第四話 「ゆうれいと出かける」
◇1
俺は居間にいた。
やけに視点が低い。手や足だってぷっくりして小さい。だが、違和感を覚えても、おかしいと思うことはなかった。
「……たちで……物語を作る…………くん……」
女の子の声だった。落ち着く声だ。でも、誰のものかは思い出せない。
もしかしてここはあの世で、これは天使の声なのだろうか。
よくわからないまま女の子の手を取ろうとしたところで――
――目が覚めた。
「……夢か」
おそらく、幼い頃の記憶。独りだった俺が女の子と遊んでいた時の思い出だ。遊ぶといっても、ほとんどはいっしょに物語を作ったり、その物語を演じたりしていただけだった。他のどんな遊びよりもそれが楽しかったのである。きっと、昨日の夜に思い出したから、そのまま夢にまで出てきたのだろう。
「楽しかったなぁ……あまりに楽しかったから、こうして物語を作る作家を目指し始めたんだっけな……」
女の子と作った数々の物語のあらすじを頭の中で流してみた。今から思うとそのどれもがハチャメチャでとんでもないものだが、この歳では絶対に思いつかないような輝かしいアイディアを秘めていた。
「なのに……」
上体を起こすと、そこは勉強机だった。どうやら突っ伏して寝てしまったらしい。顔を埋めていたパソコン画面の紙は、まだほとんど白いままだ。
「どうして今はこんなに苦しいんだ……」
脚本を書いたことなら練習で何度かある。その時だって、制作をするときの苦しみや困難はあった。だが、今回はそれの比ではない。
紙の前に向かうと、手が痺れたように動かなくなり、水の中に放り込まれたかのごとく息苦しくなる。何も浮かばない。何も書けない。苦しくて苦しくて仕方がないのだ。
喉につっかえるような錯覚を感じて首のあたりを摩っていたところに、この家の呼鈴の音が来客の訪れを知らせた。
部屋の掛け時計に目を遣ると、針は午前八時半を示していた。
「誰だ……?」
近所の人だろうか。それとも宅配便? あるいは、警察が動いてしまったとか。
眠気混じりの頭ながら様々な可能性を考えつつ階段を下りて玄関の戸を開けると、そこにはよく見知った友人が立っていた。
「よっす」
「おはよう、清隆。どうしたんだ朝早くに?」
清隆が答えるより先に、彼の後ろから沖野も登場した。
「おはよう、川島くん」
「沖野まで。二人してどうしたんだ、一体?」
すると清隆は呆れ顔になった。
「この前、優麗ちゃんの色々を買いに行こうって話になったじゃんかよ。忘れたのか、光輝~?」
そうだった……だろうか? 寝起きのせいか、清隆の言う約束が思い出せない。
頭を悩ませる俺を見て、沖野が付け加える。
「土曜日は最上くんがバイトあるからってことで、日曜日になったんだよ」
そう……だった。思い出した。あれは三日前、優麗のことがこいつらにバレてしまった時の話だ。優麗の日用品を買いに行こうという計画を立てたのだった。
だが、俺の頭の中には『脚本制作』の四文字が堂々とした存在感を放っていた。
「悪いが、俺は行けない。劇の脚本を書かなくてはならないんだ」
「ええー行こうぜー」
駄々をこねる清隆に、俺は脚本が進まない苛立ちをぶつけるように少し強い語気で言う。
「誰のためにやってると思ってるんだ!」
これには二人とも些か驚いたようだったが、すぐに清隆はいつもの調子に戻って俺の胸の奥に目を向けた。
「光輝が行かないと、そこの仔猫ちゃんが借りてきた猫みたいになっちゃうと思うぜ?」
清隆につられて振り返って見てみると、ちょうど俺の真後ろに優麗が隠れていた。それしか私服を持ってきていないのか、幽霊に扮装するときの白いワンピースを着ている。一応は、外出する準備を整えてきたのだろう。そんな彼女は、慣れない人間を見る猫のような目つきで清隆と沖野を見つめていた。
こんな状態の優麗だけを二人に預けるわけにもいかない。それにこれは、仮の保護者としての俺の責任であるような気もした。脚本よりもよっぽど優先すべきことだ。
「わかった、一分で支度するから待ってくれ」
俺が身支度を整えるために家の中へ戻ると、優麗はほっと安堵の息を漏らしていた。そんなに俺抜きで清隆たちと出かけるのが嫌だったのだろうか。
顔だけを洗って、寝間着用のジャージから初夏用の薄着に着替えた。寝ぐせはあまりついていないから気にしなくていいだろう。直している時間待たせる方が悪い。最後にヒマリに一言断ってから出ようかと思ったのだが、彼女の姿は見当たらなかった。きっとまた、用事があるとかで外出しているのだろう。
準備を整えた俺は、優麗を連れて清隆たちと家を出た。
電車よりもバスが発達した地域なので、家からバス停まではほとんど距離がない。そこから、二十分おきにやってくるバスに乗って約四十分で市街地へと行くことができる。
バスを降りると、さほど高くもないビルが軒を連ねる通りへと出た。日曜日であるのに、人の往来もそんなに激しいというわけではない。これでも、この辺ではこれが一番大きな通りなのである。
「じゃあ、まずはどこから当たるんだ、沖野さん?」
清隆が沖野に訊ねると、彼女は、「う~んと……」と悩む仕草をしてから優麗の服に目を向けた。そして、幽霊の扮装に使用する白いワンピース姿を見て苦笑する。
「まずは服から行こうか?」
というわけでまずはじめは、中央通りの一番大きなデパートの四階――子供服売り場へと足を運ぶこととなった。
「ちょっと待ってちょうだい! どうして子供服売り場なのよ!」
顔を真っ赤にして突っ込んできた優麗に俺は真顔で返す。
「だってお前、どう見たって子供だろ?」
「失礼ね! これでも十分大人よ!」
そう言って優麗は胸を主張するが、問題はそれだけではない。俺から見ればすべてがお子ちゃまだ。
そこに清隆も便乗しにかかる。
「そうだぞ、光輝。なんだかんだと理由を付けてこんなデパートなんかに逃げないで、男ならどばんと! この近くに新しくできたばっかの服屋行こうぜ!」
「それって……すごく高いと噂になってるところじゃないか!」
よく知らないが、東京の有名なブランド店がこの街にもできたらしい。とてもじゃないが、一般の大学生には手が出ない値段の商品ばかりで、オシャレに敏感な学生が行ったら返り討ちに遭ったという。
「そのお店は私たちには無理だと思うな……」
沖野も苦笑いにそう言って、その場をまとめようと、にこやかに提案をしてくる。
「ともかく、もう一個下の階がファッション系のお店が並んでいるみたいだから、そこに行ってみようよ。優麗ちゃんも、それでいいよね?」
沖野が優麗の顔を覗き込むが、優麗はムスッとして俺の後ろに隠れてしまった。
「あ、おい優麗!」
失礼だろう、と前に引っ張り出そうとするが、強情にもなかなか出てこない。果たしてこいつは、こんなにも人見知りだっただろうか。
「どうしたんだ、優麗? 今日おかしいぞ?」
「その女が嫌いだからよ」
「はあ?」
沖野のことが嫌い? どうして。こんなにも献身的で優しい人なんてそうはいないぞ。それに沖野は、こうして優麗の買い物に付き合ってくれているじゃないか。それなのに嫌いだとは酷すぎると思う。
沖野は小声で「嫌われちゃった……」と言って、泣きそうな笑みを浮かべてショックを受けていた。見ているこっちまで辛くなる。
「ほら、沖野に謝れ。優麗」
優麗を沖野の前に突き出すが、彼女は目も合わせようとしなかった。これに沖野はさらにショックを受けたようで、さっきよりもさらにブルーな笑みになった。
「だ、大丈夫、だから……」
それでも笑顔を保っているのは本当にすごいと思う。
フォローを入れるつもりなのか、そこに清隆も割って入る。
「なあな、優麗ちゃん。オレはオレは? オレのことは好き?」
「あなたも嫌いよ」
優麗は心底気持ちが悪そうに答えていた。しかし清隆にとってはこれもご褒美だったようで、
「あははは、嫌いだってよ」
とケタケタ笑って喜んでいた。訳が分からない。
ともかく、これ以上優麗に謝らせようとしても沖野がショックを受けるだけなので、かわりに俺が謝罪をする。
「すまない、沖野。せっかく付き合ってもらってるのに、優麗が失礼なことを」
「ううん! 大丈夫なの! ほんとに全然気にしてないから!」
沖野は慌てたように手をブンブン振った。どうやら本当にもう気にしてないという様子である。心が広すぎだろ、沖野。
沖野は仕切り直すように、パンッと手の平を合わせた。
「それよりも川島くん、お買い物しよう。早くしないと夕方になっちゃう」
「それもそうだな、気を取り直して――」
――行こう。と言おうとしたその時、俺の手がぐいっと引っ張られた。最初は優麗か清隆かと思ったが、二人とも俺の視界内にいる。と、いうことは……?
「え?」
考える間もなく、俺は何者かによって引きずられるようにして走らされた。自分の意思に反してどこかへと行ってしまう。視界がぐるぐると回され、自分が今どこにいるのかすら分からなくなった。
「ちょっと光輝!」
「おーい! どこ行くんだよー光輝ー!」
「か、川島くん!」
三人が俺の後を追いかけて来た。
これは嫌な予感がする。まともなことじゃない。なんとか、この状況を打開しなければ。
そう思って俺の腕を掴んだやつの姿を確認しようとするが、視界がぶれるせいで白い何かであることしか分からない。ならばと思って掴む手を引きはがそうとしたところで、相手の独特の温もりに気付き、俺はなんとなく犯人が分かったような気がした。
しかし身体の自由が利くわけでもなく、わけも分からぬまま何やら薄暗い場所へ連れて行かれた。おそらくここは、一般の客が入っていい場所ではないだろう。そのまま薄暗い通路を進み、突き当たりにそびえる重そうな鉄の扉へと一直線に衝突する――
「嘘だろぉおおおお!」
――直前で扉は開き、俺はその中へと放り込まれた。背中からコンクリートと思われる床に叩き付けられ、全身に衝撃が走る。ぬうっと溢れ出してきた闇が俺の身体を包み込んだ。
後ろから来た三人もその場所に入ると、途端に扉が閉まる音が聞こえ、いよいよ中は闇に支配されてしまった。
「わー暗いよー怖いよー」
言葉とは裏腹に楽しそうに声を上げる清隆とは対照的に、沖野は静かだった。たぶん本当に怖くて声も出なくなってしまったのだろう。
一方、優麗は苛立ち気に俺に掴みかかってきた。
「ちょっと光輝! どうしてこんなところに!」
「知らない! とにかく、明かり!」
慌てつつもポケットからスマートフォンを取り出すと電源を点けて明かりの代わりにする。照らし出された優麗の顔は驚き半分怯え半分という感じだった。暗闇にぼんやりと浮かぶ優麗の姿を見て、今度は心から怖がったように清隆が悲鳴を上げた。
「ひやぁあああ、お、お化けぇええ!」
耳障りだったので俺は清隆をなだめにかかる。
「これは優麗だ! 学習しろ!」
「そうか、ゆうれい……って、幽霊! ひやぁああああ!」
これはもうわざとやっているだろう。清隆はこの状況を楽しんでいるに違いない。皆が混乱し、その場は混沌と化してしまっていた。
けれども、突如視界が明るくなったことにより、場に満ちていたパニックのムードは一瞬にして消え失せた。
「お、明かりがついたのか……?」
動揺しつつその原因を探すと、入り口付近のスイッチに手を掛けた沖野の姿があった。彼女が明かりを点けたのだろう。そのまま極めて落ち着いた声調で俺たちに言う。
「とりあえず外に出よう。ここ、入っちゃいけない場所だと思うし」
沖野は扉に手を掛けて押したり引いたりしてみるが、扉は動く気配がしなかった。
「あれ、開かない」
「どれ、俺が開ける」
沖野に代わって俺が開けようとするが、やはり扉は開かなかった。鍵が閉まっているのだろうか。いや、もしかしたら錆びついて開きにくくなっているだけかもしれない。
「清隆、いっしょに開けるぞ」
清隆と並んで扉に体重をかけるが、それでも扉は動こうとはしなかった。
「駄目だ。びくともしない」
その様子を見て、多少冷静さを欠いた沖野だったが、すぐに次なる案を出そうとする。
「で、電話は? 外に助けを呼べば……」
が、これは言い終わる前に清隆に打ちのめされてしまった。
「駄目みたいだぜ、沖野さん。ここは圏外だ」
そう言ってぷらぷらと見せてくるスマートフォン画面の電波のところには『圏外』と表示されていた。俺や沖野、優麗のも同じだった。
「そ、そんなぁ……」
項垂れる沖野。その場の全員が絶望感にのし掛かられた瞬間だった。
俺たちは、閉じ込められてしまったのである。
◇2
閉じ込められたのは、デパートの倉庫のようだった。ざっと一般的な学校の教室程度の広さだろう。びっしりとダンボールの箱が積み上げられた鉄の棚が何列にも並んでいる。その間の通路に立ってみると、今にも倒れてきそうなほどの圧迫感を覚えた。
青みを帯びたような蛍光灯に照らされていて、冷房が効いているかのようにひんやりとし、デパート内のどよめきすら聞こえないほど静寂に包まれている。なんだかそれは、今にも火の玉がふわりと出てきそうな雰囲気で、俺としては一刻も早く脱出したいのが本音だ。けれど、脱出のために中からできる手段は、もう何一つ残されていないのが現実だった。
しばらく扉と格闘していた清隆が諦めてその場に座り込んだ。
「んー、とりあえず、誰かが通りかかるまで待つしかないな……光輝は何かいい方法とかねーのか?」
「……ないな」
とは言いつつも、実のところ打開策ならある。この状況に招いた張本人を呼べばいいのだ。だが、この三人の前で堂々と呼ぶわけにもいかない。なにせここは、電話も通じないはずの場所なのだから。
そのため今は、相手の方から現れてくれるか、あるいは相手の気が済んで開けてくれるのを待つほかないのだ。
どのみち待つしか手段がないと分かると、さっきから落ち着きなくその辺をウロチョロしている優麗のことが気になった。
「少しは落ち着け、優麗」
「うっさいわね、そもそも光輝のせいでこんなことになったんでしょ」
棘を含んだ声で返されてしまった。いや、一概に俺の所為とも言えないのだがな。もとはといえば、優麗の買い物に付き合ってこうなったんだろう。
だが、優麗が焦る気持ちも分かった。もしこれで従業員や警備員に見つかって、不法侵入で警察沙汰にでもなったら、家出が終わってしまうとでも思っているのだろう。それで運が悪ければ、俺が誘拐犯になってしまうと心配してくれているのかもしれない。
そう思うと、下手に優麗のことを責める気分にもなれなかった。
それでも、不安そうにしている優麗のことが放っておけなかったのか、沖野は優しく微笑みかけた。
「大丈夫だよ、優麗ちゃん。すぐに出られるから安心して」
しかし、優麗は何が気に入らなかったのかさらにイライラをむき出しにして、一気に捲し立てた。
「あんたもあんたよ! ずっと思ってることとは別のことして!! 怒ってるのに笑って!! 笑顔のときずっと拳を握りしめてたからニセモノの笑顔だってバレバレよ! 今回の買い物だって、本当はしたくもないけど言い出したのはどういうつもり? 光輝に対するポイント稼ぎでもしたかったの?」
「お、おい、優麗!」
これはマズい。そう思って止めに入ろうとすると、
「んあぁあ?」
というドスの利いた声が倉庫内に響き渡った。空耳だろうか。それとも空調か何かの音が反響してそう聞こえたのだろうか。脳が必死に今さっきの声に理由を付けようとしているところに続いて、目をギラギラとさせた沖野が優麗の胸倉を掴んで睨み付けるという映像が目に飛び込んできた。
「てめぇには関係ねぇだろが! こちとらやっと憧れの人に近づけたんだよ! それで媚び売って好かれようとして何が悪いんだ! あぁあ?」
見間違えや聞き間違え、ではなさそうだ。
俺の目の前には、学内でも献身的で優しいと評判の沖野未来が、中学生女子に掴みかかって脅しているという光景があった。
もちろん、唖然とする。目を見開く。気が動転する。俺や清隆は一様に驚きを露わにしていた。
自分から蒔いた火種であるのに、優麗も涙目で小刻みに震えていた。米倉さんの話にもあったが、優麗は様々な人と関わったことで、一目見ただけで相手が良い人か悪い人か見抜けるという。それゆえ、沖野の中に少なからず獣がいることを見抜いていたのだろう。だが、こんなにも大きな怪獣が出てくるとは思っていなかったようである。まさに、薮をつついて蛇を……いや、竜を出すと言ったところだろうか。
しんと静まり返り、俺たちの反応にようやく気が付いた様子の沖野は、一瞬で完璧な笑顔を作って優麗を解放し、彼女の服のほこりを払ってやる。
「ご、ごめんねー、優麗ちゃん! 大丈夫だった? 怪我してない?」
「あ……は……はい」
優麗はガチガチに怯えきっている。
もう何を言っても無駄だ。俺たちは、沖野の本性というものをしっかりとこの目に焼き付けてしまったのだから。
それでも諦めきれないのか、はたまたタイムマシンでも探そうとしているのか、沖野はあたふたと取り乱して今度は俺に掴みかかってきた。
「ごめんなさい、川島くん! 今の忘れて! すぐ忘れて!」
「さすがに無理だ!」
こんな衝撃的なことを忘れるには、よほど攻撃力のある鈍器で殴られでもしなければ無理だろう。
すると沖野は目を渦のように回しながら、俺の心の声に答えるようにしてどこからかメリケンサックを取り出した。
「わかった! 鈍器だね! 鈍器で殴ればいいんだね!」
「待て待て待て待て! 死ぬ! それは死ぬから!」
正気に戻った清隆が沖野を止めに入ってくれたおかげで命拾いした。清隆には借りができてしまったかもしれない。
その後も情緒不安定な沖野や放心状態の優麗を少しずつ落ち着かせていると、気が付けばすごく疲れていた。他のみんなも疲れたのか、扉の前に四人並んで座り込む。端から、優麗、俺、沖野、清隆という順番である。
一息ついたところで、改めて沖野が消沈した声音で謝る。
「ごめんね……見苦しいもの見せちゃって」
「いや、まあ、びっくりしたけどな……」
俺は先の沖野の台詞の中でふと気になったことを訊いてみる。
「そういえば、さっき憧れがどうのこうのって言っていたが、あれはどういう意味なんだ?」
反応したのは沖野ではなく、清隆と優麗の方だった。え、それ訊いちゃう? と言わんばかりの視線を送ってくる。
けれども、もう訊いてしまったことは訊いてしまったことだ。
沖野は言いづらそうにもじもじとしながらも話を始める。
「えっと……その、高校二年生の夏休みに、カツアゲされている同級生の女の子を助けた時のこと、覚えてる?」
高校二年の時となると、二年前か。そういえば、そんなことあった気がする。あれは確かこの街の駅に行った時のことだ。暗い裏路地にちょっと目を向けると、女子高校生同士のいざこざがあった。どちらも近くの学校の生徒だと思うが、一人の女子生徒が多数の女子生徒に囲まれていた。見て見ぬふりをするのも間違っていると思い、俺は注意しに入ったのだった。
だが、相手のリーダーがガングロ山姥の妖怪で、想像以上に怖い思いをした記憶がある。制服を着ているが、顔はガングロ厚化粧で、長くてボサボサの金髪をアップにした妖怪だった。それでもって鬼のような形相で睨み付けてきたのを覚えている。もう二度とあんな妖怪とは出くわしたくないものだ。
一方、助けた女子高生の印象は薄い。たぶん、妖怪のインパクトに押しつぶされてしまったんだろうな。
「ああ、覚えてるぞ。もしかして沖野って、あの時助けた女子高生か?」
「ううん、カツアゲしてたほう」
「そっちかよ!!」
まあ、さっきの本性やらを踏まえるとそうだよな。
しかし、まさかあの妖怪とこの美女が同一人物だったとは……。可愛いは作れるんだな……。
固まった俺の視線に対し、沖野は恥ずかしがるように笑って言う。
「お化粧落としたから分からなかったかな?」
前言撤回、可愛いは壊せる。
不意に、沖野が妖怪だった時に、女子高生を助けるために言ってしまったあれやこれを思い出した。
「言いづらいんだが、だったら、俺のこと逆恨みしてるんじゃないのか?」
沖野は激しく首を横に振った。
「そんなことしないよ。だって川島くんは、私にとって光のような存在なんだもん」
一度は敵となった仲なのに、光とはどういうことだろう。沖野はまるで告白でもするかのように続けた。
「川島くん、ただそれは正しくないと思ったってだけで、他校の生徒の諍いに入ってきたでしょう。やりたいこともなくてフラフラしていた私には、それが眩しかった。自分が正しいと思ったことをやり通す勢いとか、自分の意志を貫くために相手を巻き込む勢いとか。私はそんな勢いに憧れたの」
勢い。正しいと思ったことをしようとする勢いはともかく、自分の意志を貫くために相手を巻き込む勢いは、最近の俺にはあっただろうか。いや、なかった。なんだかんだと理由を付けて、巻き込むことを恐れていたのではないか。だからここまで、脚本の制作が遅れてしまったのではないか。
唐突に沖野が覗き込んできたことにより、思考が一時中断された。
沖野の顔が近い。きめの細かい肌や、長い睫がよく分かるほどの近さだ。そのまま彼女は、えへへ、と笑いながら言う。
「だから少しでも川島くんに近づきたくて、私の中の理想の自分を演じたんだ。大学にだって、成績全然足りなかったけれど、頑張って勉強して入ったんだよ?」
その笑顔は今までの彼女のどの笑顔よりも魅力的で、可愛いように見えた。少し子供っぽいけれど、青空にかかった虹を彷彿とさせるような温かくて明るい笑顔だった。
俺がその笑顔に見とれていると、脇から優麗が口を挟んできた。
「なによそれ、完全にストーカーじゃない」
「なっ!」
沖野は優麗の一言にまた沸点を越えそうになって、思わず立ち上がった。しかし、ギリギリのところで抑え、引き攣った笑みを浮かべて言い返す。
「優麗ちゃんに言われたくないな~! 勝手に家に上がり込んで居候してる猫のくせして!」
優麗の眉毛がぴくりと動いた。これは的確に彼女の怒りのツボを突いたに違いない。優麗も立ち上がって、余裕の笑みで言い返す。
「あら、羨ましいのかしら? だったらそう言えばいいじゃない。わたしも光輝にお世話してもらいたいって」
言っていることは無茶苦茶だが、沖野の表情がさらにこわばっていった。このままいけば、また沖野がキレさせられて大乱闘なんかになり得る。俺を挟んでの第二次戦争はまっぴらごめんだと思い、止めようとする。
「お前ら、いい加減に……」
「光輝は黙ってて!!」「川島くんは黙ってて!!」
「はい……」
二人に跳ね返されてしまった。冗談ではなく、高校二年の時に立ちはだかった妖怪よりも迫力があった。
ともかく俺は、清隆の隣まで避難して大人しく座っていることにした。
清隆の肩が小刻みに震えている。声を殺して笑っているのだ。
「何がおかしいんだ?」
「いや、なんでもないぜ。あーそだ」
清隆は思い出したように、背中に合わせている鉄の扉のノブを捻って軽く押した。すると、いとも簡単に扉に隙間ができた。
「ドア、もう開くぜ? 誰かが開けてくれたのかもな」
その誰かの気が済んだのだろう。何が目的だったのかは知らないが、無事に脱出できそうで安心した。
「ああ、わかった。だが、もう少し好きにしゃべらせてやろう。こいつら、止めようがない」
それからしばらく、女子同士の激しい攻防を静かに観戦していた。お互いに体力が尽きたころにバトルは終了。気付けばもうお昼時である。もう外に出られることを告げると、自然とどこかへ食べに行く流れになった。
他の三人が去って行った倉庫に一人残り、俺は犯人を呼びかける。
「なんのつもりだったんだ、ヒマリ?」
俺の声は倉庫の冷ややかな壁に吸い取られて消えていった。誰もいない。しかし、彼女はそこにいた。
「バレていたです」
ヒマリはぺろりと舌を出して姿を現した。
そう、今回のことはヒマリが引き起こしたことなのである。俺をここまで引っ張ってきたのも、この倉庫の鍵を締めて閉じ込めたのも、すべてヒマリのしたことだ。俺はそれを、掴んできた手の温もりからすべて理解した。
あたかも推理小説の犯人であるかのように、ヒマリは動機を説明する。
「これからいっしょに大きなことを乗り越えようとしている仲間ですから、隠し事はなくしておくべきと思ったです。そのほうが心から信じ合え、協力できるです」
「沖野のこと、知ってたのか?」
「まさかあそこまでとは思わなかったです」
ヒマリはそう言って苦笑した。
優麗もヒマリも本当の沖野に気が付いていて、あの清隆もああ見えて鋭い性格をしているとなると、知らなかったのは俺だけだったのかもしれない。とすると、俺だけが知らなかった故に、沖野は本当の自分をさらけ出せなかったのではないか。そう思うと、沖野には申し訳ない気持ちになった。
「ヒマリ……余計なことしたです?」
思いつめた表情をしていた俺が気になったのか、ヒマリが自信なさげに訊ねてきた。そんなヒマリに俺は柔らかく笑いかけた。
「いや、逆だ。結果的にとはいえ良かった。ありがとうな、ヒマリ」
するとヒマリは、夏空の黄色い花のような笑顔になった。
「はいです!」
◇3
デパートのレストランで食事をした後、女性用ファッション店をいくつか回った。
こういった、女性に顧客を絞った店というのには、俺たち男は入りづらい。そのため、俺と清隆は店の外で待っていることが多かった。
ついさっき停戦が締結したばかりの仲である優麗と沖野を二人きりで買い物させるというのは少し気がひけたが、喧嘩をしつつもなんだかんだと楽しそうに買い物をしている様子だった。一応は、相性がいいということなのだろう。
すべてのお代は俺が払った。初め優麗は申し訳なさそうにしていたが、実のところその必要もないのだった。なにせこれは、昨日米倉さんが残していったおつりの一部なのだから。
そんな調子で服や日用品など一通りの買い物を終える頃には、夕方になっていた。各々疲れていたため、どこも寄らずに帰ることで一同合意した。
帰りのバスの中。隣の席では清隆はスマートフォンでニュースを見て、俺たちの前に座る優麗と沖野は肩を寄せてウトウトしていた。俺はというと、窓の外を流れるオレンジ色の風景を眺めながら、今日沖野に言われたことを頭の中で反芻していた。
――自分が正しいと思ったことをやり通す勢いとか、自分の意志を貫くために相手を巻き込む勢いとか。私は川島くんのそんな勢いに憧れたの。
「勢い……か……」
俺はもう少し、勢いを持ってもいいのかもしれない。
脚本制作に際して、俺は清隆や沖野の手伝いを考えなかった。それは、単に知識や技術で俺よりも劣るから、ということもあったが、本当のところは巻き込むことを恐れていたのかもしれない。もし断られたら。もしそれでうまくいかなかったら。そんなよくないことばかりを考えてしまっていたのである。だが、この二人に限って、それはない。なぜだか今は、そう思えた。
「なあ、この後お前ら暇か?」
気付けば、俺は清隆と沖野の肩を叩いてそんなことを口走っていた。
二人は最初キョトンとしていたが、すぐにどういうことかを理解してくれたようだ。
「もちろん、オレは暇だぜ」
と清隆が答えると、沖野も続く。
「偶然私も暇だよ」
俺は良い仲間を持った。この仲間と一緒ならば、必ず舞台を成功させることができる。そういった確信を胸に、二人を巻き込む。
「だったら、今から俺の家で脚本を作るのを手伝ってほしいんだ」
清隆も沖野も、そうくるのが分かっていたというように二つ返事で了承してくれた。
同じバス停で降りると、すぐさま俺の家に集まって、居間でちゃぶ台を囲った脚本制作会議が開かれた。現在の進行度を見せると、二人はさすがに驚いたようだったが、すぐに色々とアイディアを出してくれて、あっという間に物語の大まかな流れを作ることができた。
ここからさらに掘り下げていって徐々に細かく書き込んでいくわけだが、そこからは時間がかかるためひとまず休憩として夕食を挟むことになった。準備をしようと台所へ向かうと、コンロの上にカレーの入った鍋が置かれてあるのに気が付いた。きっとヒマリの仕業だろう。本当にヒマリはお節介焼きが大好きだな。
夕飯を食べながらも脚本について語り合い、食後も激しい意見交換を交わしながら少しずつ物語を作っていった。夕食までは横にいて色々と意見をくれた優麗だったが、夜中にまた両親の幽霊を探しに出て行ってしまった。
時には実際に演じてみたり、読み合わせをしてみたりしながら、その後も脚本制作を進めた。
その中で俺はふと、幼い頃の記憶を思い出した。仲が良かった女の子と物語を作った記憶を。それによって楽しかった思い出を。たくさんの嬉しかった出来事を。
遠い昔にも思える記憶は、不思議なくらい美しく俺の中に残っていた。
顔面に激しい衝撃を食らって目が覚めた。
何が起こった!? と慌てて上体を起こすと、俺の隣では清隆が大の字でいびきをかいて眠っていた。その手は俺の方へと飛び出ている。きっと先の衝撃の犯人はこいつだろう。ちゃぶ台には、顔を埋めてすやすやと眠る沖野の姿があった。紙や原稿用紙が居間の辺り一面に散らかり、ひどい惨状となっている。
いったい、どうしてこうなったんだったけな……?
「……そうだ、脚本!!」
しまった! 寝てしまったんだ!
慌ててちゃぶ台の上に置かれた原稿用紙の束を手に取って、あとどのくらい書かなければならないのかを確認する。
「…………あれ」
しかし、最期のページまで到達してしまった。抜けている箇所なんて一切ない。
「……完成、してる」
寝ぼけていた頭が冴えてきて、曖昧だった記憶がはっきりした。俺は、俺たちは、今朝がたまでずっと脚本制作に取り組み、どうにか一通り脚本を終えることができたのだった。そんなに長くはない劇とはいえ、一晩で脚本が終わったのはすごい。
「だが、役者を四人に減らすのが限界だったんだよな……」
もともと二十人以上の役者が必要な劇だ。四人に減らせられれば上出来とも言えるが、それでは演劇サークルにとって役者が一人足りないのだった。しかし、それくらいならばなんとかなる。急遽のサークル勧誘や助っ人募集でどうなるだろう。楽観的かもしれないが、今はそう思えた。
まだまだ台詞にも、稽古しながら直すところは多いだろうけれど、まずは終わったことが大きい。
俺は錆びついたように固くなった身体をほぐすために外へ出ることにした。
引き戸を開けると、まだ低い太陽の光がもろに目に入ってきて痛かった。雲一つない水色の空を見る限り、今日も暑くなるだろう。しかし、この時間は涼しくて気持ちがよい。
家の前の道に出ると、住宅街や農地の先にかすかに見える海から朝日が昇ろうとしているのがよく見えた。
俺は、今まで一人だけで背負っていた重荷を落とすように、ゆっくりと伸びをする。
「おはようです、ミーくん。良いお天気です」
目の前に突然湧いたように現れたヒマリが挨拶をしてきた。そんないきなりのことにももう慣れてしまった自分がいる。
おそらくヒマリは、ちょうど今帰ってきたところなのだろう。
「おはよう、ヒマリ。またどこかに出かけていたのか」
ヒマリは頷いて、俺の顔を見て微笑んで、逆に訊ねてきた。
「ミーくんのお顔も良いお天気です。皆さんとの制作、うまくいったです?」
「ああ、お前のおかげで、な。ありがとう、助かったよ」
「ヒマリは何もしてないです」
いや、昨日は色々とお世話になった。改めてお礼を言おうかと思ったが、その感謝の気持ちはそっと胸にしまっておくことにした。世話焼きの好きなヒマリのことだ。そのほうが彼女にとってもいいだろう。
ふと昨日の夜の脚本制作のことを思い出し、自然と言葉が漏れる。
「みんなで作るとこんなにも楽しかったんだな……」
しばらく忘れていた感覚だ。
こんなにも強くて忘れそうにない感覚なのに、どうして忘れていたのだろう。もしかして俺は焦っていたのだろうか。
そうだな。俺は、大学生になってもまだ作家になる夢を追い続けていることに焦っていたのだ。ずっと夢見てきて、それ以外の人生なんて考えられなかったというのに、もう少しで社会に出なければならない年齢になってしまった。自分の夢なのだから、誰かを巻き込むわけにもいかずに焦って一人で制作して、楽しみながら書くことを忘れていたのだ。だが、巻き込んでよかったのだ。そういう勢いがあってもよかったのだ。
「また、誰かとお話を作りたいって思うです?」
ヒマリが訊いてきたが、彼女にはすでにその答えが分かっているように見えた。俺はそれでも、はっきりと口にして答える。
「誰かと物語を作ることの楽しさを思い出したからな。しばらくは、一人だけで作ることはないだろう」
すると、ヒマリは何故かすごく嬉しそうに笑みを浮かべながら提案をしてきた。
「ではでは、今度からは、誰かに読んでもらって、いっしょに物語を作るのもいいかもです」
「そうだな。それはいいかもしれない」
清隆や沖野に頼んだら、きっと快く引き受けてくれるに違いない。これからの新しい制作方針を思い浮かべると、自然と口角が緩んだ。
だが、そのためにはまず、目の前の試練を乗り越えなければ。
「これから稽古と助っ人探しが忙しくなるな……」
再度伸びをしながら独り言のように呟いていると、背中にヒマリでない少女の声がかかった。
「人、足りないのよね?」
振り返ると、玄関から寝間着姿の優麗が出てきたところだった。
優麗が人不足の事情を知っているのは、昨日俺たちが大声で制作談義をしていたからだろう。睡眠を妨げてしまったのかもしれないと思うと少し申し訳ない気持ちになった。
だが、俺はそれ以上に、彼女がわざわざ人不足について訊いてきたことの方が気になった。
「ああ、優麗。もう起きたのか? 確かに足りないが、どうしたんだ?」
優麗はもじもじと手を動かしながら、ありがたい申し出をしてくれる。
「その……わたしが、四人目の役者になってもいいけれど?」
それは願ってもないことだ。もう公演までほとんど時間がないから、一刻も早く役者が揃うこと以上に優先すべきことはない。
だが――
「――だが……」
家出をしたはずの優麗が大学の創立祭で姿を現したら、騒ぎになるのではないか。それが心配だ。優麗はそのことをちゃんと分かっているのだろうか。
しかし、そんな俺の気がかりを取り除くように、優麗が自信に満ちた笑みを浮かべる。
「舞台は十一日後、わたしの家出の最終日の前日よ。それならば、行方不明者がどうのこうのと騒ぎになる前にこの家を去ることができるから大丈夫だわ。それに、演劇ならメイクをして出るから、わたしの知り合いがいたところで、まさかわたしだとは思わないはずよ」
そして最後に、声にならない呟きを発する。
「それに……恩返しをするチャンスだもの……」
最後の言葉は聞こえなかったが、優麗があえて聞こえないように言った言葉のようにも思え、聞き直すような真似はしなかった。
「もう一度言うわ。わたしが、四人目の役者をやってもいいわよ?」
優麗は、やらせてほしいという目で俺のことを見つめてくる。こっちもやって欲しかったが、そっちもやりたかったのか。素直じゃないな。しかし、子供がやりたいと言っているのだ。自由にやらせてやるのが保護者の仕事だろう。
「わかった、優麗。よろしく頼む」
その日から本格的に舞台へ向けた稽古が始まり、また、優麗もサークル活動に参加することになった。