第二話 「ゆうれいと出会う」
◇1
小説の第一条件は、フィクションである、ことだ。
フィクションとはすなわち、現実に起こり得ないような空想のお話、という意味であるわけだから、小説とは実に奇々怪々な出来事が綴られたものだと言えよう。
故に俺は、小説以上におかしな事象は現実において起こるはずはないと思っていた。思い込んでいた。
だが所詮、小説とは人に考えられる範囲のものなのである。現実は、そうじゃない。事実は小説よりも奇なりという言葉が示すように、現実とは――現実に起こりえないような空想よりも奇怪なのだ。
四日前、俺は身をもってそれを思い知った。
居間にて小説の原稿を確かめながら夕食を食べていると、庭に白い塊が降ってきたのが視界の端に映ったのである。最初は布団か何かだと思った。
念のため、俺はガラス張りの戸を開けて姿を確認し――静かに戸を閉めた。
「あれ~、俺疲れてるのかな……」
正直、今見た光景が現実であるとは思いたくなかった。どう見てもそこには、白いワンピースを着て、顔を黒髪で覆った女性の幽霊が這っていたからである。あたかも、某ホラー映画のテレビから出てくる女の幽霊のように……。
見なかったことにしてカーテンで封印し、改めて夕食の続きを楽しもうとしたら、コンコンと戸がノックされる音が聞こえた。
「食事中でーす」
コンコンコンコンコンコンコンコンコンコン……
「聞こえない聞こえない聞こえない聞こえない」
きっと夢だ。悪夢だ。早く目覚めろ!
意識を別のことに移そうと頑張っていると、ノックに交じって変な音が聞こえてきた。
――ギュルルル~
「ん?」
今の音は恐らく腹の虫の声だろう。だが、俺のものではない。さらに言えば、幽霊が腹の虫を鳴らすとは考えにくい。と、すると……。
俺はカーテンを開けてみることにした。
「うおぉっ!」
さっきまで庭を這っていた幽霊が窓に張り付いていた。しかし、それは妙に小柄だった。俺の胸くらいまでの身長しかないだろう。それによく見ると、縁側に上がった足はスニーカーを履いていた。
「幽霊コスでスニーカーってどうだよ……」
そこで完全に、これは幽霊ではないと確信に至った。
俺は戸をカラカラと開けてやる。すると、倒れ込むようにして室内に入ってきた。
「おい、靴は脱げ。靴は」
注意に従って、上がる時に靴だけは器用に脱ぎ捨ててきた。そして、幽霊には似つかわしくない軽やかな動きでちゃぶ台のもとまで這って行き、黒髪の中からじっと食卓を眺めているようだった。
「お腹空いてるんだろ? 飯用意してやるから、洗面所で手洗ってこい」
俺が台所でもう一人分の食事の準備を始めていると、小さな幽霊は居間と廊下の間で右往左往していた。
「洗面所は廊下出て左の突き当たりだ」
小さな幽霊は頷いて出て行った。そいつが戻る頃には、ご飯をよそった茶碗と味噌汁を用意し、箸を並べ終えることができていた。
「さあ、遠慮せず食べろ」
改めてちゃぶ台に着くと、小さな幽霊は迷いながらも箸を手に取り、静かに手を合わせて食べ始めようとした。
「待て。いただきます、は言え」
小さな幽霊は迷っているようだった。目の前に食べ物はあるのに、いただきますを言わなければ食べてはいけない。それは、芸を習得しないと餌を貰えない子犬のようだった。
「なぜ喋ろうとしないんだ?」
「だって幽霊だから……」
俺の質問に答えかけたその声は、小さくてか弱い少女のものだった。髪で顔を隠していたからどうも不安だったのだが、どうやら女の子で間違いないらしい。
幽霊の少女は、たった今自分が喋ってしまったことに気が付いたようで、慌てて口もとを押さえるが、もう遅いと思い直したのか、顔に掛かっていた髪の毛を後ろへ流した。すると、あどけなさが残るものの整った女の子の顔が現れた。
驚いた。これならば顔を出していても十分幽霊に見えるだろう。怪談話に出てくる雪女が具現化したような、妖艶な愛らしさを秘めている。
幽霊の少女は、今度ははっきりと言葉を口にする。
「だって幽霊は喋らないものでしょ?」
「それ以前にお腹も空かせないものだと思うぞ?」
少女は顔を真っ赤にしていた。恥じらいや怒りなどが複雑に混ざり合った顔だ。しかし、言い返すことはなく、不機嫌そうに、
「いただきます……」
と言うと、ご飯を一口食べた――後が、早かった。
目を疑うようなすばやさで箸が舞い、食卓のおかずを一網打尽にしていったのだ。その身体のどこにこの容量を収められるのか、疑問に思うほどに。そして、五分と経たずに俺の夕食すべてが消滅してしまった。
まだほとんど食べていなかったのに……。
そういえば、まだこの少女のことを何も知らなかった。
「それで、お前。名前は何て言うんだ?」
「人に名を尋ねる時はまず自分から、でしょ?」
「食べ物恵んでもらっておいてよく言えるな……」
呆れつつも、礼儀は礼儀だと思って自己紹介する。
「俺の名前は川島光輝。このすぐ近くの大学の一年だ」
「このすぐ近くと言うと……日向大学?」
「そうだ」
「人は見かけに寄らないのね」
「おいそれどういう意味だ!」
突っ込む俺を無視して、少女も自己紹介を始める。
「わたしは常盤優麗。天岩中学校の二年よ」
「え、ゆうれい?」
俺が聞き返すと、常盤優麗は少しの嫌な顔もせず堂々と答えた。きっと、よくあることなのだろう。
「そう、優麗。優しく麗しいと書いて、優麗」
「そ、そうか」
最近はキラキラネームやら何やら流行っているが、それはどうなんだろう。だが、人の名前のことをとやかく言うのはよくない。俺は少しだけ話題をずらした。
「天岩中って、けっこう遠くから来たな」
大学生の俺にとっては大した距離には感じられないが、中学生にとっては大冒険になるはずだ。
「どうしてまたそんなところから来たんだ?」
「家出をしてきたの」
「は?」
「三週間だけ」
「はあ?」
意味が分からない。最初から期限付きの家出なんてものが存在するのだろうか。もはやそれは自分探しの旅か何かではないのか。
「それでこの家の庭に降ってきたのか?」
「塀のところを歩いていたら落っこちちゃったのよ」
「なぜ道を歩かない?」
「だって怖かったのよ。この辺の道よく知らないし暗いし……」
だからって塀の上を歩くか、普通? ……まあいい。
それはさておき、俺はここまでで一番聞きたかったことを訊ねる。
「ところで、どうして家出なんかして来たんだ?」
この質問に、常盤優麗はまた口を閉ざしてしまった。今度は幽霊を装って口を利かないのではない。俯いて暗い表情をしている。きっと話したくない特別な理由があるのだろう。
だから彼女は、
「どうしてもやりたいことがあったのよ……」
とぼそりと呟くと、それ以上は何も言わなかった。
「そのやりたいことやらと、この格好は何か関係があるのか?」
「そうでもなきゃしないでしょ、こんなこと」
いや、趣味なのかと思っていた、と言おうとしたが、馬鹿にされると思ってやめた。
さて、常盤優麗という少女は、家出をして来た。そして、こんなにもお腹を空かせていた。その二つから導き出される答えは、穏やかでないものばかりだった。それにどうやら、この少女には何かやりたいことがあるらしい。
こういう時、どうすれば正しいのだろう。俺が書く物語の主人公なら、どうするだろう。
俺は今までの人生でそうしてきたように、正しいと思ったことを考えて実行に移す。
「えっと……常盤優麗」
「優麗でいいわ」
「優麗。お前はこれからどうしたいんだ? 家に帰るか、警察へ行くか、それともこのまま家出を続けるか」
「わたしは……」
三つほど呼吸を置いて、ゆっくりと答えを口にする。
「……このままここで、目的を果たしたい……けど、泊まるとこもないし、野宿は想像していたのよりも怖いし……」
だから諦める、と、そう言うような口の動きをしても、声になることはなかった。これは、本当にやりたいことがあると見て間違いないだろう。諦めなければならない状況に追い込まれても諦めきれないような、そんな願いがあるのだろう。
「なあ、優麗。だったら、三週間だけここで暮らさないか? 俺の親は仕事の都合で滅多に帰ってこないから、気兼ねなく居候できるぞ?」
ここまでやりたいことのある子どもに諦める道を進ませるのは、俺の流儀に反する。そう思った途端、自然とそんな言葉が口から出ていた。それが今における正しい道。俺の書く物語の主人公ならばきっと言うはずの台詞だ。
しかし、優麗は胸を覆い隠すような仕草をしつつ怪しむような目つきを向けてきた。
「そうやって家に引き込んで、まだまだ未発達な身体に手を出すつもりね。そういう趣味の人がいるって、テレビで見たことあるわ。でも残念ね、わたしはガード固いわよ? 護身術の一つや二つくらいできるんだから」
「誤解するな! お前の身体なんかまったく興味ないから安心しろ!」
「もっと幼くなきゃダメってこと……ッ!?」
「なわけあるか!!」
突っ込んだら、突然優麗が視線を膝に落とした。大きな声を出し過ぎたかと謝ろうとしたところで、再度彼女が口を開く。
「でも、その……警察に捕まっちゃうかもしれないのよ? わたしを匿ったりしたら」
なんだ、そんなことか。
「たとえ社会全体がダメと言ったとしても、自分の正しいと思ったことをしたい。俺は今まさにそれをしようとしているんだ」
俺はいつだってそうやって生きてきた。その考えは時に間違っていると感じることもある。だが少なくとも、それは今ではない。
「それって、一つ間違えれば犯罪者よ?」
続けて優麗が訊いてくる。
「それでも、わたしを助けてくれるの?」
「当たり前だ。今日から三週間、お前のことは俺が守る」
そう答えると、優麗の瞳が少しだけ潤んだように見えた。どうしようもなく困って、進む道がすべて潰えたときに差しのべられた救いの手を見たかのようだ。
「ありがとう……今日からよろしく……お願いします」
最後だけぼそりと言い、彼女は気持ちのよい笑みといっしょに一言付け加える。
「じゃあさっそく、夜食の準備をお願いしてもいいかしら?」
「まだ食うのかよ!」
これが、つい四日前に起こった出来事。俺と優麗の出会いである。
そして今、新たに小説よりも奇怪な出来事が目の前で起こってしまった。
◇2
「こんにちはです、ミーくん!」
白い着物を着た少女は、俺に歯を見せて笑いかけてきた。
明るい髪色のボブカットに左側のワンサイドアップ。小動物を彷彿とさせるような丸い目。背は俺の腰ぐらいまでしかない。透けている足以外は、特にこれと言って幽霊らしき要素はない。着物だってちゃんと右前だし、三角巾だって頭に着けていない。その上血色だっていい。上半身だけ見ていれば、普通に街中を歩いていそうな可愛らしい女の子である。
だが、いつからここにいた? さっきまでいなかったぞ? それに足が透けている。こいつは一体何者だ?
頭の中をさまざまな疑問が駆け巡って渦を巻いていた。現実に起こりえないことが起こってしまった。そのことを脳が受理できなくなった時、生まれてきた感情は恐怖だった。
「な、なあ、優麗。こ、こここれ」
「は? どうしたのかしら? 意味が分からないのだけれど?」
「へ?」
得体の知れないものに対する恐れに支配された指を女の子に向けるが、優麗は俺を不審がるばかりで、彼女のことが気付いていないようだった。
「何言ってるんだよ! ここに女の子がいるだろ!」
「光輝こそ何言ってるのよ……? 何もいないじゃない……」
優麗の目つきが疑いから心配へと変わった。俺の頭でも気に掛けているのだろう。
そう言えば、さっきは声すらも聞こえてなかったようだ。聞いてしまって、見てしまっているのは俺だけなのかもしれない。
と、すると、見えない優麗がこの場にいるというのは、何かと分が悪い。しかし、男らしくないが、優麗が傍にいてくれないと怖い。怖くて仕方がない。幽霊と二人きりなんて嫌だ。そうした考えに至った俺がする行動は次のようだった。
「わぁあああ! 帰れぇええ悪霊退散ごめんなさいでした謝るから消えてくださーい! わぁあ! わぁああ!」
その場に座り込んで合掌して叫んだ。支離滅裂。何を言っているのか自分でも分からなかった。
「わわ! ど、どうしたです、ミーくん? だ、大丈夫です?」
肝心の幽霊はというと、あたふたと俺のことを心配してくれていた。心配できるほどぴんぴんとしていた。
「み、ミーくん、ヒマリは危険な存在ではないです! 落ち着いてです!」
女の子の声からは、本当に俺のことを思ってくれているような温もりを感じた。本能的に、この幽霊は悪いものではないと感じられる。それにどこか懐かしい響きがした。あたかも、この声を聞くと落ち着くとでも条件付けされたかのようだ。
「光輝、本当に大丈夫……?」
優麗がしゃがんで俺の顔を覗き込んでいた。どうやら本気で気遣ってくれているようだ。優麗のそんな顔は初めて見る。
これ以上優麗に変な心配をかけるわけにもいかないな。
「だ、大丈夫だよ。ちょっと昨日観たテレビの真似がしたくなっただけだ」
「……中二病?」
「そ、そうだ、俺は中二病だ」
「そう、なら気持ち悪いから近づかないで」
優麗の目つきから優しさが消え失せた。嫌悪感を示すように眉を顰めている。本当、彼女のこういった表情には容赦がない。
「あ、でも早いところ夕食は作ってくれないかしら? お腹が空いたわ」
人使いにも容赦がない。だが、どうにか誤魔化すことには成功したようだ。
「わかったから、居間で待ってろ。休憩したらすぐ作りに行く」
優麗が大人しく居間に入って行ったのを確認すると、俺は幽霊の女の子に向き直った。
「さて……」
「さて、です?」
彼女は小首を傾げた。そういった子供っぽい仕草は実に愛らしい。しかし、この子は幽霊なのだ。気を抜いてはならない。
俺はその女の子を二階の空き部屋に招き入れた。普段は客室として使用する和風の造りの部屋だ。そこならばある程度大きな声を出しても優麗に聞かれる心配もない。やっと落ち着いて――幽霊と二人きりという状況は落ち着けないのだが――話せる空間が確保できたところで、俺は本題へと切り出す。
「お前は何者だ?」
「ヒマリです」
「いや、そういうことを言っているわけではなくて、本物の幽霊なのかと訊いている」
「はい、ヒマリは本物の幽霊です」
やはり、幽霊で間違いなかったらしい。得体の知れなかったものの正体が幽霊であると断定してしまうと、不思議とそれに対する恐怖心が薄れた。結局、本当に怖いのは幽霊ではなく、何か分からない存在だったのだろう。
少し気持ちに余裕が持てるようになった俺に、次なる疑問が浮かんできた。
「それがなぜこのタイミングで現れた? 優麗の儀式とやらで呼び出されたのか?」
「儀式? ああ、お化けの格好をして皆さんを驚かしていることです? それは関係ないです。そもそもヒマリは、最初からこの家にいたです。ヒマリからすれば、ミーくんはどうして今見えるようになったです? 変な目薬でも点したです?」
最後の方はなぜか興奮気味に訊いてきた。
こいつは最初から家にいた。少し納得したこともある。さっきからこいつは俺のことを勝手にミーくんと呼んでいる。それは、ずっと前からこの家にいて、俺の名前が光輝であるということを知っていたからのことなのだろう。
しかし、なぜ見えるようになったか、それこそわからない。少なくとも、変な目薬を点してないことだけは確かだ。それでも、ヒマリという幽霊の姿は見える。俺に一体何があったというのだろう。
さて、この場合、俺の書く物語の主人公ならばどうするだろう。正しい行動は、どんなことだろう。
「ヒマリ……でいいか?」
幽霊の女の子は頷いた。
「ヒマリ、俺はお前が成仏できるように手伝いたいと思う」
幽霊という存在が物語に登場した時、主人公ならば、それが成仏できるように尽力する。幽霊になった悔いや怨念を取り払ってやるのだ。それにこのまま幽霊と共存というわけにもいかない。それぞれがそれぞれのあるべき姿に戻るには、これが一番だと考えた。
「だから、ヒマリ。お前のやり残したことや後悔を教えてくれないか?」
と訊いた直後、襖の方から声が響いた。
「ねえ、光輝……さっきから独りで何やってるの?」
「うおあっ、優麗!」
少しだけ開いた襖に顔を挟ませた優麗が、部屋の中を覗き込んでいた。
「いくら中二病でも、いい加減気味が悪いからやめてもらえないかしら……?」
そう言って、変態でも見るような視線を送ってくる。
「おまっ! いつからいた! し、下で待ってろって言っただろ!」
「いつまで経っても降りてこないし、お腹空いたもの」
「わかった、今度こそ本当に分かったから下に降りような……」
何やら煮え切らぬ顔で俺のことを見ていたが、早くご飯が食べたかったのか黙って階段を下りて行った。
ヒマリとの話は後だ。ひとまず優麗の夕食の支度をしなければ、そろそろ救急車を呼ばれる事態になってしまうだろう。俺はヒマリに顔を戻した。
「あれ……?」
そこにヒマリはいなかった。突然そこにいるのも驚くが、突然そこからいなくなるのも怖い。
「ひ、ヒマリ?」
呼びかけても出てこない。唐突に不安の波が押し寄せてくる。さっきまで話していた相手は本当にいたのか、と。
「おい! ヒマリ!」
俺の声はゆっくりと下へ落ちていき、畳に吸収されていった。結局、その晩はヒマリの姿を見ることはなかった。
◇3
翌日の朝は、あまり気持ちの良くない目覚めだった。
無理もない。昨日はあれだけのことがあったんだ。いや、昨日だけではない、ここ数日間の内に波乱な出来事が盛り沢山だった。優麗が家に住むようになって、その存在を隠そうと頑張って。それでも友人たちには明かすことになってしまって。そして最後には、幽霊が見えてしまって……。
ヒマリの姿がフラッシュバックし、布団に横になったまま慌てて自室を見回した。
「……いない」
ここ最近の疲労が見せた幻覚か何かだったのかもしれない。そもそも、幽霊が見えてしまうなんて馬鹿げている。現実じゃ、まずない。そうだ、おかしかったのは昨日の俺だ。これでまともになった。もう幽霊が現れる心配なんてない。
そう心の中で唱えつつ布団を押し入れに片付けて、朝食を作るべく階段を下り、台所に繋がるドアを開けて――
「あ、おはようです、ミーくん!」
――無言で閉めた。
「あれ、俺まだ疲れてるのかな……?」
そういえばこんなようなこと前にもあった気がする。あの時は偽物の幽霊だったが、今は違う。
俺は再度ドアを開けて、コンロの前に佇む少女を確認した。
「? どうしたです、ミーくん?」
白い着物に明るい髪色のワンサイドアップ、明るい笑みや足が透けていることなど、その特徴は昨晩突然現れて消えたヒマリに似ていた。しかし、この少女は、推定にして16歳――高校生くらいだったのである。身長は、俺より頭一つ分小さいくらいだ。
その少女が、我が家の台所で料理を作っていた。着物の上に割烹着を着て、お玉を片手に鍋に火をかけていたのである。
「えっと、どちらさん……?」
もはや幽霊らしき存在であることには動じなくなっていた。ただ、ヒマリそっくりの少女が何者なのか、その疑問で頭の中がいっぱいだった。
「あ、そうです。この格好ではわからないですね」
少女はえへへと笑うと、たちまちその姿が縮んでいった。
「え、ちょっ!?」
塩をかけられたナメクジじゃあるまいし、人が縮むものなのか!? いや、それ以前にこいつに人間の常識が当てはまるのか!?
混乱する俺をよそに、少女は見る見るうちに縮み続け、ある背丈で止まった。
「ヒマリ……」
そこにはヒマリが現れた。先の少女が縮んだ結果、ヒマリになったのである。どういうわけか、着ていた服までもがいっしょに縮み、彼女にぴったりのサイズとなっていた。
昨日見た幽霊は幻覚などではなかった。そのことを実感すると、とてつもない疲労感が襲ってきた。
「幽霊ってのは何だ……老いも若返りも自由なのか?」
「いえ、自由というわけではないです。この歳以外の年齢になろうとすると、まあまあ疲れるです」
ヒマリは汗を拭うような仕草をして見せた。
「なら、なぜ大きくなっていたんだ?」
ヒマリは鍋の方を見た。
「朝ごはんを作りたかったです」
「そのまま作ればいいだろ?」
「作りづらかったです」
「作りづらい?」
ヒマリは苦笑しつつ頷いて、お玉で鍋をかき混ぜようとした。しかし、頭が鍋の高さと同じ位置にあるため、うまいこと混ぜることができなかった。
「ああ……」
なるほど、ヒマリの言いたいことが分かった。俺も子供の頃、台所で調理しようとして色々とやりづらかった記憶がある。手の大きさや力、身長など、料理をする上で子供には不利なこともあるのだ。
けれど、本当に訊きたいことはそんなとことにあるわけではない。
「なぜ、お前が家の台所で料理を作ってる?」
「ミーくんがヒマリのこと見えるようになったからです」
「理由になってないぞ?」
ヒマリは、子供が言い訳をするように話す。
「これまでだって、忙しそうなミーくんのためにご飯を作ってあげたいと思ってたです。でも、ヒマリのこと見えないまま作ると、お玉が浮いてるように見えるですし、たとえ作ったとしても気味悪がって食べてくれないと思ってたです」
つまり、このヒマリという幽霊は、ずっと俺の傍にいて、ずっと世話を焼きたくてうずうずしていたのだ。背後霊がいたようなぞっとする感じと、守護霊がいたような感動が一度に押し寄せてきて、どういう顔をすればいいのかわからなくなった。
見れば、ヒマリは叱られた子のようにシュンとしている。きっと、俺が喜ばなかったと思って自分の行いを悔いているのだろう。なんだか、弱い者いじめをしているような気分になってきた。
俺は焦ってヒマリにお礼を言う。
「ま、まあ、感謝はしているぞ。朝食を作る手間が省けるのは嬉しい」
「そうです? でしたら、よかったです!」
ヒマリの頬が一気に緩んだ。喜びを隠し切れないと言うように、目を細めている。その笑顔は陽の光のように明るくて温かいものだった。
「だが、優麗はお前のことが見えない。そういった配慮は、あいつにも頼むぞ」
「はいです」
釘を差すように注意をしておくと、ヒマリは敬礼のようなポーズを取って元気に返事をした。すっかりご機嫌である。
と、瞬きをする間に、またヒマリは高校生くらいの身体になった。それから朝食作りを再開する。
「何か手伝うか?」
「いえ、大丈夫です。あと少しで終わるです」
ちょうどその時、魚の焼けるいい匂いが鼻を突いてきた。確かに、もう少しで終わるようだ。
本来であれば朝食の支度をしようと動き回っている時間だけに、どうにも手持無沙汰になってしまった。仕方がなく俺は、台所の邪魔にならない位置に椅子を引っ張ってきて腰かけた。まだヒマリとは話したいことがあったからだ。
「ところで、昨晩は急にどこかに行ったが、どうしたんだ?」
ヒマリは茶碗や皿を用意しつつ顔だけこちらに向けて答える。
「昨日はちょっと用事があったです」
幽霊に用事があるものなのだろうか。だが、こいつが幽霊らしくないのはその見た目からも十分わかっている。今さらそのことを詮索したところで意味がない。俺は昨日の話の続きを本題として持ちかける。
「それでその時に話していたことだが、お前の幽霊になった原因は何なんだ?」
すると、ヒマリは黙り込んだ。食器の重なる音や調理器具の洗われる音だけが響く。考えてみれば、昨日もこの話題を振りかけた時にどこかへ行ってしまった。ひょっとしてこの話題は、彼女にとってとんでもない地雷なのだろうか。
しかし、そんな俺の心配も杞憂に終わった。よく見ると彼女は、言いたくないないから黙り込んでいるのではなく、どう言っていいか分からなくて黙り込んでいるようだと分かったのだ。
あとは作ったものを器によそうだけ、というところでヒマリが手を止めて身体をこちらへ向けた。そして、申し訳なさそうに微笑む。
「えっと、実はヒマリにはあまり記憶がないです」
「それは、死んだ時のショックやら何やらで、てことか?」
ヒマリは首を横に振った。そして、少し困り顔で話す内容を頭でまとめてから口にする。
「えっと……ミーくんは、幽霊というとどんなものを想像するです?」
「んー……と……人の死後、その魂がこの世に残ってさ迷っている感じか?」
ヒマリは頷いた。
「大方その通りです。ですが、そもそも幽霊とは色々なものがあるです。一人の魂からできているもの、複数人の魂からできているもの……。ただ、たった一人の人間の魂だけでは、考えることしかできない幽霊や、移動することしかできない幽霊になってしまうです」
だが、ヒマリは考えることができ、移動することができる。感じることだって、自分から朝食を作ることだってできる。なら、そんなヒマリは一体……?
俺の疑問を顔から察知したヒマリは、それに答えるように話す。
「ヒマリのような幽霊は、複数の人の魂の集まりによって、新たな魂を作り出したというものです。それ単体では生きた人間のようにはいられませんが、集まることによってこうして生き生きできるです。そういうものです」
「生き生き……」
なんとなくだが、俺はヒマリの礎となった魂の気持ちが分かる気がした。自分がもし死後、考えることや動くことしかできないのだとしたら、何かの一部にでもなって自由になりたいと考える。たとえそこに、意識があったとしてもなかったとしても。
まとめるようにヒマリがにこりと笑った。
「ですからヒマリには、幽霊になった原因なんてないです」
その笑顔は、先までの陽の光を思い出すようなものとは違った。まるでそれは、曇り空の中、必死に太陽を探して咲くヒマワリの花のように見えた。
ヒマリは、初めから幽霊だった。気が付けば幽霊で、生きた記憶も死んだ記憶もなく幽霊だったのだ。それはなんとも寂しく、やるせない気持ちにさせられることだ。
慰めるべきかと思ったが、言葉が出てこない。俺には、幽霊として生まれてきた者の気持ちなんて想像もつかなかったからだ。ましてや、俺が共感をしてしまったのはヒマリを形作った魂のほうだ。何を言っても白々しく聞こえるだろう。
この話はここで終わり、と言うようにヒマリは手を叩いた。
「さあ、もうすぐで優麗ちゃんが下りてくるです。ご飯にするです」
◇4
その日は、朝からヒマリのことで頭がいっぱいになった。
幽霊になった原因がないということは、成仏するための理由がない。つまり彼女は、永遠に霊魂としてこの世をさ迷い続けることしかできないということだ。それは本当に虚しく、耐えがたいほどに残酷なことだと思った。
「歯痒いな……」
講義中。階段状で後ろになるにつれて高くなっている講義室の左後ろの席で、独りごちた。近い席には誰もいなかった。俺にしか聞こえない最小限の音量で呟いたつもりだ。しかし、これに答える声が現れた。
「歯が痒いです?」
「いや、歯痒いとはものの例えで……」
その声に答えつつ右隣の方を見ると、そこにはヒマリがいた。講義を受けるようにして、俺のすぐ横に腰かけている。
「いひゃあっ!?」
あまりに予想外の出来事に裏返った声を上げてしまった。この声は講義室全体に響き渡ってしまったようで、学生一同がざわつき始める。
「今の声なに……?」「女子の声っぽかったけれど……?」「ケータイのアラームでしょ?」
皆思い思いのことを口にして、授業の秩序が乱れてしまった。
ごめんなさい先生……。
「はい、静かに!」
という先生の声を背に、俺は隠れながら講義室を後にした。
場所を変えて大学の屋上。この敷地内で一番高い棟の屋上だけに、見晴らしがいい。今日は晴れているから、住宅街や公園を挟んで少し離れたところに、青くて広い絨毯のような海が望める。
幸い、講義中の時間ということもあって屋上には誰もいなかった。天文台とフェンス以外には何もないコンクリートの空間が広がっている。
俺はヒマリに向いて、叱りつけるように怒鳴る。
「大学にまで付いて来るなんて聞いてないぞ!」
ヒマリは急に小さくなって、途切れ途切れに言葉を紡ぎ出す。
「え、ですが、今までだって付いて来ていたですし……せっかくヒマリのこと見えるようになってくれたですから、少しでもいっしょに…………ヒマリ、邪魔です?」
うるうるとした目で俺を見上げてきた。そうした仕草は本当に小動物のようだ。これを計算尽くでやっているのだとしたら、この魔性さは幽霊であることよりも怖い。
しかし、考えてみれば、ヒマリは今まで孤独で仕方がなかったのではないだろうか。
あいつは、ずっとあの家にいたと言っている。だが、家には他に幽霊の姿はない。そして、あの家やこの大学までの道のりには、幽霊の一人も見ることはなかった。もちろん、単に見つからなかっただけかもしれない。だが、彼女のような幽霊は、ほとんどいないのだろうという憶測には至った。
だとするとヒマリは、本当に寂しい存在なのではないだろうか。ずっと独りで、誰とも話すこともなく暮らしてきたのではないだろうか。そう思うと、下手に突き放すのもかわいそうな気がする。物語の主人公ならば、まずそんなことはしない。
「わかった、大学に付いてくるのは許そう。だが、他に人がいる状況で話しかけてくるなよ? 怪しまれると厄介だからな」
俺は嘘を吐くのが苦手だ。きっとうまく隠しきれずに、昨晩のように変な人の扱いを受けることになるだろう。外でそのような扱いを受けるのは避けたい。
俺の許可を貰うと、ヒマリの顔は一瞬で蕾が開花するように明るくなった。
「はいです!」
ヒマリが付いてくるのは大変かもしれないが、この笑顔を見れたのだからよしとしよう。そう思えるような顔だった。
――キーンコーンカーン
とそこで、終礼を伝えるチャイムが鳴ってしまった。
本日の俺の講義はこれですべて終了である。最後はサボるかたちになってしまったが仕方ない。下手なことを言ってヒマリに気を遣わせてもどうしようもないことだ。
「それで、これから俺はサークルに参加しようと思うが、お前はどうする?」
俺が訊ねると、ヒマリは元気よく答えた。
「もちろんご一緒するです!」
ジャージに着替えて第二体育館へ行くと、そこにはもうすでに清隆と沖野の姿があった。屋上にいた分、いつもより遅れてしまったのだ。に、しても、二人がこうも早くいるなんて珍しい。
「どうしたんだ、二人とも? 今日はえらく早いな」
「なんかね、最上くんがお話あるみたいなんだって」
「話……?」
沖野に言われて清隆のほうを見ると、彼は妙に偉そうに腕を組んで立っていた。こいつはだいたい、何か驚かせたいことがあるとき、このように偉そうになる。これはある程度覚悟を決めておいた方がいいかもしれない。
清隆は、えっへんと咳払いをして発表する。
「本当は昨日言おうと思っていたんだけどよ。このたび、演劇サークルは――――二週間後の創立祭で舞台を披露することになりました! はい拍手!」
「おおー!」
と、ヒマリがパチパチ手を叩いている脇で、とんでもない発表に対する俺と沖野の反応はまったく同じものだった。
「は?」
「え?」