F-13偵察機、日本へ 三
櫻井が飛び上がった高度一万メートルは、異様な空間だった。動体を感じさせるものは何もなく、真っ青の中に黒みがかった空と海の青とで、まるで青だけの空間にただ浮かんでいるような気にさせた。
零下五十度にもなる寒さに耐えながら、マフラー二枚じゃ足りなかったな、などと考えながら偏西風のジェット気流に機首を傾けひたすら孤独な空間を飛ぶ。
手の感覚が無くなるから、手袋を外して何度も手を両手で摩擦して温めた。
高度一万メートルでは酸素マスクをつけていても、思考能力も視力も鈍ってくる。目を擦ったりわざと欠伸をして涙目にさせてみたりして、視力を保とうとした。
その時だった。レシーバーに厚木基地から「ヒ」連送が届いた。敵機発見の略符で、続いて富士山上空と知らせが入る。
(きたか)
櫻井は増槽燃料を棄て、エンジン出力を最大にして急いで富士山上空を目指した。すると、富士山上空周辺と思しき場所で細い飛行機雲が八の字に流れているのが見えた。
よく見ると翼に飛行機雲を作り二機、交戦している。零戦ともう一つ、ギラリと太陽光を反射するのは──
「F-13だ!」
櫻井は叫んだ。
交戦している零戦の射撃をピン差で避けた銀色の機体が、こちらの進路上に向かってきた。敵にとっては櫻井は思いもよらないお客さんだったに違いない。櫻井は照準を合わせ一気に機銃を放った。
「くそ、速い!」
弾は機体を僅かに擦った程度だった。ゴウンと響くような大きな風音を立て、主翼の下へ降下するF-13を櫻井は背後を取ろうと急降下した。
頭がぐらぐらとして、視界が暗くなる。
気付けば酸素はとうに切れていた。
耳鳴りの中、気を失いそうになるのを必死に堪え無酸素の状態のまま機首を上げて、大きなF-13の背中を追った。
そして照準を合わせ、火花を散らした機銃をこれでもかと撃ち放つと、銀色の機体に僅かながら火花と供に黒い痕が食い込んだのが見えた。
──が、F-13は何事も無かったようにその場を離脱していく。
耳鳴りで視力はもはや限界。
(あと数発撃ち込めば撃ち落とせるのに!)
自分が一瞬どこにいるのかわからなくなるくらい、頭が働かない。
それでも操縦桿を強く握りしめた、その時だった。
──無茶はしないでください!!
ハッと女性の声が聞こえたような気がして、我に返った。その女性の声が白河みつきのものだと気付くのに時間はかからなかった。
「さすが……整備員の想いが入った零戦なだけあるな」
みつきの幻聴を聞いた櫻井は、切れた酸素マスクを外して戦線を離脱すると、先程上空で接敵していた零夜戦隊のもう一人の分隊長、森岡寛大尉機が近付いてきて、櫻井に「帰還する、馬鹿野郎」と、馬鹿野郎のオマケつきで手で合図した。
櫻井は森岡の後ろを追いて地上約四千メートルまで降りて来た所で、やっと頭が普通に戻ってきた。
地上に降りて深呼吸すると、手にも血の気が戻り興奮していた頭も徐々に冷静さを取り戻した。
先程の接敵での緊張か、手の震えがおさまらないでいる。
「無茶するなよ、馬鹿野郎」
機体から降りた森岡は、櫻井を小突いた。
「無茶するな、それ、上で白河さんにも言われました」
と、櫻井が空を指差しながら言うと、
「はあ? 貴様遂に零戦とでも会話したか? 幻聴、幻覚の極みだな。無酸素状態は非常に危険だと身をもって体感したろ」
と、呆れた様子で森岡が言った。森岡は、櫻井の酸素が切れていた事を知っているようだった。
「いいか、幻聴、幻覚だけじゃない。さっきみたいにお前が冷静でいられなくなるくらい、正常な判断が下せなくなる。そのうちブラックアウトして墜落するぞ」
今冷静に思い出せば、低酸素状態で所謂ブラックアウト寸前だったわけだが、ある意味その幻聴に救われたと思うと何とも言えない気持ちになった。
「でも凄いよやっぱ。お前は」
森岡は櫻井の頭をぐしゃぐしゃと掻き混ぜた。
「敵は非常に速くて硬かった。もし酸素があれば、弱点である垂直尾翼やエンジンを撃ち抜いて、きっと落とせたのに」
悔しそうに言う櫻井に、森岡は「はは、お前ならな」と頷いた。
その日、櫻井がF-13に弾をお見舞いしたと隊内の話題はそればかりだった。撃ち落とせはしなかったものの、その一撃は今後の零夜戦隊──いや、三〇二空の大きな嚆矢となる。