った。

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