第三話 「ゆうれいと知る」
◇1
「このたび、演劇サークルは――――二週間後の創立祭で舞台を披露することになりました! はい拍手!」
俺と沖野は、ポカン、としてしまった。
言葉が出てこない。それはもちろん感動からではなく呆れからだ。
創立祭。今日からちょうど二週間後、6月29日の学校創立記念日に行われる文化祭のようなものだ。まあ、実際は6月に創立をしたなんてことはなく、祝日がまったくない6月や7月上旬のちょうどど真ん中に特別な催しを設けて、学生がうつ病になりにくくしようという学校側の魂胆らしい。この日に出し物をしない学生にとっては休日にもなり得るので、理由はなんであれ学生たちにとって嬉しい日となっている。その日に、この演劇サークルが舞台を披露しようと言う。想像しただけで開いた口が塞がらなくなってしまった。
「…………」
……て、いかん、いかん! 俺がしっかりしなくては!
俺は一つ一つ状況を把握するために、真っ白になった頭に鞭を打って質問を投げかける。
「ま、待て、清隆。どうして、そういうことになったんだ?」
「実は前々から先輩たちからは、この演劇サークルの立場が危ういことは聞いていたんだ」
それは俺も聞いたことがある。演劇サークルは実質メンバー三人。イベントに参加しなければ実績もない。だから自治会の方から、予算の大幅な切り崩しを食らって潰しにかかられているのだそうだ。
「と、ちょうどそん時、創立祭で団体が一つキャンセルしたっていうじゃんか。もちろん、体育館のステージはできるだけ間なく演目を入れておきたいと実行委員の連中は困っていた。これは絶好のチャンス! そう思った俺はすぐさまエントリーしたってわけよ」
「それは、もう決定事項なのか?」
「おうよ、ついさっき正式に通ったぜ」
ドヤ顔でそう答える清隆を見ていると、頭痛がしてきた。立場が危ういことを踏まえれば、今からやっぱり参加しませんとはとてもじゃないが言い出せない。
一つの劇を完成させるには、衣装や小道具のことを考えて約一ヶ月前には脚本ができているくらいが普通だと聞く。しかし、もう二週間前。普通ではお披露目なんてできる代物にはならないだろう。
ある程度驚かされることは覚悟していたが、これは予想の斜め上をゆく衝撃発言だった。
「なあ、清隆。俺たちのサークルが公演をするためには足りないものがある。それは何だと思う?」
清隆は顎に手を当てて考えてから、これまでになく真顔で答える。
「勇気」
「そんな熱い展開は期待していない。足りないのは人だ、人! 小道具や衣装、音響、照明、演出、脚本に役者など。さまざまな係が必要だ。それが俺たち三人にできると思うのか?」
清隆は高校の三年間を演劇部に所属していた。それゆえ、これくらいの事情にはよく分かっていると思うのだが、どういうつもりか、あっさりと答えて見せる。
「なんとかなると思うぜ、オレたちなら」
何を根拠に言っているのか分からないが、こいつには何か考えがあるに違いない。いや、何か考えがあってほしいと願って問いかける。
「そう思う理由を教えてくれないか?」
清隆はこれからが本番だと言うように目を光らせると、順序立てて説明していく。
「まず、小道具や衣装だがよ。ステージをキャンセルしたところが本当は劇をやるつもりだったみたいで、それを丸ごとそのまま借りることができんだ。音響や照明については、先輩たちを確保できたぜ。演出や監督は役者を兼ねてオレがやる。当日の手伝いはオレの知り合いが使えるからそれでいい。最後に脚本だが、光輝がやってくれんだろ?」
「待ってくれ。小道具や衣装はキャンセルした団体から借りられるんだろ? 脚本も譲ってもらうことはできないのか?」
小道具や衣装ができているということは、当然脚本もできているはずだ。
しかし、清隆は首を横に振った。
「そもそものキャンセルの原因はそこにあるらしいんだよ。用意していた脚本が著作権に引っかかるものだったと気付いたらしくてな。今から書き換えるのも間に合いそうにないからって諦めたんだとよ」
他の団体が諦めたことを俺たちが成し遂げようとしている。そのことに気が付くと、ますます自分たちにできるのか怪しくなってきた。だが、このまま脚本のことでとやかく言っていても話が進まない。
「とりあえず脚本の話は置いておこう。他に何か絶対的に実現不可能なことがなければ、俺がやる。そもそもこのサークルにはそれが目当てで入ったわけだし」
とは言ったものの、正直劇の内容次第ではある。ジャンルによっては書きづらかったり、原作がないと書けないものもあったりする。
「それで、演目は何なんだ?」
「現代版ロミオとジュリエット」
「は?」
「現代版ロミジュリ」
「……」
ロミオとジュリエットとは、あのロミオとジュリエットだろうか? 対立する両家の息子と娘が禁断の恋に落ちるというあれだろうか? いや、それしかないな……。その現代版ということは、主な役の数はほとんど変わらないと見ていいだろう。
「無理だそんなもの! 三人でロミオとジュリエットだと!」
「だから、ロミジュリの現代版だってよ」
「変わらねーよ!」
「変わるんだな~、それが」
清隆はニタニタと気持ちの悪い笑みを浮かべながら、いつも持ち歩いているボストンバッグから一冊の冊子を取り出した。
「これはキャンセルした団体が使っていた脚本なんだが、ちょっと見てくれねーか?」
清隆は冊子のページを広げて見せてきた。第一幕第一場、最初のシーンのページが開かれている。清隆は台詞を指差しつつ、俺と沖野に説明をする。
「ここの場面の必要な役者の数は原作では十人ほどだが、この脚本では五人になってる。太守や従者とかの現代では見ないような立場を排除したんだろな。次の場面も五人だったのが三人になってる。他の場面も大方そんな感じで登場人物が現代版になるに合わせて減らされてんだ」
清隆の言いたいことが大体分かった。
「つまり、常に一つの場面には三人までしか出てこないように脚本を書き、俺ら三人がフルでステージに上がっていれば、現代版ロミオとジュリエットとやらをすることができる、と?」
清隆は自信たっぷりに頷いたが、俺の頭ではうまく回るようなビジョンが浮かばなかった。一人何役やればいいのかという話だ。そこまでくると、俺としては、敢えて棘の道を進む必要性が分からない。
「そこまで改変するんだったら、無理に現代版ロミオとジュリエットに拘らなくてもいいんじゃないのか? 現代を想定した衣装だったら、ある程度の劇には対応できるだろうし」
すると清隆は、秘密兵器の登場とばかりに沖野に向いた。
「だがよ、沖野さんはロミオとジュリエットやりたいだろ?」
「え、わ、私は……」
ここまで全く口を挟まずに俺と清隆の会話を見守っていた沖野は、突然振られた問いに狼狽していた。追い打ちをかけるように、清隆が言い換えて質問する。
「悲しく儚い恋がテーマのロミオとジュリエット、やりたいだろ?」
「やりたい! 絶対それにしよ!」
沖野の態度は一変。すっかり清隆側に付いてしまった。一体何が彼女をそこまでやる気にさせたのかは知らないが、これで二対一、形勢は一気に不利になった。
それでも、他に実現が難しいことはないかと考えを巡らせて、それを清隆にぶつける。
「だが、台詞の数が多くなりすぎる上に休みなしなのは辛い。衣装の着替え時間だって必要だ」
「劇自体は短いものにすればいいんじゃねーか。実行委員にも一時間ステージを持たせてくれれば十分だと言われてんだ」
一時間。それだったら体力的にはもつだろう。
「衣装替えの時間についてはどうする?」
「それも考えがある」
清隆はまっすぐと俺の目を見て答えた。よほどその考えとやらに自信があるのだろう。その目に、やってもいいかもしれないと心が揺らぎ始める。
清隆はそんな俺の心の内を見透かしたかのように改めて問う。
「どうだ、やってみねーか? オレたちで、演劇サークルを立て直すんだ」
立て直す、という単語に、俺や沖野の緊張感が増した。それを感じ取った清隆は言葉を間違えたと言わんばかりに笑みを浮かべて、咳払いをしてから最後に締めくくった。
「それによ、こんなこと今しかできないんだぜ? 失敗してもいい、成功すればなおよし。学年が上がったり卒業したりしたらできないかもしれねーんだ。今を楽しもうぜ」
それは、現実を――社会に出て行くということがどういうことなのかをちゃんと見ているからこそ、出てくる言葉なのだと思った。昨日進路について話している時もそうだったが、意外にもこいつは現実主義なのだ。
清隆の問いかけに、最初に答えを出したのは沖野の方だった。
「私、やってみたい」
沖野に視線が集まると彼女は一瞬怯んだが、振り絞るように自分の思いを言葉にした。
「最上くんの言う通り、これは今しかできないことなんだと思うし、なんというか……」
言葉を探して宙を見上げ、そして、実に単純かつ明快な理由が飛び出す。
「楽しそうだから」
「沖野……」
楽しそう。それは俺も感じていた。何と言ったって、これは俺が自分の脚本を発表するまたとない機会なのだ。わくわくしないわけがない。だが、それをするためには俺だけではなく、みんなが膨大な時間を費やさなければならない。責任だってある。それが俺に、俺たちにできるだろうか。
沖野の言葉を聞いて満足そうに頷いた清隆が、
「さぁて、あと決まってないのは脚本だけだ。光輝が脚本をやると言ってくれさえすれば、すべてが始まるぜ」
と言った。
清隆だけではなく、沖野も俺の答えに注目しているようだった。張りつめた空気が体育館内に広がる。最後に俺の一言ですべてが始まるとは、してやられた。――断れるわけがないじゃないか。
「わかった、清隆、沖野。やろう」
清隆と沖野の表情が一気に明るくなった。緊張感は解け、これから戦いを共にする友のように親しみの感情が湧いてくる。
その雰囲気に合わせて調子に乗った清隆が親指を立てて言ってきた。
「そうこなくっちゃ! じゃあ、明日までに脚本頼むぜ!」
「無理」
◇2
結局、脚本作成のために三日間猶予をもらって、その場は解散となった。
だが、三日でも短い。短すぎるくらいだ。小説でいうなら、三日間全力で書いても一話を仕上げるのがやっとなくらいである。それを今回は、脚本一本完成させろという。今日が金曜日であるとしても、土日を費やしてどうこうなるものでもない。やるだけのことはやるつもりでいるが、三日後に完成している自信はまるでなかった。
「何やら大変なことになっちゃったです」
夕焼け空の帰り道、住宅街に差し掛かったところでヒマリが話しかけてきた。一応、誰かがいる前では話しかけないという昼間の約束を覚えていてくれたようである。
大変なこと、とは、舞台のことを言っているのだろう。
「まったくだ。清隆の急な思い付きにも参ったものだ」
とは言ったもの、なんだかんだ言って清隆はここまで一人で計画を推し進めてきてくれた。こんなにもお膳立てしてもらったのだから、やらないわけにもいかない。
ヒマリはくすりと笑った。
「ですが、その割にはミーくん楽しそうです」
「ん、そうか?」
自分では自覚していなかったが、気が付けば口角が上がっていた。きっと俺自身、大変だなと思うよりも楽しみなのだろう。ようやく、念願の脚本家としての活動ができるのだから。
「とりあえず、家に帰ったら優麗の食事を用意して、すぐに脚本制作に取り掛からないとな」
そうして、この後のスケジュールを組み立てているとヒマリが申し出てきた。
「でしたら、ヒマリは先に帰ってお夕食の支度をしているです」
「だが、優麗がいるだろ?」
「もちろん、見つからない範囲でするです」
ヒマリは任せてくれと言うようにポンと胸を叩いた。
「じゃあ、お願いしようか」
ヒマリを送り出そうとしたところで、視界の端を変なものが横切った。青白い煙のようなものの塊だ。誰かが季節外れの花火でもしているのかと何気なく目を向けると、全身の毛が逆立つような感覚がした。
「あ、あれ、ああ……ッ!」
煙の中心には、白く光る玉があったのである。いわゆる、火の玉とでも言うべき見た目だ。それがシャボン玉のように風に流されて漂っていた。
急いでヒマリの手を掴んで火の玉を指差すと、ヒマリは安心させるように微笑んだ。
「あれも幽霊です。一人分の魂しかないですから、ヒマリのように形になることもできない幽霊です。夜になると幽霊の行動が活発になるですから、出てきたみたいですね。ですが安心してです。危害を加えてくることはないです。では、ヒマリは先に……」
「待ってくれ!」
「はいです?」
帰ろうとするヒマリを引き留めた。
「や、やっぱりいっしょに帰ろう。な?」
別に、火の玉が怖いとかそういうわけではない。断じてない。
ヒマリは困ったような顔になった。
「ですが、それではお夕食の準備が……」
「いい! そんなのは帰ってからでいいからいっしょに帰ろうな」
話している最中にも、火の玉がぐらぐらと俺の方に寄って来たので、全力で回避した。その様子を見て、ヒマリが訊いてくる。
「もしかして、ミーくん。火の玉さんが怖いです?」
「なわけあるか!」
「ですよね、ヒマリのことは怖くないのに火の玉さんは怖いっておかしいですし」
「そそそそそ、そうだよな、はは、はははは」
言いながら、もう一つ別の方向から来た火の玉を跳び箱の要領で避けた。
へんてこな踊りをしているような俺を見て、ヒマリはクスクスと笑っていた。
「じゃあ、いっしょに帰るです」
俺は、始終ヒマリに寄り添うようなかたちで帰路を歩いた。きっと傍から見たらさぞ気持ちの悪い人に見えたことだろう。変な格好で歩いていると思ったら、いきなり伏せたり飛び跳ねたりしていたわけだから。
「やっと帰ってこれた……」
結局、家にたどり着くまでに数えきれないほどの火の玉と出くわした。もう二度と夕暮れ以降に一人では出歩かないと誓う。
疲れ混じりの安堵の息を漏らした俺の頭を、ニコニコと笑みを浮かべながらヒマリが撫でてきた。
「よく頑張ったです、ミーくん」
絶対バカにされている。だが、言い返す言葉が見当たらなかったから、誤魔化すようにして玄関の戸に手を掛けた。
「さあ~早いところ夕食の支度しないとナ~」
あからさまだったが、逃げてしまえばこっちのものだ。
そう思って勢いよく戸を開けると――
「っ!?」
――そこには、黒くて長い髪を顔の前にたらし、白いワンピースを着た女の幽霊が這ってきていた。そろりそろりと爬虫類のごとく手足を動かして、あっという間に俺の足もとまで到達してしまう。あまりに突然のことに、俺の心臓は空へと飛び出し、意識は宇宙へと飛び出した。つまり、早い話が、失神したのである。
遠退く感覚の中で、少女のこんな声が聞こえた。
「え、ちょっと、光輝!? 大丈夫!? ね……みつ…………」
◇3
「ごめんなさい、まさかあんなにも怖がるとは思わなかったわ……」
ちゃぶ台を囲う夕食の場で、部屋着に着替えた優麗が申し訳なさそうに謝ってきた。
玄関で這ってきたやつの正体は、優麗だったのである。ちょっと驚かしてやろうというつもりが、予想以上の反応に優麗自身も肝を冷やしたそうだ。幸い失神はすぐに目覚めたものの、失神にまで至ったせいかお互いに気まずい空気が流れてしまっていた。
俺は茶碗を片手に、おかずを口に運びながら言う。
「いや、別にいいが。もうやらないでくれ……」
「……わかったわ」
「……」
「……ぶっ」
唐突に優麗が吹き出したことのよって静かな空気が壊れた。食べていた物が原因ではない。彼女は笑いながら再度謝る。
「ごめんなさいっ、ふふ……さっきの光輝の反応を思い出したら」
思い出し笑いだった。最低なことに、驚いた俺のリアクションを回想して笑っているようである。まったく腹立たしい。
「お前、全然反省してないだろ?」
睨みを利かせつつ言うが、優麗には全くと言っていいほど効果がないようだ。優麗は、茶碗と箸をちゃぶ台の上に避難させると、身体を前に倒してプルプルと震えていた。
「し、してるわよ? でも、うふふふふ」
それからひとしきり笑うと、優麗はまだ薄ら踊っている声で訊ねてくる。
「でも、光輝。いつもならあれで驚きすらしないのに、今日はどうしたの?」
「たまたまだ」
「えー? そうかしらぁ?」
優麗は勘ぐるような目つきで俺を見てきたが、本当のことを言うわけにもいかない。第一、言ったところで昨日のように変人扱いされるのが関の山だ。そのあとも時々、思い出しては笑い出す優麗を後目に早々に夕食を終え、さっさと二階へ上がった。
自室にこもり、勉強机に着くとノートパソコンを開く。中学生までは紙とペンで物語を書いていたが、今はこれが俺にとっての紙とペンだった。
「さて、と。頑張りますか」
独り言を呟いて作業に取り掛かろうとすると、背後に声がかかる。
「では、ヒマリはちょっと用事があるので行ってくるです」
先ほど夕食の支度を作ってくれた後、しばらく見失っていたヒマリがそこにはいた。そんなヒマリの登場の仕方にも少しずつ慣れてきた自分がいる。
「今日も行くのか? というか、どこに行っているんだ?」
しかしヒマリは答えてはくれず、人差し指を唇に当ててウィンクしてきた。
「内緒、です」
雀の鳴く声がすると思ったら、朝になっていた。途中、いつもの通り優麗がどこかへ出かける音と帰ってくる音が聞こえたのは覚えているが、それ以降どう朝になったのかは分からない。
頭がガンガンする。目が腫れた感じだ。それもそのはず、結局昨晩は一睡もしなかったのだから。
「まったく進まなかった……」
何も夜通し遊んでいたわけではない。物語全体の大まかな流れを作る作業に頭を捻らせていたらあっという間に朝になっていたのである。明らかに普段よりもペースが悪い。
「ただいま戻ったです」
ヒマリの声がした方に目を遣ると、ちょうど彼女が扉をすり抜けて部屋に入ってくるところだった。ヒマリは俺の表情を見て、すぐさま異常に気が付くと眉を曇らせた。
「もしかすると、寝てないです?」
俺は声を上げるのも面倒くさく、頷いて答えた。
「ずっと作業してたです?」
また俺は頷いた。するとヒマリは、どこから取り出したのか割烹着を身につけ始めた。
「ヒマリが朝ごはん作るですから、ミーくんはシャワーでも浴びてきてです」
「でも……」
優麗に見られたら、と言おうとしたが、ヒマリに遮られる。
「大丈夫です。ヒマリにお任せです」
ヒマリの言葉は、正直俺にとって大きな救いだった。昨日は結局風呂にも入っていないし、頭がぼんやりしている。ここはヒマリの優しさに甘えるとしよう。
「すまん。頼む」
シャワーを浴びて台所に戻ると、ヒマリが鼻歌を口ずさみながら鍋に野菜を入れているところだった。
「ありがとう、本当助かるよ」
ヒマリは鼻歌を止めてこちらを見た。
「いえ、これくらいどうってことないです。むしろ、どんどん頼ってほしいくらいです」
そうして、こちらまで頬が緩むような笑みを浮かべた。料理をしている今のヒマリは高校生くらいの見た目なわけだが、こうした表情をされるともっと幼く見える。
「あ、もうすぐでできるですから、そこに座って休んでてです」
見れば、昨日と同じ位置に椅子が置いてあった。このままいけば、ここが俺の定位置となってしまいそうだな。俺は言われるがまま腰かけて、ご飯の支度をするヒマリの背中を眺めた。
足を動かすたびに左側のワンサイドアップが踊り、手を動かすたびに着物の袖が舞っている。それは優雅に飛ぶ蝶のようにも見える。なんというか、女の人が料理を作る姿を後ろから眺めると、こんなにも幸せな気分になるのは俺だけだろうか。こんど優麗にも料理をおしえてやろう。
ヒマリはもう片付けてよい食器を洗いながら、唐突に語りかけてくる。
「脚本……うまくいってないです?」
彼女の背中に見とれていたところを、俺は夢から叩き起こされたような気分で答える。
「ああ、まあ、そうだな。うまくいってない」
それを聞いてもヒマリはすぐに何かを言うことはなかった。皿やボウルをすべて食器カゴに入れ終えた時、再度ヒマリが身体をこちらへ向けて訊ねてきた。
「清隆さんや未来さんに手伝ってもらうことはできないです?」
「それは……できない」
与えられた時間は三日間とはいえ、まだ一日しか消費していない。これで早くも助けを乞うというのは、情けないような気がしてならないのだ。それに、俺にはプライドがあった。幼い頃から物語を作り、物心が付いた時から文章を書き始めていた。だから、彼らに頼ってもきっと意味がないという傲慢さが少なからずあったのである。
ヒマリは特に理由を問うことなどはせずに、いつも通り微笑むのだった。
「ご飯、できたです」
今度はカラスの鳴く声で夕方だと気が付いた。
勉強机の真正面に設置された窓から空を見上げると、赤が徐々に紫に変わっていくところだった。部屋の中は窓以外の光源がないせいで黒に満ちていた。
しかし、パソコン画面に映し出された文書ソフトの紙は、真っ白のままだった。
「夕食の支度しないと……」
ここまで作業が進まないと、食事をするのが面倒くさくなってくる。なぜ人は食べなければ生きていけないのだろう。いっそ幽霊になってしまえば食事をする必要が無くて楽なのに。
昼もヒマリに作ってもらったが、夕食もそのようになるかもしれない。ヒマリを呼ぼうと机に背を向けると、ちょうど彼女が現れた。
「あ、ちょうどよかった、ヒマリ。夕食も準備お願いしていいか?」
「え、ですが、もう冷蔵庫の中が空です」
「え?」
「お昼の時も言ったですが、ミーくん上の空だったです」
そんな馬鹿な。そこまで俺は追い込まれていたのか。さすがに買い物をヒマリに任せることはできない。勝手に買い物カートが動いたり商品が浮いたりしたら問題になること間違いない。
「わかった。じゃあ、買い物に行ってくる」
俺はパソコンを休止モードにして財布をポケットに突っ込んだ。そしてヒマリの横を抜けて自室の戸に手を掛けたところで、昨日の誓いを思い出して彼女に向く。
「ヒマリ……すまんが付いてきてくれ」
「はいです!」
ヒマリはすぐさま事情を察知してくれたようだった。
◇4
火の玉に怯えつつ近くのスーパーまで歩いて行き、買い物を終えて帰路に着いた。
真っ暗な道の中、街灯とは別に火の玉が照らしてくれる。だが、それはまったくありがたいことではない。
怖がり過ぎだと馬鹿にするだろう。しかし、ヒマリは話せば分かるやつだが、火の玉は話せるかどうかすら分からない。結局、どこまでいっても怖いものは分からないものなのだ。
火の玉について考えていたら、ふとした疑問が湧いてきた。
「そういえば、家の中やスーパーでは火の玉を見ないが?」
「建物にはだいたい魔除けか何かが施してあるですから、ヒマリのようにある程度強い幽霊でないと入れないです」
そうなのか。今までは非科学的なだけに信じてなかった魔除けや風水に、少し信頼感ができた。これからは火の玉対策として、魔除けグッズとかも持ち歩いたほうがいいかもしれない。
「あのっ、ミーくん!」
ヒマリが突然、真に迫った声で俺の名を呼んだ。しかし、彼女の目はこちらを見ておらず、俺の背後を見ていた。もしかして、また怖い幽霊でも現れてしまったのだろうか。俺は怯えつつ恐る恐る小声で尋ねる。
「何だ……?」
するとヒマリまでつられたように囁き声で答えてきた。
「今日も来てるです」
ぞっとした。来ているものの正体は一体何だ。怖かったが、ごくりと唾を飲み込んでヒマリに訊いてみる。
「な、何が来ているんだ……?」
「ストーカーです」
「はい?」
「ストーカーです」
ストーカー? 俺に?
いや、確かにたかがストーカーと言って馬鹿にできない。時に幽霊よりも怖い。だが、俺には自分にストーカーがいるということが信じられなかったのだ。
「何かの間違いじゃないのか?」
「間違いではないです。ここ最近に始まったですが、こうして後を付けてきて、夜になると家の前にいることが多いですし」
「間違いなくストーカーだな、それは!」
背筋が冷えた。誰かに家の前にいられるというのは、ここまで気持ちの悪いことなのか。しかし、普段ならまだしも、いま家の前にいられるというはまずい。もし優麗の存在が知られてしまえば、取り返しのつかないことになるからである。
「仕方ない。俺がなんとかする」
俺は回れ右をして振り向いた。
「え、ですが!」
「大丈夫だ。そいつはどこにいる?」
ヒマリは乗り気ではない様子だったが、それでもずっと見つめ続けていると折れてくれた。
「……あそこの木の陰です」
見ると、スーパーを出たところに伸びる並木道の一本の木から、黒い頭がはみ出していた。頭は俺の視線を警戒して、すぐに木に隠れてしまった。
「気付かれたとは思ってないみたいだな……」
ならばチャンスだ。ここは捕らえて、ガツンと言ってやるべきだろう。
俺は買い物袋を地面に置くと、スタンディングスタートを決めて目標の木に向かって駆けた。久しぶりにまともに身体を動かしたせいか、なかなか手足がいうことを聞いてくれない。けれど、相手に動かれるより先に、木の向こうまで回り込むことに成功した。しかし――
「いない……ッ!?」
――そこには誰もいなかった。
まさか幽霊だったのか、と戸惑っているとヒマリが叫んだ。
「ミーくん後ろです!!」
背後からの気配を感じ取った時にはもう遅かった。俺の身体は腰を軸にして回転し、瞬きをする間に仰向けに倒されてしまったのである。そして、ストーカーと思われる相手がしゃがみ込んで俺の顔を見てきた。
こちらからは暗くてよく見えないが、どうやら女性のようである。長くてさらりとした黒髪をポニーテールにしているようだ。
俺は簡単に倒されてしまったことに怯みながらも、勇気を奮い立たせて次なる手段に打って出る。
「これ以上ストーカー続けたら警察呼ぶぞ?」
それに対して相手は、サイドの髪を耳に掛ける動作をしながら余裕の言葉を口にした。
「あら、もしそんなことしたら、あなたこそ警察に捕まっちゃうでしょう? ――中学生女子誘拐の容疑で」
凛とした大人の女性の声だった。こんな状況でなければ聞き惚れていたところだろう。だが、今はそれどころではない。
中学生女子の件。もうそんなことまで突き止めていたとは……。これは少し交渉しなければいけないようだ。
「だったら、あんたを警察に言わない代わりに、その件も見逃してくれないか?」
「なかなかいい根性しているわね。自分を売ってでもあの子を守ろうだなんて」
ん、あの子……? それに守るって、あまりにも事情を知りすぎやしないか?
あからさまに戸惑う俺を見て、ストーカー女は提案してきた。
「少しお茶をしましょう」
ファミレスの二人掛けのテーブル。
正面には、二十代後半と思われる女性。黒髪のロングヘアをポニーテールに結わえ、恐らく元から白いであろう肌は化粧で一段と輝いて見えた。理知的な黒縁メガネの奥には、冷たそうな目がきらりと光っている。クールな顔つきの割に可愛く文字が刺繍された白いTシャツに地味な色のジャケットを着ており、足が細く見えるペンシルトラウザーを穿いていた。
名前は、米倉歩。
米倉さんはなんと、常盤優麗のまたいとこだという。わけあって現在、優麗はこの人のもとで暮らしているらしいのだが、保護者の身として危ない目に遭っていないか心配になって、俺のことをストーカーしていたらしい。つまり、米倉さんは優麗の家出を陰から見守っていたのだ。ついては、今のところは優麗のことを警察には届け出てないと言っている。だが、俄かには信じがたい。本当はただのストーカーで、詳しくなった俺の事情を利用して自己紹介しただけなのかもしれない。そう思っていたが、
「お待たせしました。サラダLサイズにチゲ鍋、ペペロンチーノパスタ、ステーキのライスセットになります」
という呪文と一緒に店員によって召喚された料理の数々を見て、俺は確信に至った。この人は間違いなく常盤優麗の血縁である、と。
俺の隣にはヒマリもいて見守ってくれている。その安心感を糧に、俺は強気の姿勢で切り出した。
「それで、優麗のまたいとこさんとやらがどうしたんですか? 優麗を取り返しにでも来たんですか?」
「それはしないから安心してちょうだい。あの子の家出が今後の人生に大きく関係してくるかもしれないということはもう知っているかしら? 知らないなら今知りなさい。ともかく、そういうわけだから、アタシはあの子を止めてはいけないと思う。それだけよ」
米倉さんは、ステーキをナイフとフォークで細かく切りながら答えて、ライスといっしょに口の中に押し込み始めた。その食べっぷりを見て、俺は軽く皮肉を言う。
「あれ、俺はお茶をしようってナンパされたはずだったんですが?」
「そんなことはどうでもいいわ。あなた早く帰ってしたいことがあるのでしょう?」
「サークルのことまで知ってるのか……」
「演劇サークルだったわよね。懐かしいわ。アタシも日向大学演劇サークルだったのよ? その頃は部員ももっと多くて、大々的に公演もしていたりしたわ。といっても、アタシはほとんど音響ばかりをやっていて、演じたことなんて一度もなかったけれど。本当に懐かしいわ」
米倉さんは大切な記憶を宝箱から手に取って見るような目つきになり、そのままパスタを頬張った。せっかくの美人の愁え顔が台無しである。
「サークルのことはよく分かりました。それより、そろそろ本題に入りましょう。話したいことがあるから、お茶……大食いに俺を付き合わせたのでしょう?」
米倉さんは俺を睨みつけた。それが語り足りないと怒っているのか、大食いと言ったことを怒っているのか分からなかったが、諦めたように息を吐いて話し始めた。
「いいわ。お話ししましょう。あの子が、優麗が家出をした原因について、よ」
「それは……」
本音を言うと知りたかったが、当の本人が話したくない様子だったので聞かないようにしていたことだ。
「あいつのいないところで聞くことはできません。あいつ、それだけは話してくれなかったんですよ。それをここで聞いたら、なんかズルいような気がします」
すると米倉さんは、年下を可愛がるように口角を持ち上げた。
「あら、知らなかったの? 大人ってズルい生き物なのよ?」
「ズルそうな人に言われると説得力がありますね」
「え? 今なんてほざいたのかしら?」
「なんでもありません!」
今、一瞬この人の目に確かな殺意が宿ったぞ? この人はストーカーである以前に別の犯罪者なのではないだろうか。
米倉さんはパスタを完食して水を飲むと、仕切り直すように言う。
「仮とはいえ、今のあの子の保護者はあなたよ。聞く権利……いいえ、聞く義務があるわ」
保護者。家出の子供を預かっているだけのつもりが、いつの間にかそんなものになっていたとは。その言葉には責任というものを感じ、責任を負うからには優麗のことをきちんと知っておくべきだと思った。たとえ……ズルかったとしても。
「すみません。教えてください」
米倉さんは頷いて、フォークを皿に置いて話を始めた。
「あの子ね、小学校4年生になったくらいにね、両親を交通事故で亡くしているの」
いきなりの重い話題に気後れした俺へちらりと目を遣り、米倉さんは淡々と話を続けた。
「それからずっと親戚の家をたらい回しにされたの。その間に色々な人間と出会ったから、人の嘘には結構敏感になったみたい。一目見て、相手がいい人か悪い人かくらいはわかるって」
だからこそ優麗は、俺なんかの家に居候する気になれたのだろう。さらに言えば、だからこそ米倉さんは、俺なんかの家に優麗がいることを黙認してきたのだろうと思った。
米倉さんはスプーンを使って、スープのようにチゲ鍋をすすった。
「そうやって厄介者扱いされた挙句、つい三ヶ月前にたどり着いたのがアタシの家よ。収入が落ち着いて扶養家族が持てるようになったアタシのところに、遠い親戚のおじさんが投げつけるようにしてよこしてきたわ」
スプーンを握る米倉さんの拳は震えていた。
「その時アタシは初めてあの子の事情を知った。けれど、知ったところであの子のためにしてやれることなんて何一つなかった。仕事が忙しくて、特別な理由でもなければ絶対に休むことのできない社会人には、彼女に接してやれる時間なんてなかったのよ」
そんなの言い訳だ。現にこうして、俺なんかにストーカーして、ファミレスに来る時間まで確保できているじゃないか。
俺の心中を悟ったように、米倉さんが自嘲した。
「皮肉よね。いなくなってから時間を作るようになるなんて」
本当だ。まったくもってそうだ。なんという皮肉だろう。いなくなってから、会わずに陰から家出を応援することしかできないなんて。皮肉と言わずして何と言おう。
米倉さんはサラダにドレッシングをかけた。ドロリと重そうなドレッシングが野菜を潰すようにかけられていった。
「アタシを含めた親戚連中がそんなだから、親が死んでも、あの子を慰めてくれる人も支えてくれる人もいなかったわ。だから、四年間ずっとあの子は、親の死を――現実を受け止めることができなかったのよ。そんな時に、忙しい独り暮らしOLの家に来たら、どうなったと思う?」
「それで家出、ですか……?」
米倉さんは頷いて、サラダの中からミニトマトを一つフォークで突き刺して食べた。
「あの子ね、心配を掛けまいとアタシに置手紙を残していったのよ。そこにはこうあったわ。『しばらくお父さんとお母さんを探す旅に出ます。行き先は、以前お父さんとお母さんといっしょに暮らしていた町です。たとえ出会えなかったとしても、三週間後には必ず戻ります。でも、もし出会えたら、きっと現実を見て今を生きることができると思いますので。』」
「え、しかし……」
俺が抱いた疑問を米倉さんが察したように答える。
「そう、もう死んでいる相手を探すなんてどうするのか、とても謎だったわ。でも、あなたの家に来て毎晩していることを見て納得がいった」
優麗が毎晩していること。それは、幽霊の格好をして人々を驚かすこと。彼女はそれを、幽霊を呼び出すための儀式と言っていた。優麗は、自分の両親の幽霊に会おうとしているのだ。
「親の幽霊に会うために幽霊ごっこを……」
締めくくるように、米倉さんは水を口に運びつつ言う。
「非現実的に現実的なのよ、あの子は」
親の幽霊に会えたら現実を見る。現実的であるための条件が非現実的だ。そんな人間が現実的になることなんてあり得ない。つい三日前だったら、そう言っていただろう。
けれども、今は違う。俺の隣にはヒマリという幽霊が確かに存在し、外にだって無数の幽霊が飛んでいるのだ。
優麗の非現実的な願いは、現実に叶うことができる。
だが――
「だが、俺は気に入らないです」
「気に入らない? 何がかしら?」
米倉さんが疑問符を浮かべていた。確かに、優麗の話は健気で哀れだ。俺が気に入らなかったのは――
「――子供の成長に親なんて必要ないということです。子供には、自分の正しいと思った道を進ませればいい。大人なんて邪魔なだけです。だから、親に会う必要なんてないと思います。言ってしまえば、無駄なことだと思います」
すると米倉さんは、少しだけ眉を歪ませると、悲しい笑みを作って言うのだった。
「今、なんとなくだけれど、あなたがまっすぐなようで捻くれている理由が分かった気がしたわ」
捻くれている。確かに俺は、捻くれているかもしれない。
視線をテーブルへと落とすと、注文された料理たちは皿を残して姿を消していた。ついでに米倉さんも、伝票の裏に電話番号を書いてその場を去って行ってしまった。
あれ……?
「あの人、学生に支払い押しつけてったよ!」
なんて大人だ! 社会人の風上にも置けない!
イライラを胸に、文句を言いながら伝票をレジまで持っていくと、バイトと思われる若い男性店員は困ったように言いだした。
「それが……そのお会計はもう頂いております」
「え?」
「逆に、おつりをお連れ様にということでして……」
「はあ……」
どういうことだろう。混乱解けぬまま店員からおつりを受け取ると、そこには一万円札が二枚に五千円札が一枚、その他小銭が……。おつりと言うにはあまりにも多すぎる。
あとから考えてみると、それは今までにかかった優麗の食費やタクシー代とこれからかかるだろう費用の合計と同じくらいの金額だということに気が付いた。
◇5
玄関の戸を開けると、すぐさま優麗が迎えに出てきてくれた。買い物にしては遅いと心配していたのだろう。少し青い顔をしている。
「どうしたの、光輝? えらく遅かったけれど?」
「……なんでもない」
優麗にそっけなく返事をして靴を脱ぎ、買い物袋を玄関に置いて逃げるようにして階段を上がる。
「ねえ、ちょっと光輝!」
優麗が呼び止めようとしてきたが無視した。
だが、優麗に冷たく当たったところで、どうして自分が苛立っているのか分からなかった。分からないくせに彼女に八つ当たりしてしまう自分に、さらに腹が立った。だから俺は、気持ちが落ち着くまで自分の部屋に籠ることにしたのだ。
部屋に入って荒くドアを閉め、勉強机に肘を衝いて頭を抱えた。
「くそ……」
駄目だ。気持ちが落ち着かない。一体俺は何を思っているんだ。
その時、火事になった俺の心に清らかな水をかけるようにして、誰かが背中越しに俺を抱きしめた。あまりにも軽すぎるということは、ヒマリだろう。幽霊なのだから、本当は温かいはずなんてないのに、確かな温もりを感じた。ああ、これは身体ではなく心の温度なのだろうと思った。
ヒマリは俺の耳もとで囁くように優しい声で言う。
「ミーくんの気持ち、ちょっと分かるです。お忙しい共働きのご両親のもとで、小さい頃からずっと独りで過ごしてきたミーくんの気持ち、ちょっとだけなら分かるです」
ヒマリはずっとこの家にいた。だから、俺がずっとこの家で独りだったこともよく知っているのだろう。死んではいない親だが、俺にとってはいないも同然の親。だが、優麗にとっては……。
そこで、どうして自分の頭に血が上っているのかが分かった。
今日、俺は、過去の自分を裏から見ている気になったのだ。子供に関わろうとしない保護者の気持ち。時間が取れなくて子供と接することができないと言う親の気持ち。そうしたことから大嫌いな両親のことを思い出してしまったのである。そして、そんな大人に囲まれ、勝手に先立たれながらも、親を恨むこともせずに会おうとしている優麗に言ってやりたかったのである。
――なぜ分からない、と。
ヒマリは、抱きしめる腕の力に少し力を込めた。
「ですが優麗さんにとって、ご両親はかけがえのない、唯一無二の家族だったです。その優麗さんの気持ちも、少しは分かってあげてほしいです」
どうしてだろう。ヒマリに言われると、素直に受け止めたくなるような気がした。
「ああ、そう……だな」
火が治まり、心に静けさが訪れると、客観的にものを捉えられるようになった。純粋に、優麗を助けてやりたいという気持ちが湧いてくる。
「俺も探そう。優麗の両親を見ることができるのは俺なんだ。それが正しい道だ。ヒマリ、お前も手伝ってくれるか?」
「はいです!」
正しい道。物語の主人公が選ぶ道。
そこでふと、思い出すことがあった。幼い頃、独りで寂しかった俺とよく遊んでくれた女の子がいた。今となっては肝心の名前や顔も思い出せないが、その当時の俺にとってはかけがえのない存在だったことは確かだ。そういえば、その女の子にこう教えてもらったのだ――
「――自分が正しいと思った道に進めばいい……」
「ミーくん?」
ヒマリに顔を覗き込まれ、思わず口に出してしまっていたことに気が付いた。
「あ、いや、何でもない。忘れてくれ」
俺は、女の子のその言葉のおかげでいままで迷わずに生きてこられたのだ。まさに彼女の言葉こそがこれまでの俺の人生と言える。しかし、なぜ今その子のことを思い出したのだろう。
まあ、いい。俺もひとまず忘れよう。脚本に加えて幽霊の両親探しまで加わってしまったのだ。これからさらに忙しくなる。
まずは、夕食の支度からだな。