第五話 「ゆうれいと練習する」
◇1
もしも幽霊が見えるようになったら、なんてことは今までにも何回か考えたことがあった。
物語を作ることが多い俺のことだから、きっとすぐに順応してしまって、怖がるのなんて最初のうちだけだろうと思っていた。
しかし――
「――慣れないものは慣れないんだな」
そう言いながら、俺は背筋にぞわりとしたものを感じつつ火の玉を避けた。
真っ暗な夜道。街灯すら建っていない、田畑に囲まれた一本道を俺とヒマリは歩いていた。けれども、懐中電灯を点けなくても容易に歩くことができる。なぜなら、たくさんの火の玉が道を照らしてくれるからだ。楽でいいが、楽しくはない。むしろ怖くて歩きづらかった。
「あまり無理をしないほうがいいです……ミーくん、昼間も演劇のお稽古で頑張ってるです」
気に掛けるようなヒマリの声。
確かに、次の舞台に備えた稽古が始まって今日で六日目になる。練習時間はかなり長く、夜まで稽古していることが多い。今日だって、ついさっきまで練習していて、優麗の夕食を準備した後、適当な理由を付けてすぐに家を出てきた。ここ最近毎日そんなかんじだ。
だが、その分ヒマリには演劇の練習をしている昼間に家事をしてもらっている。疲れたと言い訳して投げ出すわけにもいかない。それに、優麗にとって両親の幽霊に会うことは、人生の歩み方を左右することだと思うのだ。絶対に会わせてあげなければならない。そして、その幽霊探しができるのは俺たちしかいないのだから、これはもう探すしかないだろう。
「これは俺にしかできないことなんだ。やると言ったことをやらないのは、正しいとは思えない」
俺が格好つけてそう言うと、ヒマリは気まずそうに目を逸らす。
「ですが……火の玉の判別はヒマリにしかできないです。ミーくんに頼んだ人型の霊体の区別もヒマリにはできるです。ミーくんは……」
「いらないなんて言うなよ!」
「まだ何も言ってないです」
ヒマリは若干呆れ顔で見つめてきた。
そう、さすがに火の玉の判別はヒマリにしか分からない。そのため、もっと人型に近い霊体がたまにいるらしいから、俺はそれを探す係をやっている。と、いっても、優麗の両親を見たことがあるわけでも写真を持っているわけでもないため、なんとなく優麗に似ているという幽霊を探すのがやっとである。
俺は咳払いをして仕切り直す。
「ともかく、何もしないというのは気持ちが落ち着かないんだ」
沖野の言う、勢い、というものにも繋がるのかもしれない。たとえあがいてでも、誰かのために動きたいと思ったのだ。きっと、物語の主人公ならば、そうするに違いないから。
ヒマリは、仕方がないです、と言わんばかりのため息を吐いた。
「わかったです。あ、そっち行ったです」
「なんだと!? うおわっ!?」
◇2
翌日。稽古を始めてからちょうど一週間になろうとする日。今日を合わせても、あと五日間しか練習ができない。練習には照明や音響の先輩たちも混ざりはじめ、ほぼ貸し切り状態の第二体育館のステージを使って場面ごとに演じる練習を行っている。稽古は佳境に迫り、俺たちの緊張感は徐々に高まってきていた。
ここまで一日七時間ほどの猛特訓を積んできたおかげで、皆どうにか台詞は覚えることができている。あとはひたすら練習をし、役になりきっていくだけだ。
しかし――
「『あ~天使ヨ、どうかモウ一度お声を聞かせてクダサイ』」
――俺だけは、一向に上達する気配がなかったのである。
清隆は高校時代演劇部だっただけあって一番上手い。沖野もまあまあ上手だ。演劇がまったくの初挑戦の優麗でさえ、この規模の劇としては十分すぎるほどの演技力を見せている。それに比べて俺だけが、棒読みを通り越して酷い演技だったのだ。確かに、俺はもともとから演技が苦手だ。だが、ここまで成長をしないというのは、もはや異常なほどであった。
だからといって、いちいち俺のところで劇を止めては練習にならない。一度一つの場面を始めたら、通して終わらせるのだ。その後で、演出が改善すべきポイントを各々に伝えるのである。
「光輝、まずイントネーションなんだけどよ……」
第二幕第二場の通しが終わったところで、清隆が俺の演技で気になったところを教えに来た。
しかし、なぜかそれは頭に入ってこない。すでに何度も言われ、何度も直そうとしても直らなかったからである。もう何をしても無駄なのではないか。少し諦めかけていた。
そんな諦めが顔に出てしまったのか、清隆が気を遣って言い出す。
「ちょっと休憩でもすっか?」
「あ、いや……」
ただでさえ俺のせいで稽古が思うように進まないというのに、その上練習時間を削ってしまっては申し訳が立たない。そう思って断ろうと思ったのだが、
「はい! んじゃあ、二十分間休憩お願いしゃす!」
よく通る声で勝手に清隆がみんなに呼びかけてしまった。その合図で、一度照明が落ち、ステージが休まる雰囲気へと変わった。
こうなっては、清隆の指示通り一度休むしかない。俺たちはステージを降りて、体育館の端の方で輪を作って飲み物などを飲んだ。
「今日ね、お隣のお婆さんが、お友達と食べてねって言ってクッキーをくれたんだ。先輩たちにはさっき渡しておいたから、これはみんなで食べてね」
そう言って沖野はバッグからクッキー缶を取り出して広げた。すると、まず真っ先に優麗が手を伸ばし、クッキーを口に放り込み始める。昼食からさほど時間は経っていないのだが、彼女の食欲は相変わらず恐ろしい。
「ちょっと、優麗ちゃん。みんなの分も残しておいてよ」
沖野が注意を促すが、優麗の手がクッキー缶と口を往復するスピードは変わらなかった。
「それで、光輝の演技がへたっぴの件だがよ」
と清隆が俺を向いて切り出す。ずばり言われるとさすがに傷付いた。
「ちょっと、最上くん……」
沖野が言い方を責めようとしたのを手で制して、清隆に続きを促す。
「いや、いいんだ、沖野。清隆、それで何だ?」
清隆は含み笑いを浮かべて語り始めた。
「光輝、お前さんはいつも、正しい行いがどうのこうのって拘っていることが多いだろ? もしかして、演技をすることを――嘘を吐くことだとか、正しくないことだとか思ってるんじゃねーの?」
「それは……そうだろ。演技も嘘も同じようなものだろ?」
だってそうではないか。本当の自分ならば言わないことを言って、本当の自分ならばやらないことをするのだ。それは嘘を吐くことと同じだろう。
だが、清隆は首を横に振った。
「違うぜ、光輝。演技は嘘とは違う」
「どう違うって言うんだ?」
清隆は話したいことを頭の中で整理してから改めて口を開く。
「そうだな。えっと、演技ってのは、結局自分のまんまなんだ」
自分のまんま、とはどういうことだろうか。演じるのに、自分のままでは矛盾してないか。
清隆は、疑問符を浮かべる俺から視線を外し、クッキーを二枚手に取った。
「役があって、ただ役になりきろうとするのは嘘ってもんだ。何せ、自分ではないものを自分に張り付けただけなんだからよ。そら寒い」
そう言いながら二枚のクッキーを重ねて見せた。それから、上に被さっていたクッキーを食べ、残ったクッキーを手の平に乗せる。
「けどよ、演技ってもんは、そうじゃない。役があると、その役に似た自分の経験や記憶を掘り起こしてきて、それを投影するもんなんだ」
手の平のクッキーを割り、組み合わせて違う形にする。
「だから、演技ってのはどこまでいっても自分であって、嘘を吐くことじゃない。自分をさらけ出すだけなんだから、正しくない行いってわけじゃねーんだよ」
嘘は、自分でないものを張り付けただけ……。演技とは、自分をさらけ出すこと……。
そう考えると、俺が今まで演技だと思ってしてきたことはすべて嘘だったということになる。知っての通り、俺は嘘が得意ではない。正しくないからだ。だが、そう考えてみると演技はどうだろう。
清隆は声のトーンを少し落として続ける。
「だから、相手の傍にいるために、理想の自分を演技することは、決して悪いことではないんでねーの」
清隆の目は沖野に向けられていた。沖野は、その言葉を受けて何か考えることがあったようだったが、それから少しすっきりしたような表情になってクッキーを一つ口に入れた。
沖野は、今まで俺たちの前で演技をしてきた。今だってそうだ。二年前の彼女からは、想像もつかないような理想の女の子を演じている。しかし、それは嘘になるのだろうか。正しくないことになるのだろうか。答えは反語だ。そんなわけはない。
自分で言うのも恥ずかしいが、沖野は俺の勢いに憧れて、演技をしてまで近づこうと努力してきたのだ。理由はどうであれ、こうなりたいという自分があって、それを演じてきたことに変わりはない。それは偽物を張り付けたわけではなく、自分の何かを使って変わろうとしていた。だったら、きっとそれは、沖野自身であると言えるはずだ。
俺は今まで、演技を複雑に捉えすぎていたのかもしれない。
「あ、優麗ちゃん、食べ過ぎだって! あとこれしかないじゃん!」
沖野の非難が聞こえ、クッキー缶の中を覗き込むと、クッキーは残り一つだけとなっていた。
「ごめんね、川島くん。一個も食べてないよね?」
なぜか沖野が申し訳なさそうに俺に謝ってきた。それにも構わず、優麗は残り一つのクッキーを手に取り――俺の方へ差し出してきた。
「ほら、早く食べて練習するんでしょ?」
このクッキーは、俺が演じるべき役だ。演技をするには、それをただ被るのではなく、しっかり噛み砕いて飲み込んで、自分の一部にする必要がある。その上で、心からそうなりたいと願い、自分の中に眠る役を演じることで、ようやく演技をすることができるのだろう。
そう思うと、溜飲が下がったような気分になった。
「ああ」
俺はクッキーを受け取り、口の中に放り込んで咀嚼するとペットボトルのお茶で流し込み、一息に立ち上がった。
「よし、再開しよう」
心持が変わったからって、すぐに演技力が付くわけでも上手になるわけでもない。だが、少なくともこれからは、演技をもっと素直にできるような気がした。
「清隆」
舞台へと戻っていく清隆の背中に呼びかけた。清隆が振り向いたところで、若干恥ずかしながらも、しっかりと言葉にする。
「サンキュな」
すると清隆は満面の笑みを浮かべて、親指を立てた拳を突き出してきた。
「おう!」
◇3
舞台本番の四日前。その日になってようやく、俺たちは衣装替えの練習に乗り出した。練習を少しだけ早く切り上げて、俺の家に衣装を持ち込んで役者が集まったのだ。
そもそも、引き継いだ衣装のサイズが合うことは確認済みだったのだが、ここまで衣装替えの練習が遅れてしまったのは、清隆が被服部の知り合いに頼んでちょっとした衣装の改造を依頼していたせいである。現代といっても、西洋のオシャレな若者をイメージして取り揃えられた衣装たちは、そのどれもが着るのに時間がかかった。重ね着やちょっとしたアイテムなどが多すぎたのである。そのため、それらを一発で着ることができるように、すべて縫い合わせて一枚の服にしてくれたのだ。
「うぅ……この格好は、ちょっと落ち着かないわ……」
西洋のお嬢様校をイメージした制服を着た優麗が、居間に持ってきた姿見の前で落ち着きなく自分の格好を見ていた。全身が純白に包まれ、肩にかかる大きめの襟と長めのスカートが特徴的な制服だ。普段優麗が着ているワンピースと大差ないと思ったのだが、彼女にとっては全くの別物らしい。
「お嬢様みたいな格好だもんね。やっぱり私にはその役は無理だったなぁ」
そう言って廊下から入ってきたのは、シスターの格好をした沖野である。大学生三人組は各々二役持っているから、その一つ目の役の衣装なのだろう。清楚な印象を漂わせる彼女の雰囲気を一層引き立てるような恰好だ。
俺の隣であぐらを掻いていた清隆が沖野にグッドのサインを送る。
「いやいや~、沖野さんも十分お嬢様っぽいぜ。オレとしては沖野さんのそれも見てみたいから、この後お願いできないかな~、なんて」
こいつはコスプレショーでも見に来たのだろうか。
「パス」
笑顔で断られていた。
そういう清隆の格好は、普通にその辺を歩いていそうなオシャレな若者といった服装だ。ラインの入った襟付きのシャツに、ダメージのないジーンズ。あとはちょっとしたアクセサリーをいくつか身につけていた。衣装と言われなければそうと分からないほど、自然な服装である。
沖野にあしらわれた清隆が俺に目を向けてきた。
「光輝は……地味だな。まあ、シナリオによく合ってるんだがよ」
俺も俺で、やはり清隆と同じような格好をしていた。むしろ、清隆よりもアクセサリーがない分地味に見える。正直言って、俺の私服とほとんど変わりがない。ちなみにこれでも、主人公――ロミオの役なのである。
「大丈夫です。よくお似合いです、ミーくん」
俺の背後からヒマリが耳元で囁いてきた。フォローを入れたつもりなのだろうが、嬉しくはない。とりあえずヒマリには小声で「ありがとう」と返し、清隆に言う。
「ほら、おかしいところないか確認したら、次の衣装に着替えて、早着替えの練習するんだろ?」
「その前に、女の子たちに何か言うことがあるだろ、光輝ちゃんよ~?」
「言うこと? 何の話だ?」
「そんなこたぁ自分で考えよーぜ」
なんだ、訳が分からない。何か言わなければならないことなんてあっただろうか。
見れば、優麗も沖野も期待するような眼差しをこちらへ向けてきている。とりあえず、二人の格好を褒めればいいのか。
「え、えっと……よく似合ってるぞ、ふたりとも」
これで正解か。と訊くように彼女たちに目を向けていると、ふたりは顔を見合わせてため息を吐いていた。なにか不満があったのだろうか。
しかし、沖野が諦めたようにパンパンと手を叩いて、
「じゃあ、次の衣装いこっか?」
と言い残すと優麗を連れて和室の方へと向かった。一応女の子であるヒマリも俺に気を遣って出て行ったようだ。廊下を挟んだ部屋から姦しい声が聞こえ始めたかと思うと、清隆が呆れ顔で言う。
「光輝、お前ってほんと女心が分からない鈍感唐変木野郎だよな。それでよく小説やら脚本やらが書ける」
「現実と物語は全くの違うものだから書けるんだろ、たぶん」
すると清隆の眉が一瞬歪んで、それから微かに笑った。
「オレとしては、むしろ光輝は現実の中にいないものだと思ってたぜ?」
「は? どういうことだ?」
現実の中にいないということは、物語の登場人物だとでも言いたいのだろうか。
清隆はボストンバッグから衣装を取り出しつつ答える。
「光輝は、現実を見てる気になって、実は全然見てないってことだ」
以前にも言ったが、清隆はこう見えて現実主義だ。極端な言い方だが、現実しか見ていない。それは今までの彼の言動からもちょくちょく伝わってくる。そして、優麗は非現実的に現実主義だ。現実を見ようとして、間に非現実を挟んで見ているようなかたち。沖野はどうだろう。彼女は俺の勢いや、俺に近づこうと自分の理想を見て、追いかけてきた。となると、彼女は非現実主義なのかもしれない。
俺は……何を見てきたのだろうか。
◇4
じっくり、けれど迅速に、納得がいくまで練習を重ねていき、多少未完成ではあるかもしれないが、予定通り創立祭の前日を迎えることができた。
「『さあ、愛しい人のために! ああ、まだ少し温かい。これがこの世でできる最後のキスとなる。おやすみ、ジュリエット』」
俺は、小瓶の中身を喉の奥に通すと、ジュリエットの衣装を着て目の前に横たわる優麗に口づけをする仕草をした。といっても、互いの息遣いすら聞こえない距離である。キスをするというにはあまりにも遠すぎるくらいかもしれないが、中学生を相手にしているのだ。これくらいが健全でいい。
今は、前日ステージ練習の時間である。本番で使用する第一体育館のステージで、それぞれの団体が実際の演目時間に沿って一度通してリハーサルをするというものである。演劇サークルが与えられた時間は、一時間。その間に、実際の会場を掴んでおかなければならない。
設備や機材に関しては第一体育館も第二体育館も同じであるが、ステージの広さがまるで違う。そのため、この前日ステージ練習は俺たち役者や小道具を動かす助っ人の人たちがより会場を把握しておく必要があるのだ。
早くやらなければ時間が終わってしまう。だが、ステージが使えるのは一回きり。せっかくの練習時間を無駄にするわけにもいかない。焦る気持ちを堪えて、いつも通り演技をこなしていった結果、どうにか最後のクライマックスを迎えることができていた。
『ロミオとジュリエット』の中で一番か二番にメジャーと思われる、眠ったジュリエットを死んでいると勘違いしたロミオが毒を飲んで自害するというシーンである。もちろん、それも現代風にアレンジしてある。
「う……っ!」
ロミオ(俺)は、ジュリエット(優麗)に口づけする仕草をした後、胸を押さえて苦しみながら倒れた。
さて次は、目覚めたジュリエットが目の前で死んでいるロミオを見て嘆き悲しみ、ナイフを胸に突き刺して自殺するというシーンだ。一度フェイドアウトしたかと思うと、目を覚まして身体を起こしたジュリエット(優麗)がいた。
「『よかった……目を覚ますことができたみたいね。でも、暗くてよく見えないわ。これは……』」
ジュリエット(優麗)は、目の前に横たわるロミオ(俺)の姿を発見した。
「『うそ……うそよ! そんなはずはないわ!』」
ジュリエット(優麗)はロミオ(俺)を抱き寄せて顔を見た。
「『ロミオ! どうしてロミオが倒れているの! 誰か! 誰か助けて!』」
しかし、答える声はない。この世のすべての人が彼らを見捨てたかのように、冷たく押し寄せてくる沈黙以外には、何もなかった。
「『ロミオ! お願い目を覚まして! ロミオ!』」
ジュリエット(優麗)は彼の胸の音を確認すると、そのまま泣き崩れてしまった。そして、泣きながら嘆く。
「『あとちょっとで何もかもうまくいったのに! どうしてこうなってしまったの! ねえ、ロミオ、わたしと一緒にいてくれるって約束したじゃない! 置いて行かないで、ロミオ!』」
ふと、ジュリエット(優麗)の目に留まる物があった。それは鋭くて冷たい、この世から切り離してくれる道具。彼女は、ロミオの持っていたナイフを掴むと、それを胸に向けた。
「『わたしも今あなたのもとへ行くわ、ロミオ。わたしはいつだってあなたの傍にいる。……待っていてね、ロミオ』」
自分の胸に刃を衝きたてて、静かに倒れた。
照明が落ち、ステージは静寂に包まれる。
その後、薄い照明の中、ステージに一つの墓を背景に短いナレーションが最後に入り、幕を閉じる。
前日練習の通しは、大成功だった。
やれるだけのことはやった。できるだけの努力は注ぎ込んだ。
だが、脚本には未だ不安は残る。今回の脚本は、原作との関連性に確実に気付いてもらうために、基本的には原作通りのキャラクター名を使用した。しかし、物語の辻褄を合わせるために、多少はオリジナルキャラクターや工夫を盛り込んだ。そのせいで、物語に無理が生じたり、鑑賞者が不快に思ったりする場面が出てしまった。それを解消するために、ここまでいくつもの箇所を直してきたが、今の脚本でもその心配は拭い切れない。
今晩は、明日に支障が出ない範囲でもう一度脚本を確かめよう。そう心に決めながら劇の片付けに移った。
「……と、いうわけでありまして、明日はいよいよ待ちに待った創立祭当日! 本番の日でございます!」
第二体育館、演劇サークルやその助っ人として呼ばれた清隆の知り合いを合わせた総勢十名ほどを前に、おどけた口調で清隆が言った。前日ステージ練習の後さらに練習をし、いつもより少し遅めの時間に解散の挨拶をしているのである。
「だから、今日は早く家に帰って早く寝るように! 明日は予定通り、役者は朝の8時半、それ以外は9時にここに集合! 公演開始が正午だからって、くれぐれも遅刻しないように! んじゃ、解散!」
俺たちは、明日はよろしくお願いします、ということをみんなにそれぞれ言って解散した。他愛もない雑談を繰り広げつつもちらほらと帰っていき、第二体育館にはいつもの演劇サークルのメンバーと優麗の四人だけが残っていた。
「明日、絶対成功させよーぜ」
清隆が言った。俺と沖野は頷く。
「あまり緊張して夜更かしして寝坊なんてするなよ?」
俺がおちょくったように言うと、清隆は真顔で返してきた。
「それは自信ねぇな」
俺たちは小雨のような笑い声を上げ、不意にそれが止むと静けさが訪れた。
聴覚が抑えられたおかげで、自分の内面の感覚が敏感になった。身体の芯に電熱線でも通っているかのように変に暑い。呼吸のリズムはどうだっただろうか。どうやって唾を飲み込んでいただろうか。足が落ち着かない。でも、なんだか気分はいい。
そうか、俺は緊張をしているのだ。
最初はなんとか見られる劇ができればいいと思っていた。だが、苦労してみんなで脚本を制作し、休みなしで劇を作り上げてくると、最低限の劇ができればよいという感情は消え失せていた。やるからには絶対に成功させたい。そう願うと、いてもたっていられない気持ちになり、胸の鐘を打つスピードが急激に上がった。
「私たちなら、大丈夫だよ」
そう言った沖野は、頬がわずかに赤く、硬い表情をしていた。見れば、清隆も同じような顔をしている。ふたりも緊張しているのだろう。それでも、他のメンバーに心配をかけさせないように、演技をして必死にそれを隠そうとしているのが伝わってくる。
ふたりのそんな計らいを見ると、うだうだ緊張なんてしていられないと思った。
「そうだな、俺たちならば大丈夫だ。創立祭の二週間前に突然公演をすると言われた時はどうなるかと思ったが、ここまでこれたんだ。きっとどうにかなる」
俺はそう言って、清隆に向いた。
「これもすべて清隆のおかげだ。ここまでありがとう」
しかし、清隆は俺の謝意におまけをつけて返してきた。
「いや、劇ってもんは、一人じゃできねーぜ。先輩やオレの友達、それに光輝や沖野さんがいたからこそ、ここまでこれたんだ。むしろ、感謝するのはこっちだ」
確かに、劇は一人ではできない。だが、最初にやろうとする人がいなくてもできないのだ。清隆は、今回の公演をやろうと決め、その下準備をほとんど一人でこなした。間違いなく今回の件の功労賞は清隆だろう。
早くも互いの苦労をたたえ合う俺たちに、沖野が苦笑した。
「ふたりとも、お礼を言いあうのは終わってからにしようよ」
「「そうだな」」
声が被った。そんなくだらないことにも笑いが起こる。緊張からかもしれないが、今は箸が転んでも笑えそうな気がした。
そして俺たちはひとしきり落ち着くまで何気ない会話をすると、
「頑張ろうな、明日」
という俺の言葉を最後に解散した。
体育館を出て行く際、今までずっと無口でいた優麗に声をかける。
「どうしたんだ、優麗? さっきから元気ないが?」
「なんでもないわ。早く帰りましょう。お腹が空いたわ」
優麗は浮かない顔でそう答えて、早々に体育館を後にした。
「お、おう」
そうは言っても、帰る場所は同じなので、俺は優麗の後に続いてすぐに追いつき、いっしょに夜道を帰った。
その日の夕食の後は、この時間帯にしては珍しく、優麗は幽霊探しをせずに居間にいた。ちゃぶ台に張り付いて、さっきから熱心に脚本に目を通している。
まあ、舞台本番の前日だからな、さすがに外に出る気にもなれなかったのだろう。だとしたら、緊張しているかもしれないから下手に声をかけるのはよそう。
そう思って俺が二階へあがろうとすると、脚本から目を離さずに優麗が俺の名を呼んできた。
「ねえ、光輝」
「ん? 何か脚本に変なところでもあったか?」
俺は階段へ掛けていた足を戻して居間に踏み入り、ちゃぶ台を挟んで優麗の正面に座る。彼女は首を横に振った。
「変なところではないのだけれど、その……」
そして、言いづらそうに訊いてくる。
「どうしてロミオとジュリエットは死ななければならなかったのかしら?」
「そんなのは……運命だったからだろう。物語の中でも台詞において、ロミオは死ななければならないと何度か出てくる。この物語のテーマは愛やら運命だが、ロミオが死ぬのはまさに愛によって引き起こされた運命だったんじゃないのか」
そして、ロミオが死ぬ運命にあるのならばジュリエットだってそうだ。二人はすでに、切っても切り離されない仲にあった。文字通り、運命共同体だったというわけだ。
「でも、死ぬのは嫌よ……」
優麗が言った。その言葉には、妙な重みがあった。
「残された人の気持ちも考えて……」
優麗のその言葉の中には、四年間ずっと孤独だった彼女の寂しさが含まれているような気がした。現実を見るのが嫌で、非現実にすがる彼女の気持ちや、それでも現実を見なきゃと頑張る彼女の気持ちが……。
そう思うと、彼女の思いを解消してやりたいという感情が芽生えた。この劇の中だけでも、彼女の望む結果にしてやれないだろうか。
しかし、今さら大きな脚本の改変をすれば、多くの混乱を招くことになる。それに、これはみんなの公演だ。自分だけのものにするわけにはいかない。できることは、ないのだ。
何もしてやれない自分の不甲斐なさにやるせない気持ちになった。
「ごめんなさい……忘れて。明日に備えてもう寝るわ。おやすみなさい」
俺を困らせてしまったと思ったのか、優麗は会話を中断して二階へと上がって行ってしまった。今日は幽霊探しにいかないつもりなのだろう。
優麗を家に取り残していく気にはなれなかったが、かといって優麗の傍にいても、してやれることなど何もない。優麗の気持ちを落ち着かせてやるには、両親にもう一度会わせてやるのが一番なのだ。そのために、俺は行かなくてはならない。優麗の両親を探しに行かなくてはならないのだ。
しかし、準備をして玄関で靴を履こうとすると、ヒマリが立ち塞がった。
「ミーくん、今日はもう寝たほうがいいです」
「いや、しかし、優麗の……」
「明日はミーくんにとって大切な日です。ですが、優麗ちゃんは今日自分の大切なことを潰してまでミーくんの大切な日を優先したです。ミーくんは、優麗ちゃんの思いを無駄にしたらいけないです」
優麗は、両親を探すのをやめてまで今日は早く休んだ。それは、明日の舞台で失敗しないためだ。俺たちのためなんだ。だとすると、そこで俺が無理をして舞台を失敗させるリスクを高めるというのは、何かが違う気がした。
「そう……だな。わかった。ありがとう、ヒマリ」
多少気分が落ち着かなかったが、軽く脚本の見直しをすると、その日は早めに布団に着いた。
翌朝はスマートフォンの着信音で目が覚めた。メールだったら五秒ほどバイブするだけの設定にしてあるから、これは電話だろう。切れないうちに慌てて取ろうとすると、画面に最上清隆の文字を確認した。
――嫌な予感がした。このタイミング、この時間に清隆からの連絡。それは悪い知らせの他考えられなかった。重い指を動かして電話を取る。
「……はい?」
『光輝、大変だ!』
鬼気迫る清隆の声。こいつのこんな本気の声は初めて聞く。
「どうした、清隆?」
『音響をやるはずだった先輩が盲腸で救急搬送されて!! 三日間は入院するって!!』
うそ……だろ?