第七話 「ゆうれいといっしょに」
◇1
優麗がいないということに気が付いたのは昼前だった。
「……て……ですっ! ……くんっ!」
暗闇の中で声が聞こえた。
誰の声だ? 温かい声をしている。まるで、真夏に咲く黄色くて大きい花を彷彿とさせるような……。そうだ、この声は……――
「起きてですっ!」
目が覚めた。
が、俺の視界は、幼い女の子の顔で全部埋め尽くされている。
「うおわっ!」
驚いて慌てて頭を起こそうとしたせいで、女の子とおでこをぶつけてしまった。
「てっ~~~!」
「っ~~~!」
しばらくお互い痛みに悶える。
落ち着いたところで女の子のほうを確認すると、それはヒマリだった。俺たちの脇では、昨日と同じような姿勢で清隆と沖野も眠っている。
「おま、どうしたんだ、ヒマリ? まさか……俺の寝込みを襲おうと……ッ!?」
「そんなことしないです! そんなことよりミーくん!」
またもヒマリが顔の距離をぐっと近づけてきた。
「優麗ちゃんがいないです!」
最初、ヒマリの言葉の意味が理解できなかった。これまでだって優麗がいなくなることは何回もあった。幽霊の格好をして人を驚かして、しばらくしたら帰ってくる。だが、間もなく、ヒマリがそのことを言っているのではないとい結論に至ることができた。
すうっと血の気が引いていく感じがした。
「優麗はどこに行った?」
ヒマリの肩に掴みかかるようにそう訊くと、彼女は痛そうに眉を歪めた。その表情を見て若干冷静に戻り、彼女に謝る。
「すまん……」
「いえ……それよりもミーくん。そこにこんな置き手紙があったです」
ヒマリの手からは受け取ったのは、手紙と言うにはあまりにお粗末なものだった。メモと言う方が近いと思う。薄くて綺麗な紙には、優麗の整った字が短く綴られていた。
もう発ちます。今まで大変お世話になりました。ありがとうございました。 優麗
その文章を見てようやく、今日が、優麗がこの家に来て21日目になる日だったということを思い出した。優麗はそもそも21日間だけ家出をすると言ってきた。だからこの家にも、その間だけ居候するということで始まったのだった。だが俺はそのことを演劇の舞台があるせいで忘れていた。優麗にとっては大切なことに違いないのに、忘れていたのだ。
俺は無性に自分に対して腹が立った。
「くそっ……どうして忘れていたんだ……」
それと同時に、嫌な予感がした。思い出されるのは、舞台の時の優麗のアドリブで出た台詞である。
――本当はそこにいるのかもしれない。けれど、その姿が見えない。わたしは……その孤独に耐えられる気がしないわ。
さらに昨晩は、自分の信念のようなものを呟いていた。
――でもわたしは、会わなきゃいけないの……
彼女は、もしかしたら幽霊になろうとしているのではないだろうか。姿が見えない相手を追いかけて、でもその相手の姿が見えなかった。だから、相手と同じ存在になる。
つまり、彼女は……。
顔を青ざめさせる俺の横で、ヒマリも同じことを思ったのだろう。焦った声で言う。
「ミーくん、早く優麗ちゃんを探しに行くです!」
「……」
待て。なぜ優麗を探しに行く必要があるんだ?
「これはあいつが望んでやっていることだろ?」
「え……」
「自分で望んでいることを止めてしまうのは……正しくないんじゃないか……?」
子供には、自分が正しいと思ったことをさせればよい。親が介入するのは正しくない。正しくないことをするのは、俺の信条に反する。
「そんなことは、物語の主人公ならばしない……」
子供の好きにさせるのが一番だ。俺はずっとそう言ってきた。なぜなら、いつだって正しいことをする物語の主人公ならばきっとそうするだろうから。だから、今回だって――
「ミーくんのバカ!!」
ヒマリが叫んだ。スコールのような感情を乗せた彼女の声は、俺の耳を貫いて脳の中にまで響いた。
「何が正しいことです! 何が物語の主人公です! 優麗ちゃんが間違ったことをしてしまうかもですのに、それを見過ごすのが正しいです?」
ヒマリは勢いを失うことなく声を張り上げた。
「いつまでも理想の中で生きてないで、現実を見るです!! ミーくんのしたいことは何です!! ミーくん自身の思っていることは何なんです!!」
俺は、自分の正しいと思ったことをしてきた。いつだってそれでいいと思っていた。けれど、それは確かに、ただの理想なのかもしれない。そうか、理想か……。
「俺は今まで……理想ばかりを見て生きてきたのかもしれないな……。だから大学生にもなって、作家になりたいなんて言うんだ……」
いい加減、現実を見る頃だ。もういいじゃないか。十分夢は見た。そろそろ目を覚まさないと。
しかし、ヒマリは柔らかい表情になって首を振り、俺の頬に触れた。
「夢を見ることはいいことです。大切なのは、自分のやりたいことを見失わないことです。自分のやりたいことを夢や理想に押しつぶされないようにすることです。ですから、物語を作りたいというミーくんの願望を忘れない限り、夢はいいことです」
もしかしたら、この生き方を教えてくれたあの女の子も、そういう意味を込めて教えてくれたのかもしれない。夢を見て、現実を見て生きていくべきだ、と。
ヒマリは、真剣な面持ちになって言う。
「もう一度問うです。ミーくんはどうしたいです?」
だが……
「俺のやりたいこと……」
俺は、一体何がしたいんだ? わからない。今までずっと正しい行いに頼ってきたせいで、自分のしたいことがすぐには思いつかなくなってしまったのだ。
「ミーくんは、自分をさらけ出した時、何て言ったです?」
それは演技をしている時だ。昨日、ロミオになりきった俺から即興で出た、ジュリエットに対する台詞は何だった? いや、自分をさらけ出した俺は、優麗に対して何と言った?
「……俺は、あいつの笑顔を見たい。それを見ていたい」
なんとも単純で、ちっぽけな願いだ。だが、それを叶えるのは簡単なことじゃないだろう。
あいつの笑顔をもっと見ていたい。こんなかたちで優麗とお別れなんて嫌だ。あいつが幽霊になってしまうのはもっと嫌だ。だから俺は、たとえ子供っぽいと言われようとも、自分のしたいことのためにあいつを探しに行く。
「ヒマリ、ありがとう。優麗を探そう」
ヒマリは優しく微笑んで頷いた。
「はいです!」
◇2
まだ寝かせておきたい気持ちもあったが、清隆と沖野を起こして事情を話した。それだけで、頼まずとも、ふたりは当然のことのように探すのを手伝うと言い出してくれた。
一応米倉さんにも伝えておいた方がいいと思って電話を掛けたが繋がらなかった。きっと残業明けでぶっ倒れているに違いない。
仕方がない。とりあえず、俺たちは手分けをして辺りを探すことにした。清隆は街を、沖野は海の方を、ヒマリは優麗の中学校の方を探すと言ってくれたので、俺はまず日向大学に向かった。
第二体育館へ駆け込んだが、誰もいない。第一体育館についても、昨日の創立祭が別世界のことのように静かだった。そのあと、学内を端から端まで捜しても優麗の姿は見つからなかった。
もしかしたら優麗がひょっこり家に戻ってきているかもしれない。
俺はそんな甘い期待と共に一旦家に帰ってみた。が、家の中は空っぽだった。優麗の部屋も、俺の部屋も、空き部屋も……優麗がいつも過ごしていた居間にも誰もいなかった。
誰もいない。どうしてか俺は、誰もいないことに違和感を覚えた。なぜだろう。決しておかしなことではないはずなのに。今はそれが不思議で仕方なかったのだ。
しかし、すぐに答えにたどり着いた。
「最近は、ずっと誰かがいたからな……」
俺が帰ってくれば、必ず優麗とヒマリが出迎えてくれた。そのふたりが帰ってくれば、今度は俺が出迎えた。ただいま、と言えば、おかえり、と返してくれる人がいた。だが、今この家には俺だけしかいない。
「久しぶりだな……独りだけのこの感じ……」
ただいま、と言っても、その声は壁や床に吸収されていくだけで、返ってくるものは何もない。
ひとり。
その寂しさを思い出した俺は、急に背筋を貫くような寒さに襲われた。
奈落に突き立てられたポールに立っているような恐怖感。手すりも背もたれも何も自分を支えてくれるものがない不安感。
そうだ。そうだったよな。小さい頃、この家に独りだった時の気持ちは、こうだったよな……。
この四年間、優麗もずっとこの思いを抱えてきたに違いない。
「これ以上あいつを独りにするわけにもいかないな」
俺の孤独を救ってくれたのは優麗だ。今度は俺が救ってあげる番だろう。
俺は改めて外へと繰り出した。
ひとまずバス停を目指す。そこからバスに乗って少し遠くの方を探してみようと思ったのだ。しかし、バス停に着いてみると、そこには沖野の姿があった。暗い顔をしてバスを待っている。
「沖野、そっちはどうだった?」
海の方へ行った沖野だったが、手掛かりは掴めただろうか。けれど、沖野は俺の声に振り向くと、表情に影を落として首を振った。
「いな……かった」
いつもの沖野の元気がない。まるで、彼女の明るさすべてを奪われたかのように消沈している。普段優麗とは喧嘩ばかりしている沖野だが、彼女がいなくなるのは嫌だったのだろう。なんだかんだ言って、優麗と一番仲が良さそうにじゃれていたのは沖野だ。
「ねえ、川島くん」
沖野が低い声で訊ねてきた。
「優麗ちゃん、大丈夫だよね? 変なことに巻き込まれてるとか、ないよね?」
その目は、怯えて震えていた。万が一優麗の身に何かあったらということを考えると、怖くてたまらないのだろう。そんな沖野の姿は、見るに堪えなかった。
彼女を少しでも安心させてやるには、どうしたらいい。
俺は少し考えて、ある答えにたどり着いた。いや、本当のところ、考えるまでもなく答えは出ていたのかもしれない。
「警察に頼ろう」
俺の言葉を聞くと、沖野は目を見開いて驚きを露わにした。それから、悲しそうな目になって首で否定する。
「だめだよ……そんなことしたら川島くんが……」
優麗を家に匿っていたことを問い詰められて、最悪の場合捕まってしまうのではないか。そう心配しているのだろう。だが、もう少しで日が暮れる。取り返しの付かないことになってからでは遅いのだ。
「今はそんなこと言ってる場合じゃないだろう」
保身なんてものは捨ててしまえ。優麗の安全を確保して、沖野を安心させてやるにはこれが一番なんだ。
「川島くん……」
「沖野、俺は大丈夫だ」
不安げな眼差しを向けてくる沖野にそう言い、俺はポケットからスマートフォンを取り出して、三ケタの番号を入力した。
「ミーくん!」
電話マークのアイコンをタッチしようとしたところで、ちょうど到着したバスから飛び出したヒマリが俺の名を呼んだ。
そのままの勢いで、沖野にも聞こえるんじゃないかという声で叫ぶ。
「優麗ちゃんが見つかったです!!」
◇3
清隆に連絡し、沖野と共に優麗が見つかったという場所へと向かった。日は陰りはじめ、夕方になろうとしている。もうあっという間に夜になってしまうだろう。
バスで最寄りのバス停まで行き、そこから目的地の入り口まで歩くと、沖野が急に立ち止まった。
そこは、墓地公園である。
「どうしたんだ、沖野?」
「川島くん。川島くんが言うには、この先に優麗ちゃんがいるんだよね?」
「ああ」
ヒマリの頑張りを自分の手柄にするみたいで気持ちが悪かったが、そう答えないわけにはいかない。
沖野は、訝しげに眉を曲げた。
「どうして分かったの……?」
「どうしてって……」
ここにいるという確証を得た俺がおかしくなったのかもしれないと思ったのだろう。けれど、本当のことを言えば、もっとおかしくなったと思われるに決まっている。だから、
「すまん。うまく説明できないが、勘だ」
と答えておいた。すると、沖野はまだ何か言いたいようだったが、クスクスと笑った。
「勘、かあ。なら、仕方ないね。ロミオとジュリエットでも、最後はここだったし。うん、もしかしたら、本当にここにいるかもね」
「沖野……」
なんだろう。なぜか沖野のその笑顔は悲しく見えた。
いや、ちょっとした心当たりはあった。俺は嘘を吐くのが苦手だ。きっとさっきのも嘘だと見抜いて、自分の知らない俺があることを見抜いて悲しくなったのかもしれない。
ならば、この一件が終わって落ち着いたら、沖野や清隆、それに優麗に、ヒマリの存在を話そう。おかしな人だと思われたっていい。隠し事はせずにすべて話すんだ。だが、三人のことだ。ヒマリの存在をすんなりと受け止めてくれるかもしれない。それでヒマリとみんなも仲良くなって、彼女がもっと寂しくなくなればいい。そんな期待をしてしまう自分がいた。
「ほら、川島くん。ここから先は、川島くんだけで行かないと」
沖野が背中を押すような目を向けてきた。
保護者代理の俺が幽霊と二人きりできちんと話し合わないといけないと気を遣ってくれたのだろう。
「ありがとう、沖野」
俺は沖野にお礼を言って墓地公園の中へと入って行った。
墓地公園の敷地は、鳥瞰図で見ると縦長の長方形に広がっている。その中央を通路が通り、脇にたくさんの墓が並んでいた。
優麗は、その一番奥の墓の横に体育座りをして座っていた。白いワンピースを着て、一応幽霊の格好をしているようだ。じっと空を見上げ、茜色の空が紫に変わっていく様子を観察している。
「優麗」
俺が呼びかけると、優麗は目を丸くして振り向いた。
「よくここが分かったわね。でも、どうして……」
「心配したんだぞ!」
優麗が言葉を言い終える前に、俺は彼女との距離を一気に詰めて抱きしめていた。彼女を心配していた感情が爆発し、身体が勝手に動いたのである。
「光輝……?」
あまりに突然のことに呆然とする優麗に、俺は怒鳴るように捲し立てる。
「お前が昨日劇の中で言ったよな。あなたが死んだら悲しむ人がいるって。お前が死んだら、悲しむ人がいないなんて思うなよ!!」
「死ぬ? え、ちょっと、光輝! 何を言って!」
戸惑いの声を上げる優麗。俺は彼女を包む腕に力を込めた。
「黙ってろ!」
「えぇ……」
「お前はな、俺の家族なんだ! 家族がいなくなったら、どう思うか分かるか!」
なんだろう、この気持ちは。どうして俺は怒鳴ってなんかいるんだ。
自分の思いがうまく伝わらなくて、相手のことが愛おしくて……。
……そうか、これが家族の気持ちというやつなのだろう。
いっしょにいると気が付きにくいものだが、いなくなってやっと気づく気持ち。いっしょにいると温かくて、幸せになるんだ。生きていると分かるだけでも、なんとなく安心できるんだ。この気持ちは、ちょっとやそっと冷たくされたところで無くなるものではない。たとえ、ずっと仕事を優先して放っておかれたとしても……。だって、家族なのだから。
「ありがとう、光輝。でも、わたしは死ぬつもりなんてないわよ」
優麗の声に、俺は虚を突かれてしまった。
「? は?」
「だから、死ぬつもりはないわ」
「だが、昨日……ッ!」
そこにいるかもしれない両親の姿が見えないことを嘆き、しかし両親に会わなければならないと決意を露わにしていた。だが、待て。だからといって、彼女は幽霊になりたいとも死ぬとも一言も言ってないじゃないか。
「すべては俺の早とちりだったのか……」
自分の誤解が先走りしたことだと気が付くと、安堵と自分に対する呆れが混ざって、急に脱力してしまった。そして、今までの自分の行動を思い返し、とてつもない羞恥心に襲われた。
「うわぁ、すまん優麗! 俺、変なことを!」
優麗から離れてその場に土下座した。墓地で女子中学生に土下座する大学生という、シュールな絵面がそこにはあった。
「別にいいわよ。その、嬉しかったし……」
優麗が小さな声で呟いていた。顔を上げてよく見ると、その顔は夕日に照らされて真っ赤だった。口角はわずかに上がり、微笑んでいるように見える。俺が今日ずっと見たかった顔が、そこにあった。
それを目に収めることができると、さらに安心したのか、仮の保護者として優麗にしっかりと言っておかなければならないことが頭に浮かんだ。
「だが、もう二度とこんなことはするなよ。家出もなしだ。すげー心配したんだからな!」
「ええ、ごめんなさい」
叱られても、優麗はなぜか嬉しそうだった。でも、反省はしている様子ではあるから、この話はもうここで終わりにしよう。
俺は話題を変えがてら気になったっことを訊いてみる。
「じゃあ、お前はなんでこんなところにいるんだ?」
「わたしね……」
自殺して幽霊になるのではないのなら、いつものように人を驚かして幽霊を呼び出す儀式とやらをせずに、どうしてこんなところにいるのだろう。そう思って訊ねたのだが、優麗は、俺が彼女の事情すべてを訊いていると思ったのか、その生い立ちや家出の理由についてを話し始めた。
前に訊いても答えてくれなかったことだったが、こうして今はすんなり話してくれるところを見ると、俺のことをある程度は認めてくれたのかもしれない。
「……だから、今日ここで探すのを最後に、きっぱり諦めて帰るつもりだったのよ」
話を聞いている間ずっと、いつ言い出そうかと迷っていたのだが、結局最後まで聞いてしまった。俺は、彼女とはフェアにありたかったので、軽蔑される覚悟をして告白する。
「すまない、優麗。実は、俺はそのことをもうすでに他の人から聞いていたんだ」
「そう」
優麗の反応はなんともあっけないものだった。きっと激昂して責めてくるのではないかと思っていただけに、拍子抜けした感じだ。
「誰から聞いたとか、問い詰めないのか?」
「問い詰めるまでもなく犯人は明白よ」
彼女は苦笑していた。言われてみれば確かに、俺にそんなことを言いそうなのは米倉さんくらいしかいない。
それはそうと、
――……だから、今日ここで探すのを最後に、きっぱり諦めて帰るつもりだったのよ
という先の彼女の言い草だと、もう両親に会うのは諦めてしまったようである。いや、本当は最初から、幽霊なんて存在しないと思っていたのかもしれない。つまり、彼女の家出は初めから、両親の死を割り切るためのものだったのだろう。
なんとなくだが、俺はそれでは駄目な気がした。大体の人はこういう時、自分で割り切って生きていく、大人になっていくのだと思う。しかし、優麗の場合、それではいけない。
割り切るのではなく、ちゃんと受け止めなくてはならない気がしたのだ。
俺は幽霊が本当に存在すると知っている。もう少し頑張れば、俺を間に挟んでも両親と会話することができるかもしれない。もう一度会えば、ちゃんと受け止められるような気がする。だから、彼女には諦めて欲しくなかったのだ。
「なあ、優麗……」
諦めるな、そう言おうとした時――俺の視界の端に光る球がいくつも漂ってきた。ふと空を見上げれば、もう夜はすぐそこで、火の玉が出てもおかしくない頃である。さらに、墓地という場所が悪かったのだろう。次の瞬間、至る所からおびただしい数の火の玉がふわりと現れ出した。
「うっ……ッ!」
よけきれない数の火の玉に囲まれて硬直している俺を見て、優麗が眉を顰めた。
「どうしたの、光輝?」
「な、なんでもない」
とは答えたものの、正直今すぐダッシュで逃げたい気分だった。けれど、もう少し、優麗に諦めるなと言うまでは逃げるわけにはいかない。大丈夫だ。昨日の舞台の時は、これに似た眼光を浴びても耐えられたじゃないか。だから、もう少し……。
「大丈夫です、ミーくん?」
俺たちを二人きりにするために少し離れたところで様子を見ていたらしいヒマリが、俺を心配して寄って来てくれた。すると、火の玉の一つがすぅっとヒマリに吸い寄せられていき、彼女の胸の中へと入ってしまった。
「ヒマリ、それ……」
「ああ、えっと、ごくたまにヒマリのようになりたいと思った幽霊が、こうしてヒマリの中に混ざってくるです。だから……」
俺に説明を始めたと思ったら、唐突に停止ボタンを押されたように固まってしまった。
「ヒマリ?」
「ずっとこの中にいた……です」
不安になって訊ねると、何かを呟き、俺に満面の笑みを向けてきた。
「優麗ちゃんのご両親を見つけたです! 今すぐ連れてくるです。ちょっと待ってるです」
「お、おう」
ヒマリは墓の陰へと消えて行ってしまった。
ヒマリの勢いに押されて訊くのを忘れてしまったが、優麗の両親を見つけたとはどういうことだろう。なぜこのタイミング見つかったのだろう。
なにはともあれ、時間はできた。あとは俺が勇気を振り絞るだけだ。自分をさらけ出せ。
「な、なあ、優麗。両親の幽霊探し、もう少し諦めないでみないか?」
「え……」
優麗は驚いたように俺を見て、それから苦笑した。
「何を言っているのかしら? 本当は幽霊なんてもの、この世には……」
「いる! 存在する! 今だってここを飛び回っているし、いつだって俺たちのそばにいる!」
「光輝……」
優麗は、どうして俺がそこまで言い切るのか分からないといった様子だった。だが、嘘を吐くのが苦手な俺がこうも熱く言い張る姿に、何か気付いたのかもしれない。
そんな優麗に続けて語り掛ける。
「優麗、お前には見えないだろうが、実は幽霊なんて身近な存在なんだ。そこら中にいるんだ。その中には、お前の両親もいるかもしれない。だから諦めるなよ……大人ぶって、割り切ろうとするなよ。ちゃんと現実として受け止めてやれよ」
そうでなければ、ちゃんとお別れをして生きられないだろ。非現実を通さずに現実を見るということにはならないだろ。いつまでも死人に捕らわれてしまうだろ……。俺には、お前がちゃんと現実を見て生きられるようになってほしいんだ。
優麗は目を瞑って俯いた。それから、俺の心の声まで届いたかのように顔を起こして俺を見た。
「わかった……わ。受け止めるために……」
もう少し諦めない。そう彼女の唇が動こうとして、固まった。
俺の後ろの方を見て、目を見開いて硬直している。それはまるで、幽霊でも見たような表情だ。
振り向いてみて、その理由が分かった。
火の玉が浮かんでいる奥に、ぼんやりと浮かぶ青白い光。それは二人の大人の男女のような形をしており、誰かに似ている面影を持っていた。そう、あれは――
「お父さん……お母さん……」
――優麗の両親である。
優麗の目からは涙が溢れ出した。
会いたかった。悲しかった。寂しかった。
今まで溜め込んでいた感情や思いが溢れ出すように、彼女の目から流れていた。
「優麗」
彼女の背中を押してやると、優麗は力強く頷いて走った。
「お父さん、お母さん!」
彼女は二人の幽霊のもとへ駆け寄り、いくつか言葉を交わしていた。たくさん話したいことがあって、口が追いついていないという様子だ。それから我慢しきれなくなったかのように、お互いに抱擁しあっているのが見えた。大きな蛍の舞う中でのその光景は、なんとも神秘的で、美しいなと思った。
ともかく、これで優麗は現実を受け入れて、現実を見て生きていけるだろう。ここで両親に出会えたことは、今後の彼女の人生に大きな影響を与えるはずである。きっと優麗は、現実を見ていけるだろう。
しかし、どうしてだろう。三人の姿を見ていると、寂しい気持ちになってきた。
「……」
羨ましい。どことなくそう感じている自分がいた。これ以上近くにいたら、視界が滲んできそうだ。
それに、まあそうだな。せっかくの家族水入らずだ。もっと離れていよう。
火の玉が怖かったが、俺は墓地の最奥まで行き、優麗たちが見えない位置まで来た。その場でしばらく火の玉に怯えつつブルブル震えていると、温かい声がかかった。
「無事に会えてよかったです……って、どうしたです? ミーくん、すごく嬉しそうな顔してるです」
ヒマリが現れたことでこんなにも安心したのは初めてだ。今ならわかる。ヒマリの存在のありがたさ。俺は若干涙目になっていた目をこすってヒマリに言う。
「ありがとな、ヒマリ」
「? 変なミーくんです」
疑問符を浮かべつつも笑っているヒマリに訊ねる。
「それにしても、ヒマリ。どうして優麗の両親を連れてくることができたんだ?」
「実は…………うっ!?」
だが、ヒマリは、いつものように種明かしをすることもなく、突然苦しそうに倒れ込んでしまった。
あまりに思いがけない出来事に、一瞬どうしていいか分からなくなってしまった。停止した脳に急いで鞭を打って正気を取り戻すと、ヒマリを抱き起して呼びかける。
「ヒマリ!? どうしたんだ、ヒマリ!」
ヒマリの顔には、いつもの血色のよさはなく――幽霊らしく――真っ青だった。それに、足だけではなく、全身が透けているように見える。
一体何があったんだ! どうしちまったんだよ、ヒマリ!
けれども、そんな状態でもヒマリは力なく笑って、ゆっくりと唇を動かした。
「えへへ……ちょっと無理しちゃったです」
「無理? 無理とはいったい何のことだ?」
「実は……ヒマリは、ミーくんが知るよりもっと早く、優麗ちゃんの事情について知っていたです……ですから、夜になると一人で優麗ちゃんのご両親を探していたです」
ヒマリが夜な夜な用事があると言って家を出ていたことを思い出した。こいつは、ずっと優麗の両親を探してきたんだ。
「ですが、それでは……見つからなかったです……おかしいと思ったです」
ヒマリは、目を細めて微笑んだ。
「さっき気が付いたです……優麗ちゃんのご両親は、ヒマリの中にいたです……」
優麗の両親。つまり、その幽霊は、ヒマリの身体を作る一部だったのだ。ヒマリはさっき、ごくたまに火の玉が自分に入ってくることがあると言った。優麗の両親も、そうしてヒマリの中に入っていたのだろう。
「だから、ヒマリは自分の中の二つの幽霊を表に出して、力をあげたです……優麗ちゃんにも見えるように……」
そんなことができるのか。いや、普通はできるはずがない。優しいヒマリのことだ。できていたら、とっくに全部の幽霊に対してそうしてあげているだろう。
ヒマリは、掠れた声でもう一度笑った。
「だから……ヒマリ……消えちゃうかもです」
それなのに、どうしてお前はそんなに笑っていられるんだよっ! どうしてそこまで嬉しそうなんだよっ!
ヒマリがいなくなるのは嫌だ! こいつも俺の大切な家族なんだ!
俺は、ぐちょぐちょになった声で叫ぶ。
「ヒマリ! 大丈夫だ! お前なら大丈夫だ! そうだ、俺な、このあと優麗たちにお前のこと話そうと思うんだ。そしたら、お前もみんなと……」
そうしたら、もっともっと楽しくなるぞ。もっと寂しくなくなるぞ。だから、今ここで消えるな、ヒマリ。……そう言いたくても、声が出なくなってしまった。
ただ、嗚咽を漏らすことしかできない俺の頬に、ヒマリが優しく手を置いた。
「ヒマリ、すごく寂しかったです。ですが、ミーくんと出会えて、いっぱい遊べて……ヒマリ、楽しかったです」
ヒマリはにこりと笑った。
こんな時だが、その笑顔を見て思い出したことがあった。
それは、幼い頃の記憶。あの家でずっと独りだった俺のもとによく遊びに来てくれた女の子との思い出である。彼女は不思議な子で、名前を訊いても、自分には名前がないと言った。だから俺はこう言ったんだ。
――「名前がないなら、おれが付けてやるよ。そうだな……お日様みたいな花に似ている気がするから、ヒマリ、なんてどうだ?」
そうすると彼女は、向日葵みたいな笑顔をしてこう言ったんだ。
――「ヒマリ……いい名前です! ありがとうです、ミーくん!」
すべて思い出した。
ヒマリは、ずっとあの家にいたと言っていた。そう、ずっといたんだ。俺の幼い頃から、ずっといっしょにいたんだ。
「ヒマリ……あの時の女の子はお前だったのか」
ヒマリは、驚きと喜びが入り混じった顔をして頷いた。
「ミーくんといっぱいお話作って、それで劇をしたりして……ヒマリ、とっても幸せだったです……とっても感謝です」
「バカ! お礼を言うのは俺の方だ! 寂しくて堪らなかった俺を救ってくれたのはお前だ! 物語を作ったり、演じたりする楽しさを教えてくれたのはお前だ! 俺の人生は、お前がいたからここまで楽しかったんだ!」
俺の目から落ちた涙がヒマリの頬を伝っていく。
ヒマリにはもっとありがとうを言いたい。もっと話したい。もっといっしょにいたい。
今まで忘れていた分も、昔お世話になった感謝をしたい。なのに、もうお別れをしなければいけないなんて……ッ!
「ミーくん、泣かないで、です……ミーくんは笑顔が一番……です。最後は笑顔が、いいです……」
ヒマリにそこまで言われてしまったら、笑わないわけにはいかないじゃないか。俺は頑張って笑顔を作ろうとする。が、ちゃんとできているか分からない。
ヒマリは俺の顔を見て満足そうに歯を見せて笑うと、最後に眠るように目を瞑って、
「ミーくん……ありがと、です……」
と言い残して消えていった。
周りを浮かぶ火の玉に混ざるようにして、たくさんの光の粒となって空へと浮かんでいった。
「ヒマリっ!」
ヒマリは、消えたのだ。
俺は、その事実をすぐには受け止められず、光の粒を抱き寄せるようにしながら泣き叫んだ。
しばらくはこの現実を受け止めることができないかもしれない。ヒマリという家族を失った悲しみは、そう簡単には癒えない。けれど、いつかはちゃんと立ち直らなければ、ヒマリに怒られてしまうだろう。
だから、俺はもう一度立ち上がるのだ。
一人の幽霊がくれた、生きる力を使って。