第六話 「ゆうれいと演じる」
◇1
音響、というと、一見地味で、それがなくても劇は成立するかのように思われる。
しかし、実際には、音響が芝居すべての雰囲気を作ると言っても過言ではなく、それがあるかないかで劇の仕上がりに天地の差が開いてしまうのだ。もちろん、プロならば音響なしでも表現することが可能かもしれない。だが、俺たちは学生であり、素人なのである。そんな芸当ができるはずもなかった。
『音響をやるはずだった先輩が盲腸で救急搬送されて!! 三日間は入院するって!!』
その言葉を聞いた時、俺の脳内では様々な考えが巡りだした。
音響がいないのならば、舞台は中止にするか……ッ! いや、演劇サークルの立場はただでさえ危うい。今回のステージは後から自主的に引き受けたものだ。これを当日に断るなんてことがあったら、サークルの維持が本格的に難しくなるかもしれない……。
だったら、音響なしで舞台をやるか。……いや、駄目だ。効果音やバックグラウンドミュージックがなければ、俺たちの演技力ではかたちにならない場面が出てくるだろう。
では、残された答えは一つだ――
「――代わりを探そう」
逃げることはできない。けれども、強引にそのままやり通すわけにもいかない。ならば、新たな音響を速やかに探すしか道はない。
だが電話からは、清隆らしからぬ弱気な声が聞こえてきた。
『探すたってどこをだよ? 熟練の音響でも一発で合わせれる人なんていないぜ?』
「そんなことを言って探さなければ絶対に見つからない。音響なしで本番を迎えることになる」
ここまでこんなに努力をしてきたのだ。失敗どころか、中途半端な舞台を披露するのは絶対に嫌だ。
「探そう」
意志を込めた俺の声に、清隆は息を呑んだ。きっと清隆も俺と同じ思いなのだろう。
『……わかった……さがそうっ! 沖野さんや先輩、オレの知り合いにも探すよう連絡してみる!』
清隆が動き出すことで、すべての歯車が連動して回り出す気がした。ふと、公演をしようとこいつが言い出した時のことを思い出した。こいつというエンジンがあってこそ、動き出したということを。いつだってそうだ、こいつは、みんなを動かす力を持っている。
俺は優麗に軽く事情を説明すると、家を飛び出して学校へ向かった。
時刻は朝7時半。創立祭の開始は午前9時だからまだ結構時間があるのだが、華やかな装飾が施された正門をくぐっていく学生たちは多かった。
俺はその学生たちを追い越して学部棟へと向かった。まずは顧問の先生に協力を仰ごう。そう思ってのことだったのだが、その考えはあえなく潰えることとなる。先生の研究室前に行くと、メモがドアに貼り付けてあったのである。メモの文面には、出張に出かけるということが書かれてあった。
「こんな日に限って……っ!」
焦りによって苛立ちが増した。俺にとってこれが一番可能性のある頼みの綱だったのである。それがこうも簡単に切れてしまった。次の……次のあてを探さなければ。
むしゃくしゃしつつ踵を返して走す。どこに行けばいいのか、誰を頼ればいいのか分からない。だから、すれ違う知り合いに片っ端から声をかけ、音響をやってくれないか頼んだ。しかし、今日は創立祭である。大学へ来ている学生は各々自分の出し物の仕事があるせいで、正午から一時間拘束されることが可能な人は誰一人としていなかった。かといって、今日用事がない学生に電話しても休暇を使ってどこか遠くへ遊びに行っている学生ばかりだ。また、たとえ時間がある人がいても一つの劇の音響という大役に怖気づいて引き受けてくれる人はいなかった。
そうして当てずっぽうに走り回っている内に、時刻は午前9時を回ってしまった。集合時間を三十分も過ぎてしまっている。このままでは、本番前に最終確認として一度通して演じることができなくなってしまうかもしれない。
「諦めるべきなのか……っ!」
大成功を求めて大失敗になりかねない。ならば、小さな成功を求めて失敗をなくすべきなのかもしれない。物語の主人公ならば、こんな時どうする……?
「何かあったです? ミーくん」
学内の道端で立ち止まって考え込んでいると、ヒマリが声を掛けられた。昨晩も用事とやらに出かけて行ったようだから、今さっき帰ってきたのだろう。それで俺がいなくて異常な事態に気付いたのか、緊迫した表情で駆け付けたようだ。
話している暇はないと思いつつもヒマリに事情を説明すると、彼女は真剣な顔になって言う。
「もうミーくんは集合しなきゃです。最後に電話帳を見てみるです」
俺は言われるがままスマートフォンの電話帳を開いた。この中から目ぼしい名前を探して電話を掛けろと言うのだろう。俺が画面をスクロールすると、ヒマリが覗き込んできた。そうして電話帳を流して見ていくと、最後のほうで俺たちふたりが目を留める名前を発見した。
『……だからって、なぜアタシなんかに電話したのかしら?』
電話の相手は、米倉歩さん。優麗のまたいとこである。
「ほら、米倉さんって、日向大学の演劇サークルOGなんですよね? しかも、音響をやっていたって」
それは米倉さんと初めて会ってそのまま大食いに付き合わされた時。米倉さんがちらっと言っていたことだ。
『確かにそうだけれど、川島光輝君。今日は金曜日よ。アタシはあなたのストーカーをしているせいで、真面目に出勤しなければ仕事が終わらないわ』
「それは米倉さんの自業自得でしょ……」
人を勝手にストーカーしておいてなんて言い草だ。
『ともかく、アタシは忙しいわ。切るわよ』
きっぱり断って勝手に電話を切ろうとする米倉さんに、努めて平静を保って言う。
「いままでもそうして優麗を独りにしてきたんですか?」
『……』
怒って電話を耳から離してしまったかもしれない。けれど通話は切れていない。俺は聞いていると信じて話し続ける。
「何か特別なことでもなければって言いつつ、結局ずっとそんなかんじで仕事だけに向き合っていたんじゃないんですか?」
『……』
「今日は俺たちにとっても大切な日ですが、もうとっくに優麗にとっても大切な日でもあるんですよ。あいつだって練習を頑張ってきた。自分のやりたいことの時間を削ってまで付き合ってくれたんですよ。だから、その努力の成果を見に来てやってはくれませんか?」
きっと優麗は、ここ四年間、参観日や運動会などの行事に見てくれる人が来たことはなかっただろう。努力を見てくれる保護者がいなかったのだ。だったら、これは久しぶりに彼女の努力を誰かが見てくれる絶好の機会になるのではないか。俺は、そういった思いも込めて電話をしたのである。
しかし、米倉さんは呆れきったため息を吐いた。
『……はあ』
駄目だったか。それもそうだ。社会人に仕事をサボれと言っているのだ。現実的に考えれば、そんなことは無理だと分かる。
『行くわ』
ほら、やっぱり。……って、え?
「今なんて……?」
『行くって言ったのよ』
「ほ、本当ですか!」
正直、勝算は薄いと思っていた。当たって砕けろの精神で頼んでみたのだが、まさか成功するとは……。米倉さんも、優麗の努力を見たいと思ったのだろう。多少無理をしてでも。
『ええ、嘘を吐いても仕方ないでしょう。ちゃんと行くわよ。けれど、これであの子に対して罪滅ぼしができるとは思わないわ。あなたの言った通り、アタシは今まであの子を独りにしてきた。もしかしたら、これからも……』
こうして今日いきなり仕事を休むことで、今後彼女は職場での地位があまりよくないものになるだろう。そうすれば、今までよりもさらに忙しくなるかもしれない。たとえ、優麗が無事に米倉さんの家に戻ったとしても、また優麗に寂しい思いをさせてしまうだろう。
『だから、アタシは一生あの子に罪滅ぼしをして生きていくことになると思うわ』
「米倉さん、ありがとうございます」
『言ったでしょう? こんなことで罪滅ぼしになるなんて思わないって』
しかし、それは罪なのだろうか。優麗のために頑張って働いて、それで寂しい思いをさせてしまうことは完璧に悪いことだと言えるだろうか。それは、保護者として、仕方のないことなのではないだろうか。
「だとしても、米倉さんはもう十分優麗の親だと、俺は思いますよ」
気が付けば、そんな台詞が口から出ていた。言った後でなんだか恥ずかしくなり、誤魔化すように話を変える。
「あ、米倉さん。今さらですが、おつり、ありがとうございました」
電話越しに米倉さんはくすりと笑った気がした。
『さて、何のことだったかしら?』
◇2
第二体育館は、第一体育館でステージをする団体の控え室となっていた。今日一日でステージに上がる数々の団体の荷物やら道具やらが至る所にまとめて置いてある。普段は閑散とした館内も、今日だけは活気に満ちていた。
俺たち演劇サークルは体育館の右奥にスペースを取っている。昨日の時点から場所取りができたため、こうしていい場所が確保できたのだ。演劇サークルのメンバーと、清隆に呼ばれてやってきた助っ人、そして優麗が集まるその場へ俺とヒマリは駆け込んだ。
「光輝、音響が見つかったって?」
まず真っ先に清隆が訊いてきた。その表情はまだ落ち着いていない。音響が見つかったことは電話したのにどうしてだろうと思ったが、すぐに答えが分かった。俺の顔が固いのだ。これでは、まだ窮地を脱していないことはバレバレである。
米倉さんの話では、できる限り早く職場で許可を貰って駆けつけるが、間に合うかどうかは分からないとのことだった。
心配させるのはよくないが、俺は嘘が苦手だ。どのみちバレてしまうだろう。ここは正直に現状を話すことにした。
「ああ。だが、たぶん来るのはギリギリになると思う。それまで、来ると信じて予定通りことを進めよう」
それを聞くと場の一同が安堵と焦りの混ざったような息を吐いた。ひとまず首の皮が繋がったが、まだまだ安心はできないといった様子。しかし、いつまでも泣きごとを言っていても現状を打破できるわけでもない。
「予定より時間が押しているが、一度通しをやっておこう。音響はなしとなるが仕方ない」
俺の声にみんなが頷いた。
本番前の緊張感に足されて、もし音響の代理が間に合わなかった時のことを考えると、皆各々の動きが硬かったように思われる。けれども、やらずに貧乏ゆすりをして待つよりはいくらかマシだっただろう。ちょっとは緊張がほぐれると共に、焦りを忘れることができた。
そうして時間は過ぎていき、本番十分前。
俺たちはそれぞれの衣装に着替え、第一体育館の舞台袖に集合していた。
米倉さんは、まだ来ていない。さすがに俺たちの焦りはピークへと達し、舞台の緊張感と共に重たい空気が張りつめていた。
本当に米倉さんに頼んでよかったのだろうか。もう少し他の人を探せば、もっと早く音響が確保できたのではないか。あるいは、音響なしでもかたちになるよう努力するべきだったのではないか。
焦りとは別に後悔までしだした時、ヒマリが気に掛けるような声を上げた。
「大丈夫です、ミーくん……?」
「あ、ああ……」
と、答えた俺の声は震えていた。まったく大丈夫そうには見えない。
そうだ、ここにはヒマリという幽霊がいるのだ。俺はふと、ある考えが浮かんだ。
「なあ、ヒマリ。お前、米倉さんが今どこにいるかは分からないのか?」
しかし、ヒマリは申し訳なさそうに首を振った。
「ヒマリも自由に空が飛べるわけでもないです。それに米倉さんの居場所が分かるわけでもないです……」
「そうか、そうだよな……」
今朝、ヒマリが帰ってきたであろう時間から俺にたどり着くまでの時間は結構あった。その間、ずっと彼女は俺のことを探していたのだろう。いくら幽霊といえども、レーダーが付いているわけでもないから人探しができるはずもないのだ。
せっかく安心できる方法を見つけたと思ったのに、がっかりしたせいでさらに焦りが増してきた。
そんな俺を見て、ヒマリが優しくて温かい微笑みを向けてきた。
「大丈夫です。ミーくんなら、きっとどうにかなるです」
不思議と、ヒマリに言われると本当にどうにかなるような気がしてきた。根拠なんてない。けれど、重く垂れさがった雲に晴れ間が差すような笑顔に、俺は心を落ち着かされたのだった。
――バコッ
「いてっ!」
ヒマリに気を取られていると、唐突に背中に衝撃が走った。
振り返れば、そこには優麗が腕を組んで立っていた。俺はその時初めて優麗の衣装をはっきりと視界に収めたような気がする。以前衣装合わせした時とは違う服、ジュリエットのパーティー用ドレスである。俺たちはみんなパーティー用の衣装に身を包んでいるが、優麗のものが一番華やかだった。やはり白が基調のドレスなのだが、すっきりとしたデザインで、露出は少なめである。けれど、その分スタイルがよく見える形をしており、優麗のスレンダーながらも出るところは出た身体のラインが強調されていた。髪は後ろで軽く一つにまとめてあり、いつもよりも大人っぽい印象を受ける。本当に一瞬だが、優麗のことが綺麗に見えてしまった。きっと不意打ちだったからだろう。
すぐに正気に戻って、たった今俺に与えたであろう打撃に関して問い詰めようと思うと、優麗に先手を突かれて口を出されてしまった。
「光輝、そんな冴えない顔してても、どうにもならないでしょ」
強い声音だったが、その額には汗が見える。音響が間に合うかどうか、うまく演じることはできるかどうか。そんなことを考えて彼女も緊張しているのだろう。
「ああ」
返事をして優麗の頭を撫でてやると、珍しいことに大人しく撫でられた。
その様子を見て、清隆が浮ついた声を上げた。
「光輝だけずるいぞ~。オレたちも優麗ちゃんと絡みたい! みんなで円陣組もうぜ! 円陣!」
これに沖野も乗っかる。
「そうだね。やろ、円陣」
半ば強引に清隆に引っ張られ、俺たち四人は円陣を組んだ。しかし、組んだはいいものの誰も声を上げようとしない。
「ほら、清隆。お前が何か言えよ。部長なんだから」
すべてはこいつから始まったことだ。適任だろう。
清隆は心なしか照れるような笑みを浮かべて口を開く。
「みんな、ここまでありがとう! 音響はどうなるかわからねーが、どういう結果になろうとこれがオレたちの初めての舞台だ。思いっきりやろうぜ!」
「「「おー!」」」
観客に聞こえないように、俺たちは小さめの掛け声と共に円陣を解いた。気合が入るような入らないような微妙な声だ。だが、少なくとも、こうして円陣を組むことで一体感が増し、自信をつけることができたと思う。
けれども、その自信も体育館内に響き渡るアナウンスによって吹き飛ばされてしまう。
『本日は、日向大学創立祭にお越しいただき、誠にありがとうございます。これより、演劇サークルによる演劇を開演いたします。開演に先立ち、お客様にお願い申し上げ……』
タイムリミットだ。もう舞台に上がらなければならない。結局俺たちの前に米倉さんは現れなかった。あとは調光室の方に直接入っていることにかけるだけだが、その希望は薄いだろう。
最初は全員がステージに上がらなければならない。四人はステージへと歩いた。
また少し緊張に精神を支配されそうになった時、背中からヒマリの声が降りかかる。
「ミーくんや優麗ちゃん、みーんなの頑張りは、ヒマリがちゃんと見てるです!」
そうだ。ヒマリはずっと俺たちの傍にいて、いつだって俺たちを見てきてくれた。俺にはそれが、ものすごく心強いことのように思えた。
「おう。見ててくれ、ヒマリ」
自信満々にそう言ってステージに繰り出した。
俺たちがステージの配置に着いたところで、アナウンスが終了しようとしていた。これが終わると、あとは幕が開いて公演の開演となる。
『……それでは、演劇をお楽しみください』
幕が上がり始めた。ゆっくりと、シャボン玉が昇って行くような速さで。
できた隙間から、真っ暗な闇に光る眼光がいくつも並んでいるのが目に入った。それはまるで夜道を漂う火の玉が凝縮したように見え、背筋をぞっとさせるには十分の迫力だった。
だが、呑まれていけない。これから一時間、俺は立ち向かわなければならないのだ。逃げるのは、もう終わりだ。
幕が上がりきったところで音楽が鳴り始めなければ、米倉さんは間に合わなかったということになる。それが本当のタイムリミットだ。
俺たちは幕を引き上げるモーターの音に集中した。本当は十秒未満のはずのその時間がひどく長く感じる。この体育館の天井はそこまで高かっただろうかと感じるほどに。
そしてついに、モーターの音が鳴り止んだ。
音楽は――始まらない。
静かに、ただじっと、幕が上がりきってもその場でマネキンのように身動きを取らない俺たち四人。いつ劇が始まるか、誰から言葉が出るかと期待する観客たち。
……音響は、なしでやろう。
そう頭を切り替えた時だった――――音楽が鳴り始めたのだ。
曲調はロックなアップテンポ。最初のシーンで流れるはずの曲だった。
米倉さんが、間に合ったのである。
飛び跳ねたかった。が、それを堪えて、時間が止まったかのようなステージの中、俺だけが観客を向き、台詞の第一声を吐き出した。
「『これは、運命に捕らわれた若者たちの物語……』」
◇3
主役の他に、もう一つ俺が請け負う役――ナレーションの台詞を終えると、俺はロミオとして自然にパーティーの中に入って行った。
俺たちが作った現代版『ロミオとジュリエット』は、高校主催のパーティーで、俺の演じるロミオが優麗の演じるジュリエットに一目惚れしてしまうところから始まる。
積極的な性格のロミオは、ジュリエットに近づこうとダンスに誘うのだ。
「『今日ここに出席した時からあなたの輝きに目を奪われておりました。どうか、この私に一曲お付き合いいただけないでしょうか?』」
ロミオ(俺)が膝をついて手を差し出すと、ジュリエット(優麗)は少し考えるような仕草をしたものの快く手を取った。これが二人の出会いである。
この後、場面は変わり、ロミオやジュリエットの家の関係などが描写されていく。
実はロミオはマフィアの息子で、ジュリエットは警察庁長官の娘であるため、両家は対立する関係にあったのだ。さらに、ジュリエットにはパリスという許嫁までいた。
そこまでふたりが各々気付いた時、あのバルコニーでの有名なシーンに入る。
ジュリエット(優麗)は台の上のバルコニーから愁え顔で嘆く。
「『ああ、ロミオ。あなたはどうしてロミオなの? せめてお家の名前を捨てさえしてくれれば……』」
自分の愛してしまった人は、自分とは決して結ばれることのない人。親同士が勝手に喧嘩をしているからって、幸せになることを阻まれた気持ち。それは本当にやるせないものだっただろう。
「『運命とはなんて残酷なんでしょう。私の願いが叶うのなら、どうかロミオをここに連れてきて』」
ここで、茂みからロミオ(俺)が姿を現す。
「『ジュリエット、待ってくれ!』」
普通に考えれば、不法侵入である。万が一、ジュリエットに脈がなかった時のことを考えると、ロミオのしていることは本当に恐ろしい。
こうして互いが両想いであることを確かめたふたりは、さまざまな家の事情を抜きにして愛し合っていく。ロミオは、知り合いのシスターのローサ(沖野)や親友のマキューシオ(清隆)に相談をしながら、徐々にジュリエットに近づいていくのだった。
そして、二人は愛を育んでいき、内密ではあるが結婚をするところまで到達した。これから何もかもがうまく進んでいく。そう思った矢先、ジュリエットのいとこであるティボルト(これも沖野)とマキューシオがふざけてナイフで決闘をし始めたのだ。これを慌てて止めようと間に入ったロミオのせいで、ティボルトがマキューシオを殺してしまう。
言い方が悪いが、マキューシオの死ぬ場面は見所だ。身体に剣の傷があっても、空元気で最後にとても長い詩の台詞を吐いてから死んでいく。それはまるで、口から生まれてきたという彼の人間性を最期まで表しているかのようである。
ロミオ(俺)に抱えられたマキューシオ(清隆)が傷の深さを訊かれたところからそれは始まる。
「『井戸より浅くて、教会の戸口よりも小さいさ。でもな……』」
ここから長い台詞が続くが、それを彼は淀みなく吐いていった。その上、時々見せる傷に痛む仕草は、非常にリアリティがある。
脚本を書いている時から清隆はこのシーンの台詞を削ることに酷く反対していた。さらに、彼はこの役に真っ先に立候補した。きっと清隆は、マキューシオというキャラクターが好きなのだろう。それだけに、彼のこの演技には、魂が入っているような気がした。
しかし、マキューシオからふっと力が抜ける。
マキューシオは、死んだのだ。
これに激昂したロミオは、自分のせいであるということにも気付かず(本当は気付いていたかもしれないが)敵討ちとしてティボルトを殺してしまうのだった。
このことにより両家の溝はさらに深まり、ロミオは町を出て逃亡生活をすることになる。それをきっかけに、ジュリエットはロミオと駆け落ちすることを決意し、ローサといっしょにその作戦を立てる。しかし、逃亡生活をしていたロミオには駆け落ちの作戦内容がうまく伝わらないまま、駆け落ちの作戦は実行されてしまう。
墓地で待つというジュリエットのもとへ行く途中、ロミオは彼女の許嫁のパリスと会って決闘する。パリスは拳銃を、ロミオはナイフを使うという圧倒的不利な闘いである。ちなみに、パリスを演じるのは清隆だ。さっきまで友人だったはずの役者が、違う衣装を着て出てきたことに観客たちは多少なりとも困惑したようだったが、清隆の演技を見てあっという間に順応してくれた。
パリスを倒し、ロミオは墓地へと到達する。そこには、睡眠薬で眠ったジュリエットの姿があった。さあ、クライマックスである。
非常に心配だったが、ここまで音響のミスは小さなタイミングを除いてほとんどなかった。大学四年間を演劇サークルの音響に捧げてきたという米倉さんの話は本当だったようだ。
そこからも場面が進み、何事もなく劇を終えることができる。そう思われた――が、違った。
「『うそ……うそよ! そんなはずはないわ!』」
毒を飲んで倒れたロミオ(俺)をジュリエット(優麗)が発見し、抱き起した時のことだ。
――予定とは違う音楽が流れ始めたのである。
曲調は静かなピアノ曲。最初だけ聴くと、ジュリエットの今の心情によく合ったしんみりとした曲にも思える。しかし、この曲は、途中から一気に曲調が変わり、明るく優雅な曲になるのだ。おそらく、このままいけば曲調が変化するのはジュリエットが胸をナイフで自害するあたりになってしまうだろう。それだけは、非常にまずい。
今さっき来たはずの米倉さんがこのことに気付いて、曲をうまくすり替えてくれるとは思えない。それにかけるのは大博打も同然である。
優麗もこの異常事態に気が付いたようだ。このまま演技を続けてもいいのかと混乱している。
考えろ、考えるんだ。どうすればこの危機を脱することができる! 物語の主人公ならばどうする! 俺は脚本家を目指しているんだ! これくらいすぐに…………そうだ。
フラッシュバックするのは、昨晩の優麗の言葉。
――でも、死ぬのは嫌よ……
――残された人の気持ちも考えて……
そうだ、俺は脚本家なんだ。
俺は観客に分からないように薄ら目を開けると、舞台袖で慌てふためいている清隆にアイコンタクト送った。運良く清隆はこれにすぐに気付き、親指を突き立てた拳を突き出してきた。
俺は清隆に頷くと、囁く声で優麗に指示を送った。
「『ああ、ロミオ! どうして死んでしまったの! あなたが死んでしまったら、悲しむ人がいるのよ! あなたのお父様やご友人、ローサ……なによりもわたしが悲しいわ!』」
優麗は、俺の指示通り台詞を吐いていった。しかし、それは台本にある台詞ではない。たった今俺が作った台詞に、ジュリエットになりきった優麗が自分の思いを混ぜたものである。
「『ねえ、お願い、ロミオ。目を覚まして! でなきゃ、あなたがいなくなった先十年も二十年も、わたしはあなたの亡霊を探すことになってしまうわ! でもね、ロミオ。それは本当に寂しいことなのよ。本当はそこにいるのかもしれない。けれど、その姿が見えない。わたしは……その孤独に耐えられる気がしないわ。だから、だから……お願い……』」
彼女の声は掠れ、湿っぽかった。下で抱きかかえられている俺ならば分かる。優麗は、泣いているのだ。清隆の言う通り、演技をするということは、自分自身をさらけ出すことだ。今彼女は、自分自身をさらけ出しているのである。
でも、もう十分だ。十分優麗は自分をさらけ出した。次は俺の番だ。
ここで曲調が変わる。俺はその少し前のタイミングに合わせて――起き上がった。
「『……泣かないで、ジュリエット』」
観客たちが息を呑むのが分かった。それもそうだ。ロミオは死んだはずだったのだ。それがまさか生きていたなんて思わない。ましてや、ロミオが生き返ったのなんて前代未聞である。
俺は構わず演技を続けた。胸を押さえながら、涙で濡れた優麗の頬を撫でる。
「『……あなたは笑顔が一番美しい……わがままで子供っぽいところもあるけれど……あなたのその笑顔がもう一度見たくて、帰ってまいりました……』」
優麗は一瞬照れたように顔を真っ赤にし、涙でくしゃくしゃの顔を笑顔でさらに崩して言う。
「『おかえり、ロミオ』」
「『……ただいま、ジュリエット』」
舞台は成功に終わった。
◇4
午後5時に創立祭の終了を告げるアナウンスが流れると、俺たちは第二体育館にお菓子やジュースを持ち寄って、ささやかながらお疲れ様会を開いた。役者は衣装のままで、である。
進路をほっぽり出して手伝ってくれた先輩方や助っ人として来てくれた清隆の友人たちに改めてお礼の挨拶をした。人見知りな性格の俺だが、このイベントのおかげで親しい仲間がかなり増えたと思う。これも清隆のおかげだ。
米倉さんにも挨拶をしておこうと思ったのだが、どうやら舞台が終わってすぐに仕事へ戻ってしまったようだった。もしかしたらまだ仕事をしているかもしれないが、できるだけ早めにお礼を言いたかったので、ちょっと外に出て電話を掛ける。
――プルルルル、ガチャッ
『はい』
きっちり五コール目で出た米倉さんの声は、朝の時よりも疲れていた。
「あ、川島です」
『ああ、あなたね。何? 最後の音楽を失敗したことを責めたくて掛けてきたのかしら?』
「違いますよ、むしろ逆です。お礼を言おうと思って。今お時間大丈夫ですか?」
『ちょうど一段落着いたところよ。今日は残業決定だけれど……』
珍しく米倉さんの声が消沈していた。今だったら言葉攻めにすれば勝てるかもしれない、なんて邪まな考えが浮かんだが、ぐっと我慢して謝意を示す。
「無理して来てくださって、本当にありがとうございました」
米倉さんはため息を吐いた。しかし、それには苛立ちのような感情は含まれていない。
『何度も言うようだけれど、これはアタシの罪滅ぼしの一つよ。お礼を言われるようなことじゃないわ』
「けれど、です」
『……』
米倉さんは電話の向こうで何かを考えているようだった。それから、少しだけ明るい声になって言う。
『わかった。受け取っておくわ』
あまり仕事の邪魔をするのもどうかと思ったので、このまま切ろうかと思ったが、米倉さんが話題を振ってくる。
『そういえば、音響用の台本なのだけれど』
「米倉さんがいつ来ても大丈夫なように調光室に置いといたやつですよね? それがどうかしたんですか?」
『言い訳をするわけじゃないのだけれど、あの台本には最後の音楽はあれであっているということになっていたわ。終わった後何度も確かめたけれど』
「それはつまり、今日クライマックスで流れた、あのBGMの番号が台本に書かれていたということですか?」
『そうよ』
それは、おかしい。米倉さんが受け取ったという調光室に置いておいた台本は、今まで音響を務めていた先輩が使っていたものだ。コピーというわけでもない。それなのに、どうして今日だけそのようなことが怒ったのだろう。それも、音響がピンチヒッターに変わらなければならないという状況で。昨日から今日までの間に、誰かが書き換えたというのだろうか。
「……あっ」
考え始めて、それをやりそうな犯人がすぐに頭の中に浮かんだ。
「大丈夫です、米倉さん。たぶんこっちのミスです」
『そう、なの?』
「はい、本当迷惑かけました」
それから二言三言、言葉を交わした後、米倉さんは「優麗に伝えておいて、観客の一人があなたの演技のファンになったって」と言い残して電話を切った。
「……さぁて、どうしたもんかな」
音響用の台本を書き換えた犯人は、間違いなく悪意があってやったものではない。きっと、俺たちならばあのようにして乗り越えられると信じてやったことだろう。結果として、俺は優麗の望む結末に変えることができた。だから、責めるのも筋違いだと思ったのだ。
「あれ、こんなところでどうしたです、ミーくん?」
体育館の中からヒマリが出てきた。しばらく俺の姿が見当たらなかったから、心配して探してきたのだろう。
俺は嘘が苦手なように、回りくどいことも苦手だ。単刀直入に訊こう。
「なあ、ヒマリ。劇の最後の音楽を書き換えたの、お前だろ?」
ヒマリは舌をぺろりと出した。
「バレちゃったです?」
前にもこんなことあったような気がする。悪戯好きの幽霊といっしょにいるというのは大変だ。俺はため息を吐いた。
「結果的にどうにかなったからいいものの、失敗したらどうするつもりだったんだ?」
「ミーくんなら何とかなると思ったです」
「またそんな曖昧な理由で……」
「曖昧なんかじゃないです」
ヒマリはくるりと背を向けて何かを呟いた。
「だって、小さい頃のミーくんはできていたです……」
声がこもって聞こえなかった。聞き直そうと思ったが、その前にヒマリが振り向いて迫ってきた。
「それよりもミーくん、本当にいい劇だったです! ヒマリ、感動したです!」
先のヒマリの言葉も気になったが、今さら聞き返すのも何なので流すことにした。
「ありがとう。ロミオが最後生き返るというのは、あまりにもご都合主義が過ぎたけどな」
脈絡も何もないハチャメチャな展開だったと思う。
それ以外の部分は、初めての舞台だっただけに、これがいい出来だったのかどうかは自分には分からない。きっと後から思い返すと後悔の盛り合わせになるだろう。しかし、その初めての劇を達成することができたということが一番価値のあることなのだと思う。
「ミーくん」
「ん?」
「また、誰かと演劇したいです?」
正直、俺は脚本に専念したい気持ちもある。だが、今はそれ以上に、誰かと作った脚本をみんなで演じたいという思いが強い。何故だろう、すごく懐かしい気持ちになるのだ。ずっと昔に舐めた蜜の味を思い出したように、今はその甘さに飢えている。
「もちろんだ」
ヒマリにそう答えると、彼女は嬉しそうに目を細めていた。
第二体育館でのお疲れ様会は賑やかなまま解散となった。そして、役者四人は私服に着替えると、二次会として俺の家で打ち上げパーティーをすることになった。家に帰ると、台所にはたくさんのご馳走が並べられていた。
さてはヒマリ。お疲れ様会の途中から見当たらなくなったと思ったら、こうなることを見越して準備をしていたんだな。
「えらく準備がいいな~、光輝く~ん」
台所の椅子に背もたれを抱えるようにして腰かけた清隆が変な視線を向けてきたが、俺は目を逸らし、食器棚から皿を取り出した。
「本当に……いつの間に作っていたの? 朝の時点ではなかったわよね?」
冷蔵庫から飲み物を取り出している優麗も訝しげに訊いてきた。ありがたいのだが、今度からヒマリにはもっと気を付けてもらわなければ。いよいよポルターガイストで有名な家になってしまいそうだ。
俺が取り出した食器を並べていた沖野が言う。
「お皿全部並べ終わったよ」
「ありがとう、じゃあ沖野と清隆は適当に休んでてくれ」
ピラフや唐揚げ、酢豚にポテトサラダ、刺身など、さまざまな料理がちゃぶ台の上に置かれた。よくぞ家にあった食材だけでここまで作ることができたと感心する。ようやく待ちに待ったパーティーの開始である。
「あ、あー、ごほん」
清隆がエアマイクを持って乾杯のスピーチをする。
「えー、我が演劇サークルは歴史が深く、もともとは由緒正しきサークルの一つだったわけですが、現在ではこうして弱小サークルを代表する規模となってしまい、さまざまな苦難を強いられてきました。我々はそうした状況を脱するべく……」
「はいかんぱーい!」
たくさんのご飯を前に我慢できなくなった優麗が勝手に乾杯を言ってしまったので、俺と沖野も続く。
「「かんぱーい」」
まだ話を続ける清隆を差し置いて食べ始めた。しばらくしたところで、誰もスピーチを聞いていないことに気が付いた清隆が「ずるいぞお前ら!」と言って急いで料理に手を着け始めていた。
「しっかし、最後はほんとにビビったよなぁ~。だが、ナイスフォローだったぜ、光輝」
清隆がコーラの入ったグラスを手に肩を組んできた。暑苦しいので引きはがしておく。
「それはもう何度も聞いた」
舞台が終わってまず、清隆や沖野をはじめ、先輩や清隆の知り合いにまったく同じこと言われた。清隆に関していえば、もう四度目になる。まあ……悪い気はしないが。
「でも、やっぱり川島くんはすごいよ。私なら頭真っ白になって止まっちゃうもん」
と俺に言う沖野に対し、優麗が意地の悪い笑みを向けた。
「あなたの頭の中はいつでも真っ白お花畑でしょ」
「んだとぉ?」
沖野が豹変してしまったことで、このままでは第X次大戦が勃発してしまう。ちなみにXに入る数字は記憶していない。少なくとも両手の指の数では足りないのは確かだ。
その後もわいわい宴会を続け、いつの間にか、もう少しで日を越す時間となっていた。
さすがに近頃の疲れが溜まっていたのか、清隆と沖野は話しながら寝てしまった。清隆は大の字で床に寝そべり、沖野はちゃぶ台に突っ伏している。以前、脚本を仕上げた時のことを思い出して、懐かしい気分になった。不思議だ。まだほんの十日ほど前の出来事にすぎないのに。それほどまでに、この二週間は充実したものだったのだろう。
感慨深い気持ちに浸っていると、残った料理をしっかりと胃袋に収めながら優麗が言う。
「公演、うまくいってよかったわね」
「お前のおかげだ、優麗。ありがとな」
他人事のように言う優麗だが、今回の舞台の成功の何割かは彼女のおかげだ。最後のアドリブは、俺だけの力ではどうにもならなかった。優麗がちゃんと合わせてくれ、自分をさらけ出したからこそできたことなのだ。
「それにしても、脚本家さん。ずいぶんと無茶なことを考えたものよね。音楽に合わせて結末を変えてしまうなんて」
「うぅ……成功したんだ。結果オーライだろう」
「ねえ、光輝。あのアドリブのことだけれど……」
若干訊きづらそうに訊いてくる。
「あの時言ったことって…………その……ジュリエットにだけ向けて言った言葉なのかしら?」
――……あなたは笑顔が一番美しい……わがままで子供っぽいところもあるけれど……あなたのその笑顔がもう一度見たくて、帰ってまいりました……
あれはその時の状況に合わせて即興で作った台詞だったが、ジュリエットにだけ向けたかと訊かれると分からない。なぜならあれは、俺自身をさらけ出したことなのだから。
「すまない、わからない」
「わからないって、光輝……」
優麗が呆れたように頭を抱えていた。期待していた答えではなかったのだろう。しかし、すぐに気を取り直してまた口を開く。
「光輝、あのね……」
まだ何か言いたいことがあるのか、そう思って耳を澄ますと、
「ありがと……ハッピーエンドにしてくれて」
と、蚊の鳴く音にも消されてしまいそうなほどか弱い声が聞こえてきた。本当にこいつは素直じゃない。
あえて聞き返すのもおもしろいだろうが、今日はやめておこう。
俺はほおが緩むのを感じながら、グラスに残ったお茶を飲み干す。
「でもわたしは、会わなきゃいけないの……」
最後に優麗が言った言葉は、彼女の口の中で唱えられた決意のようなものだった。
翌日、そこにはもうすでに優麗の姿はなかった。