櫻井へ、突然の訪問者
今日は朝から警戒配備が発令していた。
「整備完了しています」
「ありがとう」
櫻井が試験飛行をする間も無く、航空戦配備で待機に入る。しかし昼過ぎには解除され、櫻井は朝完了出来なかった試験飛行に出ることになった。
みつきは試験飛行に出る櫻井を見送り、次は彗星の格納庫へと向かう途中でふと、格納庫より程近い飛行場門付近で女性が一人衛兵と話をしているのが見えた。
思わず側まで駆け寄り「あの、どうされました?」なんて声をかけてしまったのだが、今思えばそれは間違いだった。
「櫻井少尉に会わせて頂きたいのです。今日は日曜だからお会いできるかと思っていたのに……」
口元をハンカチで押さえながら、悲しそうに女性が言った。女性の長い黒髪はきっちりと編み込みで整えられている。モンペを着ていても所作は美しく、女性らしいと思った。
「櫻井さんは今試験飛行に出てます。あともう三十分もすれば帰ってきますよ」
「私、ここでお待ちしております」
家族かな──最初はそう思ったりもした。
でも、よく考えれば女一人でこんな所に来るわけなんかないのに。
三十分後、櫻井が試験飛行を無事に終えて戻ってきた。操縦席を出、翼に足をかけ勢いよく飛び降りると、飛行帽を脱いでふうっと深呼吸した。
「先程、櫻井さんとお会いしたいって女性が門までいらしてましたよ」
「へぇ、誰だろ。面会申請はきてなかったけど」
櫻井は驚いた顔をしていて、事前の訪問を知らない様子だった。この頃、面会するには申請が必要だったから恐らく無許可だろう。だから衛兵に止められていたのだが、まあ──何だかんだ入口付近でちょっと会う程度なら許されていた。
「髪を編み込みで纏めていた、綺麗な方でしたよ」
そう言うと、櫻井はああ、という顔をして「わかった、すぐ行く」と、みつきに自分の飛行帽を押し付けて門へと向かった。
「おっ、あいつやるなぁ」
水地がにやにやしながら、櫻井の後ろ姿を見ている。
「あいつ、婚約者がいるんだよ」
***
──彗星の整備が、思うように捗らない。
何度も同じ作業をまるで抜け殻にでもなったかのようにやっているみつきに、田万川が怒号を上げた。
「やる気がないなら帰れ!」
田万川に格納庫を締め出されるところを見ていた当麻が、小走りで駆け寄ってきた。
「大丈夫? 何かあった?」
何も知らずに心配してくれる当麻に正直に言えるはずもなく、「ちょっと貧血で」と愛想笑いをして誤魔化した。
──言えるわけがない。あの人が好きな事に気付いてしまったって。
そう思った時、胸から何かが溢れてきて思わずその場に座り込んだ。
「みつき?」
「どうした、田万川に何をされた?」
片膝をついて真剣に真っ直ぐこちらを見る当麻に、申し訳なくて思い切り首を横に振った。
「何もない、何もないの……」
「嘘だ」
みつきを見下ろす当麻の目は真剣だった。
「何も無いわけない。じゃなきゃ、わざわざ泣かないだろ」
当麻に言われて初めて自分が涙を流していた事に気がついた。大粒の涙が太い筋を作って頬を伝っていて、それは首まで流れていた。
あんなに凄い人に、恋人がいないわけがないって事くらい──ちょっと考えればわかる事。
きっとあの人の恋人だから、それに釣り合う素敵な人なのだろう。
「ごめんなさい、本当に。きっと疲れているだけ」
腕や手の甲で涙を拭うみつきの腕を当麻が掴んだ。
「もう、いいから」
当麻は付けていたマフラーを外して、その端でみつきの涙を拭った。
「みつき、俺さ──」
当麻が言葉を切り出した時、
「あれ、どうした?」
櫻井がいつの間にか戻ってきていて、座り込んでいたみつきと当麻の前で立っていた。
「あ、当麻。泣かせたな」
みつきを見るなり櫻井は意地悪な顔をしながら当麻をおちょくった。
「あれ? 櫻井が泣かせたんだとばかり思っていたけど?」
当麻は冗談交じり且つ挑発的に言うが、それはあながち間違いじゃない。確かにこの人のせいで泣いているからだ。でも、厳密には違う。
勝手に好きになって、勝手に傷ついて、勝手に涙が出ているだけ。
──この意地悪な笑顔も、あの日見た穏やかで凛とした横顔も──婚約者のもので、私のものじゃない。
ビスケットをくれたりするのも、私だけに優しいわけじゃない。
──きっと、婚約者にも優しくて
婚約者にはもっと──違う一面を見せているんだろう。
もっと早く気付くべきだったのだ。