愛すべきバカ、水地と櫻井の酒飲み対決!
大きな作戦があった時や戦死者が出た日は、鬱憤を晴らす名目で皆で飲みに行くのが習慣だった。
櫻井は、酒を飲んで皆を潰すので嫌われている為に「くるなよ」と釘を刺されている。
本人も、高学歴者らしく「遊ぶのは苦手なので」と言って(常にシラフだからあまり楽しくないというのが本音)あまり遊ぼうとしなかった。
そんな櫻井を懲りずに「仕返ししてやる!」と、連れ回すのは水地だった。
櫻井が潰すというより、彼の場合は自分で勝手に潰れていくだけなのだが。
櫻井は水地に引っ張られ、横浜の料亭に連れて行かされていた。
士官次室でお茶を飲んで呑気に新聞を読んでいたはずなのに「今日は仕返ししてやるからな!」なんて言われて「ハイハイ」と空返事をしていたら、気付けば料亭で酒をなみなみと注がれていた。
おまけに今日の水地は強烈にウザいときている。
「今日は櫻井の為に、俺様が芸妓を選んでやった。どうだ、綺麗だろう」
年上の落ち着きを持った、上品な芸妓が
「市春でございます」
と、丁寧にお辞儀をした。
そして櫻井の隣についた。
「士官様。今日はよろしくお願いします」
「あ、ああ。よろしく。櫻井です」
櫻井も軽く会釈をした。
市春は櫻井の目をじっと見ながら、柔らかく手を握った。
「水地様と同じ、戦闘機乗りだと伺いました」
目の前では水地が馴染の小衿という名の芸妓と、いちゃいちゃしながら酒を飲んでいる。
櫻井はそんな二人を視界に入れながら
「まあ、そうだね」
と控えめに返事をしてとりあえず酒を口に運んだ。
「うふふ。お酒がお好きでいらっしゃるの?」
櫻井の酒の飲み方を見て、市春がくすりと笑った。
「え? いや特にそういうわけじゃないが……酒には結構強い……かな」
(結構どころじゃないけど)
櫻井は心の中で苦笑した。
「とても知的で品のある見た目をされて、落ち着きもありますのに、その反面戦闘機もお乗りになって、お酒もお強くて。そんなお方他の女性が放っておかないでしょう」
(随分褒めるなぁ)
「俺は帝大だからね」
知的である事は否定しなかった。
「ええ! やっぱり! 益々競争が激しくなりますわね 。そんな凄いお方を私も狙ってしまって良いかしら」
市春はやんわりとした手つきで櫻井の胸を撫でた。
男だからそんな風に撫でられる感覚は別に嫌じゃないが、何となく天邪鬼な自分が邪魔をして
「さあ。俺が酔ったらのお楽しみにしといて」
と、我ながらクサい台詞だと思いながらそんな事を言って、市春の手を胸から外した。
市春はそんなクサい台詞をいいと思っているのか顔を真っ赤にしている。
絶対に酔うことなどないという(酔うかもしれないが、まだ酔った事はない)のにそんな事を言うのは、その気など無い証拠。
水地はそんな櫻井のクセをよく知っている。
「あークサいクサい。櫻井、逃げるなよ。ラブレターも何通も貰っているくせに、女遊びすらしない。その上、酔った時のお楽しみだなんて気取った事言いやがって」
水地は櫻井に嫉妬心丸出しで、櫻井は思わず笑いそうになったがそこはぐっと堪えた。
「別に気取ってるわけじゃ」
「ほー。随分とした余裕だな。MMKな男は素人女性食ってるってか」
「おい、ホワイト食うのは海軍の恥だろ」
「そんな精神論、律儀に守ってるやついるのか? 正直に答えろ、貴様は何人食った? 食ってるからそんなに余裕なんだろ。童貞の顔してねえもんなぁ」
「だから俺は食ってねぇよ」
畳み掛けるように質問攻め──いや、誘導尋問してくる水地に、櫻井は苛立ちを顕にして言った。
陸軍大佐の父を持ち、帝國大学出身という身であるからこそ、道に外れたような事はしたくない。変な評判を作りたくない。ただそれだけだ。
ちなみに、MMK(もててもてて困る)は否定しない。
「そういえば櫻井はみつきちゃんと下宿が同じだそうだな? もうポスったのか」
休む間もなく振ってくる質問に、櫻井は思わず飲みかけていた酒を吹いた。
ポスるとはやったかどうかの海軍隠語だ。水地の酔いは頂点に達しているのか、やたら櫻井に踏み込み、絡んでくる。
市春が櫻井の吹いた酒を手拭いで口周りと胸元を拭くが、櫻井はそんな事構いもせずに言った。
「馬鹿か貴様は! 彼女はホワイトだぞ。手を出すわけがなかろうが!」
そこまで言ってふと、櫻井は相模湾でテスト中に墜落した時の事を思い出した。救助された後、あの柔らかい身体になんとなく、触れたような触れてないような──そこまで思い出したが言うのはやめた。
「意気地無しめ、あの豊満な身体に触りたくはないのか? 最近歩いているだけでも身体に目がいく俺は、我慢できないね」
水地の性欲の鬱憤も非常によく溜まっているらしい。
男だらけの軍隊なのだから仕方がないとは思うが、曲がりなりにも整備員である彼女をそんな目で見ていたとは──下品すぎる。
(だから料亭に連れてこられたのか……)
櫻井は酒を口に運びながら、少し呆れた。
「そんなに興味があるのに、白河さんを連れ出せない水地も意気地無しという事になるわけだが」
「うるせぇよ! 俺は別にみつきちゃんを傷つけるつもりはないからな……」
酒が回っているとはいえ急にしおらしくなる水地に、櫻井は意外だ、と思った。
「ちょっと! 二人で他の女の話なんてしちゃって。わたくしには興味はございませんの? わたくし、寂しいですわ!」
水地の馴染の小衿が、水地の鎖骨に触れながら嫉妬したような口振りで言う。
「興味、ありありのありだぞぉ〜?」
水地は小衿の胸を指でつんと弾いて、スケベオヤジ顔負けの顔をした。
(だいぶ気持ち悪いなアイツ)
こんなクソみたいな猥談に付き合わされる小衿に心底同情をした。まあ、海軍が料亭に行ってする事なんてこんなもんなのだが。
櫻井の横で寄り添って聞いていた市春が、櫻井の左手を両手で握りながら
「櫻井様、今夜はここにお泊まりにならないのですか?」
と、櫻井の顔に触れるか触れないかの距離で囁いた。
「わたくし、櫻井様とお近付きになりとうございます」
商売ではなく、割と本気のような目をして、本気のような声で言うから櫻井は返答に困った。
市春になんて答えようかと困っていると、水地が
「櫻井、男らしく市春を馴染にして外泊してけよ」
と威勢よく言った。
(水地に何故決められなきゃならんのか。俺にも一応、選ぶ権利というものがあるんだが)
「ああ、そうだね。そのうち」
大学時代、梅毒をもらって全身にバラ疹と呼ばれる不気味な丘疹を作っていた男がいた。軽薄な性格故に何人もの女と情事を重ねており、一時大問題になった事があった。その男は、どこだかのご令嬢に手を出した後に梅毒をうつし、やがて退学になったが──こういう場にくると、あの男の事を思い出して、正直どうもその気になれない。
何度も言うが、陸軍大佐の父を持ち、帝國大学出身という身だからこそ、遊ぶなら綺麗に遊びたい。
ただのプライドだ。
櫻井は手を握られたまま櫻井が空返事をしていると、
「ああ、わかった。貴様、陰茎に自信ないな? だから馴染を作らないんだなぁ? 櫻井! 貴様のを見せろ! どっちがデカイか勝負だ!」
と言って、水地はふらふらと立ち上がってズボンのボタンを開け始めた。
この頃、既に水地はへべれけになっていて、ロクに言葉の呂律も回っていなかった。そんなへべれけでブツを出したところで、亀もびっくりする程の萎縮具合だろう。
さすがに市春も小衿もそんなもの見たくは無いだろうに。
ボタンを既に全開にしている水地を市春と小衿が慌てて止めるが、水地は気にする様子もなく
「櫻井も出せ!」
と、見る気も出す気も満々だ。
まずい、本当に出す気だコイツは──
「水地、明日までよく寝ろよ」
と言って、櫻井は水地の右こめかみ付近に鉄拳を浴びせた。
「また俺の勝ちだな」
殴られて気絶──いや、眠る水地を横目に櫻井は酒をしばらく飲んだ後、馴染は結局作らず、勘定を水地のツケにして料亭を後にした。
実はこの勝負、これで三回目である。
***
翌日、こめかみ付近を痛そうにさすりながら水地は
「何で俺はここが痛いんだ?」
なんてぬかしながら出勤していた。
こういう翌日は大抵覚えていないので、水地にとって勝負は永遠に「一回目」なのである。
眠った水地を市春と小衿とで一緒に個室に引っ張って、小衿にはそのまま水地と寝てもらうのだが、水地が目覚めた時には小衿が横で寝ているので「小衿と寝たんだ」という記憶で塗り替えられる。
小衿に口止め料を払い、「昨日はなかなか寝かせて下さらなくて……」なんていじらしく台詞を言わせれば完璧。
「さあ? 俺に訊かれてもわかりませんねえ」
櫻井は素っ頓狂にとぼけてみせたが、密かにそれを楽しんでいる自分を、我ながら性格が悪いもんだと思った。
***
ある日、みつきに横須賀空技廠から彗星の新しい部品が出来上がったと報告が入ったのは、警戒が解けてすぐの頃。
彗星のエンジンは元々横須賀空技廠で研究・開発されていたもので、高座海軍工廠ではそれらを受け取り組み立てていた。
今までは高座海軍工廠と取引していたのだが、今回は横須賀空技廠と直接取引しており、部品を取りに行く事になったのだが──
「白河、櫻井に連れて行ってもらえ」
整備科主任に言われて櫻井の所へ行くと、既に櫻井が零戦の機体の横で腕を組みながら待っていた。
「零戦て一人乗りじゃあ……」
みつきが恐る恐る訊くと、櫻井はにやにやしながら零戦の胴体を指差した。
「え? まさか、胴体の中に乗れって事ですか?」
「そのまさかだよ」
──というのは幸い冗談だったのだが、二式練戦闘機という、訓練用の複座の戦闘機を引っ張り出してきた。
横須賀まで約十五分。電車や車で行くよりもあっという間だというのだ。
救命胴衣を着用した後、櫻井に丁寧に落下傘ベルト、座席のベルトの着脱の方法を教えてもらった。
「風邪引くぞ」
みつきが乗り込もうと翼に足をかけたその時、後ろから首にふわりとした何かをかけた。
「空は地上以上に寒いから」
それはピンクのマフラーだった。
邀撃戦の時に櫻井が付けていた──恐らく婚約者に貰ったマフラーだろう。
しばらくの間櫻井は白のマフラーを付けていたが、まさかこんな所で再び目にするとは思わなかった。
「ピンクのマフラーだなんて、もしかして女性からもらったやつですかぁ? 」
わざと明るく振舞って、且つ冗談めいたようにみつきが言ってみせると
「ああ」
と、至って普通に──ただ一言で返されただけだった。
拍子抜けだった。
「私が……付けちゃっていいんですか?」
今度は確認するように訊くと
「ああ」
と、再び櫻井は変わらない態度で一言だけ言った。
(何よ、その冷めた態度)
その櫻井の態度が気に入らなかった。が、これ以上心を乱されるのは嫌だったので、みつきはこれ以上何かを言うのはやめた。
座席に乗り込んでちらりと前の座席に目をやると、櫻井が訳のわからないごちゃごちゃ付いている計器類を弄っている。
間近でこんな風に操縦桿を握る櫻井を見るのは(背中しか見えないが)初めてだった。
空では凍りつくような空気が肌を刺して、マフラーで隠した口元から時折白くなった息が漏れる。
澄んだ空気が、畑や森ばかりの平坦な街をくっきりと映し出していて地図のようだ。
櫻井に目をやると、慣れた手つきで操縦しているのが伺えた。
そんな櫻井の背中を、みつきはこういうのは三割り増しでかっこよく見えるから嫌だ、なんて思った。
──というのはただのタテマエで、本当は心の底では素直に櫻井に対して胸を高鳴らせている。
(でも結局ただの片思いなのよね)
──本当はあんなやつ、嫌いになりたい。
「なあ、白河さん」
突然櫻井に声をかけられた。
「スタントしていい?」
「……は?」
そう返事する間も無く、突然身体がぐっと座席に押し付けられるような感覚がして、地図のように見えた景色が頭上に現れた。
身体の奥底が浮き上がるような宙にいるような感覚がして、ぞくぞくと身体が痛くて思わず悲鳴を上げた。
「いやああああああああああああああああああ!」
落ちるような感覚が何度もして、景色が目まぐるしく変わる。
肺が重力で潰れるのではないかと思うほどに息が詰まり、思うように空気が吸えなかった。
この感覚は、現代のジェットコースター以上に恐ろしい。
「もう駄目だって! 死んじゃうからああああ!」
必死に訴えていると、目まぐるしく変わった景色が、ぴたりと止まった。もはや自分がどちらを向いているのかさっぱりわからず、みつきがぐったりと頭を下げていると
「どう? 楽しかった?」
何事もなかったように、一糸乱れぬ声で櫻井が言った。
「櫻井さんなんて、大っ嫌いっ!」