海軍士官との身分差のデート
その夜の事だった。
明日は休みで気分も浮かれ気味にみつきが下宿先に帰宅すると、既に風呂が沸いているようで窓から水蒸気が上がっていた。
「お風呂、入りますね」
居間で片肘をついてうつらうつらとうたた寝をしている主人にそっと言って、みつきは風呂場へ向かった。
脱衣所の扉をなんとも無しに開けたその時、浴衣を脱ぎかけたような格好の男と鉢合わせて、みつきは思わず取り乱した。
「いやあああ! ご、ごめんなさいいい!」
慌てて、バチンと壊れそうになるくらい激しい音をたてて戸を閉めた。
「あ、いやもう出たから大丈夫だって!」
男も慌てて戸を開けて、みつきの腕を掴んだ。
腕を掴まれて咄嗟に振り向くと、そこには見たことのある顔があった。
「さ、櫻井さん……?」
「あれ、白河さん?」
何が何だかわからなくて、しばらく二人でキョトンとしていた。
濡れたままで水滴が滴る櫻井の髪が、碌に拭かないまま出てきたという事が伺える。
控えめに照らされた電球の光が、櫻井の髪や肌をキラキラと照らすものだから少し目のやり場に困った。
「おやまあ、何事かと思えば……」
うたた寝をしていた主人が、騒ぎをききつけてやってきた。
「ああ申し訳ないねえ、みつきさん。実は兵隊さんもここで下宿してるんだよ」
主人の話によると、櫻井と当麻の二人がここで下宿しているようだ。
とはいえ、基本的に航空隊で寝起きしており、休日の時だけしか帰ってこない──いや、滅多に帰って来ないので、この事を話すのを忘れていたのだという。
特に櫻井は帰ってきたのは今日が初めてというから余計にだ。
櫻井は明日休日で、ここにきたのだと言う。そういえばいつだか、当麻が櫻井と下宿先が同じだと言っていたのを思い出した。
(まさかここだったとは……)
主人は何事も無かったかのように居間に戻っていった。みつきと櫻井の二人は、いまだにこの場で固まっている。
一瞬見えた、浴衣から露わになった上半身の身体つきが目から離れず、みつきはいまだに櫻井を直視できないまま床へ目を逸らしていた。
櫻井に聞こえているのでは無いかと思うほど、心臓が高鳴っていてこの場をどうやって切り抜けようかとぐるぐる頭が回っている。
しばらく沈黙の後、
「──あ、ごめん」
櫻井は掴んだままの手に気付き手を離した。
手首を掴む温もりが消え、みつきはそれを何だか寂しく感じて、背を向け去っていこうとする櫻井に「あ、あの!」と咄嗟に声をかけてしまった。
振り向いた櫻井の顔はキョトンとしている。思わず声をかけてしまった事に、みつきは後悔した。
声をかけたはいいが、話題がない。
折角だからもっと仲良くなりたいのに──
「良かったら明日……す、す、西瓜買いに行きませんか!?」
気が付けば、とんでもない事を口走っていた。
櫻井は表情を変えずにこちらを見ている。
しまった──と思った。
一瞬、間が空いて櫻井はぷっと吹き出して、
「あはは! 何だと思えばそんな事か。別にいいよ」
涙を拭きながら櫻井は爆笑している。こんなに笑っているのを見た事があっただろうか──というほど。
(そ、そんなに変……だったのかな)
更に恥ずかしくなったのは言うまでもない。
***
翌日、みつきと櫻井は横浜へ買物に行く事になった。休日だというのに櫻井は軍服を着ている。
いつもは機銃掃射の的になるのを防ぐ為に、目立たない草緑色のブレザータイプの軍服(第三種軍装)を着用しているのだが、今日は初めて会った時と同じ白の詰襟の軍服(第二種軍装)を着用していた。
「そういう決まりなんだ」と言って、櫻井は軍帽を被った。
その姿は、やはり高貴で身分の差を感じさせた。時折するあの意地悪な顔や、大酒豪な一面さえも彼ならきっと全てが許される。
「ほら、行くよ」
身支度を整えた櫻井がいつの間にか玄関の外に出ていて、慌ててみつきも鞄を手に取った。
櫻井に連れて行かれたのは現代でもお馴染みの「千疋屋」である。わざわざ横浜の千疋屋まで行くのは何故かと思ったが、千疋屋は軍と強い繋がりを持っており、どうやら軍人御用達のようだ。
千疋屋の店内はというと、軍服や背広を着た客で賑わっており、明らかに上流階級と呼べる類の人ばかりだ。
そんな中、見窄らしい姿の自分は明らかに場違いで、櫻井は「大丈夫だよ」と笑っていたが、みつきは櫻井の後ろに隠れるように店内を歩いた。
昔の写真でよく見る丸い眼鏡は本当に皆かけていたんだなと、そんな事を関係ないながら思う。
さて、店内には様々な果物が並んでおり、その前に値札が置かれているのだが、昭和時代のお金の使い方にいまだに慣れないでいる。
(五円だの十円だの言われてもピンとこない……)
貨幣価値がわからずそれが高いのか安いのかわからない。
値札とにらめっこしていると、ドスンと何か重い箱が頭に乗せられた。
「はい、欲しかったのはこれだろ?」
振り向くと、櫻井が何やら大きな箱を持ってみつきの頭に小突いている。
「西瓜、もう買ったぞ」
「えっ?」
みつきがにらめっこしている間、櫻井がどうやら西瓜を買ってしまっていたらしい。
「え、なんで先に買っちゃったんですか! 私払います」
「あのなあ、西瓜欲しいって言われて買わない軍人がいるか。馬鹿」
「でも、」
「小遣いは大事にしとけ」
櫻井は呆れたように言って颯爽と店を出ていった。
「あっ、ちょ! 待ってくださいよぉ!」
※プレゼントして下さいました
***
横浜の街を二人でしばらく歩いた。かつては店が並び賑やかだったと思われる街も新宿と同じく疎開が行われていて、駅周辺の建物は無くなりガランとしている。
とはいえ人通りは意外にも多く、外出している人は多いようだ。
まるで身分差のデートのようで──というよりその通りなのだが、そのせいなのか道行く人々から視線を感じる。
いや、よく見れば視線を感じるのはみつきというより、櫻井への視線だった。
ちらりと櫻井の横顔に目をやると、軍人にしては少し長い髪が風に揺れ、真っ直ぐ前を見る茶の瞳は凛々しくも穏やかで且つ整った顔を一層に彩っている。
自分の物でもないのに誰かにとられちゃうような気がして、嫌な違和感が胸を襲い痛みを感じさせた。
(何考えてんの私ってば)
慌てて頭を横に振り、考えるのをやめた。
その時、
「お写真を撮らせて頂けませんか?」
横切った写真屋のドアから店主と思しき男性が出てきて、みつきと櫻井に声をかけた。
「お二方が、あまりにも素敵だから是非写真に収めたくて。勿論、現像して差し上げますから」
「いえ、私はその、写真とかは……」
みつきが謙遜すると「いえ、貴方様は十分素敵ですよ。是非お写りになって下さい」と言って写真に写るよう促した。
すぐ目の前にある煉瓦で出来た橋の上に二人を並ばせ、店主は三脚を立てて調整している。
みつきはするポーズもなく、ただ棒立ちでニコッと笑ってみせた。
「では、いきますよ」
合図と共に、バシャリとシャッターの音が響いた。ライカの独特なシャッター音だ。
「今、現像して参りますから」
そう言って、みつきと櫻井を店内に招き入れ「こちらで少々お待ちになって下さい」と椅子に座らせた。
薄暗い店内を見回すと、たくさんの結婚式や家族写真が飾られている。今までにここで撮ったお客さんのものなのだろう。
すると、腰の曲がった女性がお茶をお盆に乗せてやってきた。
「私どもはここで写真屋を商っていたんですが、この戦時下で廃業せざるを得なくなってしまって。主人がどうしても最後に、幸せな夫婦写真が撮りたい──って言っていたものですから」
「あっ、私達は夫婦とかじゃ……!」
「別にいいんですよ、お似合いでとても素敵でしたから」
なんだかとても恥ずかしくなってちらりと櫻井を見ると動じる様子もなく談笑している。
「お待たせしました」
少し足が悪いのか、ゆっくりとした足取りで現像室から店主が戻ってきた。白い封筒に入れた写真をみつきと櫻井にそれぞれ手渡し、「いいものを撮らせて頂きました。思い残す事はありません」と、にっこりと微笑んだ。
(お似合いかぁ)
本当にそうだったらいいのに──
櫻井の横顔を見ながらふとそんな事を思った、帰り道だった。