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皇國の英雄―それは、私が見た零戦パイロットの記憶―  作者: ケイ
昭和二十年、一番長い年が始まる
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もう、誰も死んで欲しくない

 夕方になると、邀撃戦に出ていた搭乗員達が続々と帰投した。未だに還らないのは先ほど通信の途切れた月光隊の遠藤幸男大尉の月光。


「遠藤はまだか!」

 バタバタと指揮所に怒鳴り込んできたのは、小園安名司令だった。

「櫻井、まだ入電はないのか」

 入江と電信機の前に座っていた櫻井に、小園が訊いた。


十四時(ヒトヨン)五十八分(ゴハチ)の入電以降音沙汰はありません」

「そうか……」


 小園は指揮所の中を落ち着かない様子で行ったり来たりを繰り返して、いつもは磊落な小園も今日ばかりは荒れている。そして十分ほどウロウロし続けた後、指揮所を出て行った。


 そんな小園を見て、無理もない──と櫻井は思った。


 三〇二空には、撃墜王と呼ばれたベテランエースパイロットがいた。雷電隊には赤松貞明あかまつさだあき少尉、月光隊には遠藤幸男大尉。彼らは下士官兵からのし上がってきた実力派で、海軍勤続年数は十年以上、南方の激戦区を掻い潜ってきている。

 そんな遠藤大尉が飛行隊長の月光隊は、これまで度々戦果を挙げていた。

 

 そんな月光隊きっての撃墜王が戻って来ない──

 

 先行きの不透明な得も言われぬ不安が、刻一刻と雨雲のように広がってきている事を小園は感じているだろう。

 いや、小園だけじゃない。誰もが感じ始めている。それを誰もが見て見ぬフリをしていた。





『月光が墜落したようだ』──


 あれからしばらくして、第十二分隊整備指揮所で整備日誌を書いていたみつきの耳にそんな声が聞こえてきた。しかもそれはベテラン搭乗員であるという事も。

 みつきは整備日誌を書き終えると表へ出た。第二飛行隊戦闘指揮所の前を通りかかった時、


「きさまが殺したんだ!」


 指揮所の中から怒鳴り声が聞こえて、みつきは思わず立ち止まった。そして、その場でこっそり指揮所の中を覗き込むと、小園が飛行服を着た搭乗員に向かって激越な口調で怒鳴り散らしているのが見えた。


「私は確認しております」

「なら何故落下傘が開かない!? 確認していれば落下傘は開いたはずだ! きさまが殺したんだ!」


「私は絶対に……確認しております」

 そう言った搭乗員の声は震えていた。


 みつきは、いつだか自分の整備のせいで、彗星の搭乗員を事故に遭わせて死なせてしまった時の自分とその彼が重なり、思わず駆け寄りそうになったが、ぐっと堪えた。


「小園司令、まだ墜落の原因は落下傘が原因だったとは限りません。とにかく、今は連絡を待ちましょう」

 指揮所にいた櫻井が冷静な声で言うのを小園はちらりと見、何か言いたげな顔をしていたが、それを振り払うようにして指揮所から飛び出して行った。


 櫻井は俯いている搭乗員に

「よく頑張ったな。夕飯無くなるから、早く行け」

と言って肩を叩いた。

「櫻井少尉……ありがとうございます」

 そう一礼して駆け足で指揮所を後にした搭乗員の顔は、今にも泣き出しそうだった。


 みつきは、思わずその彼を追いかけて

「あの! ちょっと待ってください!」

と、声を張り上げると、彼の足がぴたりと止まった。

 そして振り返った彼の頬は、涙で濡れていた。


『月光 偵察 松嶋上飛曹』と、薄いマジックで書かれたような胸元の名札がちらりと見え、みつきは「松嶋さん」と、彼を呼んだ。


「泣かないで、松嶋さんのせいじゃない」

 松嶋は何も答えなかった。涙を堪えて、じっとしている。


「ごめんなさい、安直な事を言って。でも、松嶋さんは自信を持ってこれからも月光隊で活躍していて欲しいの」


 事故で二人の命を奪ってしまった時の自分と松嶋が重なって、とにかく声をかけずにはいられなかった。

 声をかけてしまってから余計な事をしたかな、と少し不安に思い、松嶋の顔を伺いながら

「こんな余計なお世話みたいな事しか、言えないけど……」

と、みつきは小声で言った。


「余計な事なんかじゃ……ないです。ありがとう」


 そう言って、松嶋は涙を拭って少し安堵した様子で礼を言った。





 シンと静まり返った指揮所の中へみつきが恐る恐る足を踏み入れると、一人櫻井がまだ何かをしていた。


「……櫻井さん」

 そっと伺うようにみつきが言うと、櫻井がこちらを向いた。


「さっきの……」

と、みつきが言いかけると、

「ああ」

と、櫻井はみつきが言わんとした事を理解したような顔で言った。


 この騒動は、遠藤機が墜落した原因は落下傘がうまく開かなかった事が原因なのではないかと、小園が落下傘係を呼び出したのが始まりらしい。

 落下傘係というのは、普段は操縦席で座布団代わりにしている落下傘を干し、畳んで落下傘バッグに収納する仕事だ。落下傘は、傘の布と紐の付け根を解かなければ開傘しないのであるが、バッグに収納する前はそれは結ばれている。

 そのため、落下傘バッグに詰める直前に必ずその紐を解いて確認するのだ。

 小園の言う「確認」とは、紐を解いたかどうかの確認だ。


「俺は月光隊の人間じゃないから確実な事は言えないが、落下傘の確認というものは数人で行い、帳面ノートに記入する。だから落下傘が確認不足で開かなかったとは考えづらい」

 そう言いながら、櫻井は手に持っていた落下傘の帳面を本棚にしまった。


「小園司令にとって、月光隊の一番の実力者が還って来ない事は、落下傘のせいにするほど受け入れられない事なんだろう」


 櫻井は窓の外を見て言った。既に暗くなった指揮所の中は、黒い布が被せられた白熱電球が灯されていて、櫻井の深い涙袋に黒い影を落としている。


 みつきはそんな櫻井の横顔を見ながら


 いつかこの人も死んでしまうのだろうか──


 ふとそんな事を思った。

 遠藤も撃墜王であるが、櫻井紀──彼もまた三〇二空の天才である。搭乗員歴は短いが、腕はベテラン搭乗員も唸るほど。

 とはいえ遠藤と同じように、櫻井が明日、明後日と生きている保証はどこにもないのだ。

 どんなにベテランだったとしても、こうして死んでしまうのと同じように。



 そして、この先見つめなくてはならない事は


『敗戦』──


 そう、昭和二十年八月十五日に訪れる──最悪の現実。


 みつきはこれまでずっと何も言えないでいた。この先日本が敗けるという事を。

 そしてその敗戦をきっかけに、日本は敗戦国として戦後何十年と罪を償い続ける事になる事を。


「櫻井さん」

 みつきは、櫻井の横顔にそっと声をかけた。こちらを見た櫻井の眼は、何の感情も読み取らせない光の無い目をしていた。


「日本は」


 敗ける──そう、言いそうになった。言いたかった。

 けれども、櫻井のその目つきの無表情ともいえる平静さに圧倒されて、みつきは続きを言うことが出来なかった。


「みつき」

 

「俺たちは敗けない」

 一呼吸置いて、みつきの心を見透かしているかのように言うそれは抑揚の無い落ち着いた声だった。自分自身に言い聞かせているようにもとれる、平坦な声。


 みつきは、その櫻井の見据えるような瞳から目を逸らす事が出来ないでいた。


 暫くの沈黙の後、急にぱっとした明るい声で

「ほら、飯行かないと無くなるぞ」

と、櫻井は指揮所の電気を消して指揮所の出口へ向かった。

 出口に向かおうとする櫻井の左腕をみつきが掴むと、櫻井の動きがぴたりと止まった。再び指揮所に沈黙がおとずれ、暗闇に包まれた室内は物音ひとつ聞こえなかった。

 櫻井は、左腕を掴んでいるみつきの手にそっと反対の手で触れた。暖かい櫻井の手の体温が、冷えたみつきの手を柔らかく温める。


「大丈夫、必ず守るから」

 櫻井は優しさを含んだ落ち着いた声で言った。


「違う、私は」

 そこまで言って、みつきは、

「櫻井さんに死んで欲しくない」

と、涙混じりの声で言った。


「俺は死なないよ」

 死なない保証はどこにもないくせに、櫻井はみつきの手に触れたまま言った。



***



 あれからしばらくして、神戸地区の対空監視員から三〇二空へ連絡が入った。

 遠藤の死因が、目撃していた対空監視員によって明らかにされたのである。

 遠州灘上空で被弾炎上後、渥美半島上空でペアである西尾上飛曹を脱出させたが、落下傘の紐が尾翼で切断され開傘しなかった。

 遠藤は民家の密集地を避けて山間部で脱出したが、落下傘に火が燃え移りそのまま落下した。

 対空監視員が現場に駆けつけた時には既に意識はなく、トラックで病院に運ばれる途中で死亡を確認したと言う事だった。



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