第一話 「ゆうれいと暮らす」
◇1
「……はあ……」
恐れおののいたという様子ですぐさま家を後にした運転手を見送った俺は、独り玄関でため息を漏らした。
もちろん、乗車料金は払った。親切にも運転手は払わなくていいと言ってくれたのだが、そういうわけにもいかなかった。
和室に戻ると仏壇の遺影を元のものに交換した。そして、廊下を挟んだ部屋の襖を開けて、居間のちゃぶ台でお茶をすする少女に呆れ顔を向けた。
「……頼むから幽霊ごっこはやめてくれよ、優麗」
のんびりと煎餅をむさぼりつつお茶を飲んでくつろいでいたのは――白いワンピースの少女こと、常盤優麗だった。漆黒のさらさらロングヘアに、透けてしまいそうなほど白い肌、ぱっちり二重の両目にふっくらとした桃色の唇と、あどけなさが残るものの、それなりに整った顔立ちをしている。そんな女の子なのだから、いくら田舎であるここの辺りでも、歩けば不審者に当たるだろう。だから、考えなしに夜歩きをするのはよせと言っているのだが、彼女はなかなか聞く耳を持ってはくれなかった。
優麗なんて変わった名前だが、良い意味の漢字を使用しているし、名付け親に悪意はなかったはずだろう。……なかったと信じたい。
俺の言葉が心外だったのか、優麗はぷくっと頬を膨らませて見せた。
「ごっことは失礼ね。これは幽霊を呼び出すための神聖な儀式なのよ」
「儀式?」
「ほら、怪談話をしたり、お化け屋敷を開いたりすると、そこには本物の幽霊が集まってくるって言うじゃない? そういうことよ」
幽霊を集めてパーティーでも開こうと言うのだろうか。俺にはその行動の意味が分からない。
「それよりも、光輝」
と、仕切り直すように優麗が俺を呼んだ。
俺の名前は、川島光輝。実家で独り暮らしをしながら大学に通う19歳、大学一年生である。大学では、文芸学部に籍を置いている。
「ん?」
と先を促すと、優麗は小さい子供に言い聞かせるように人差し指を立てた。
「嘘を吐いちゃダメじゃない。あのタクシーの運転手さん困っていたわよ?」
「お前が言うか! お前の存在が外にバレないように、必死で演技をしていたんだぞ! 遺影だってお前が帰ってきた後急ピッチで用意したんだ! 感謝をしてほしいくらいだぞ!」
優麗はただいま家出中の身である。それがなぜか、つい三日ほど前に我が家に転がり込んできたのだ。そのため俺は今、家出中の女の子を家に匿っているということになる。これが世間に知れれば警察沙汰になることは間違いないだろう。だが、この少女には何かただならぬ理由があるようなのだ。その後の人生が関わってくるような理由が。そういうことだから俺は、この子を家に匿うことにしたのである。
俺の気苦労を知らぬ様子の優麗は、蔑むような目で見てきた。
「演技……? あれが演技のつもりだったの? 学校では演劇サークルに入っているとは思えない代物だったわよ?」
確かに俺は、大学の演劇サークルに所属している。しかし、正直言って演技は得意ではない。むしろ苦手だ。それなのに演劇のサークルに入ったのは、演劇の脚本を作る活動をしたかったためだ。だから俺が演技を苦手とするのは当然のこととも言える。
「自分の演技が残念なことくらい分かってるが、いくらなんでも酷すぎないか……?」
俺の抗議なんか無視して、優麗は煎餅のなくなった菓子器を覗き込むと、今の話題とまったく別のことを言い出した。
「ねえ、光輝。そういえば今日の夜食はまだなのかしら?」
こいつのそんな変化球にも慣れてきた自分がいる。まだ数日しか一緒に過ごしていないというのに、まるで兄妹にでもなったような気分だ。
俺は空になった菓子器を指差して訊ねる。
「優麗さん、優麗さん。さっきまで食べていたのは何ですか?」
「んー……おやつ?」
「なら夜食はいらねーだろー……」
「いるわよ。だってこれは、お・や・つ、なのよ」
「そんなに食べたら太るぞ?」
「成長期だから大丈夫ですよぉーだ。というか、女の子にそんなこと言うなんてデリカシーなさすぎ。光輝きらいっ」
いじけたように、ぷいっとそっぽを向いてしまった優麗に、一度深いため息を吐いた。それから俺は居間の隣の部屋へ続く戸を開けると、台所に入って夜食作りに取り掛かった。
まったく、面倒くさいやつだな……。
そもそも優麗は家の食料をむさぼり過ぎなのである。彼女がこの家に来てからというものの、食費が三倍に膨れ上がった。男子大学生よりも食べる女子中学生の出現というわけだ。もはや妖怪か何かだろう。
「むむ、今失礼なこと思われた気がする……」
居間の方で優麗が不機嫌そうな声を上げた。彼女の妖怪アンテナが俺の心の声を捉えたのかもしれない。変なところで鋭いやつである。
「気のせいだ。今、夜食作ってやるから大人しく待ってろ」
背中越しに答えつつ、フライパンに火をかけた。
◇2
初夏。一見ほどよく温かい日差しをイメージする言葉だが、九州でも南の方に位置したこの辺りの地域では、もう立派な真夏だ。市内の小中学校でもそろそろプール開きが始まる頃である。道路のアスファルトは目玉焼きが焼けそうなほど熱く、日陰でもシュウマイができそうなほど蒸し暑い。
そんな暑さなのだから、この日向大学の第二体育館の中はもはや地獄だった。
「暑い……暑すぎる……」
第一体育館とは違って構造上の欠陥があるのか、それにも増して非常に風通しが悪い。そのため、ここで活動をするサークルや同好会というのは、学内でも有数の弱小団体なのである。そういった団体でも、この暑さに耐え切れずに夏の間は活動を休むところがほとんどだ。それでもこの体育館にいるのは、サウナと同じことができるとやってきた物好きなやつらばかり。
おかげで、我ら演劇サークルは、この広々とした空間をほぼ貸し切りで使用することができているのだった……死ぬような暑ささえ我慢すれば。
「まるで人間蒸し器だな……ここは」
体育館の床に座り込んでストレッチをしているだけなのに、さっきから汗が止まらない。大げさではなく、火山の火口付近の岩場で身体を伸ばしているような気になってくる。サークル活動の時はジャージに着替えるのだが、これは毎日洗わないと臭くてやっていけない。
ちなみに、ストレッチは、身体が固いと声の響きが止まってしまうので、できるだけ柔らかくしておくために行う。この後発声練習を行い、それが終わってようやく稽古という流れで活動は進められていく。
「よっす、光輝」
ステージ脇に座る俺のもとに、一人の男子学生が挨拶をしてきた。
「お疲れ、清隆」
最上清隆、工学部の一年生で、演劇サークルに所属している友達だ。大学に入学してから演劇サークル繋がりで知り合ったのだが、今では学外でもよくつるむような仲となっている。元野球部ということもあって丸刈りで、その上いかにもスポーツをしていそうな顔をしているため、ジャージ姿が俺なんかよりもよっぽど板についていた。
清隆はいつも持ち歩いている大きなボストンバッグを肩にかけ直すと、手でパタパタと仰ぐ仕草をした。
「いや~、相変わらず暑いな~。一応ここいらでは名門校の顔を張っているんだから、もっとマシな設備でも作ればいいのにな」
「金がないんだろ。このご時世、どこでもおいそれと設備投資できるようなものじゃない」
「だけどよぉ。自称学園都市とか言って、膨大な農地に囲まれた土地に立ってるんだぜ? だったら、そこを削って何か立てればいいって思わね?」
「思うだけ時間とエネルギーの無駄だ」
「そりゃごもっともだな」
一度会話が途切れたところで、清隆も荷物を置いてストレッチをするのかと思いきや、こいつは突然妙なことを言い出した。
「そうだ、光輝。今日お前んち行っていいか? ちょっと話したいことがあんだよ」
「俺んち?」
清隆が家に来ることは今までもよくあった。しかし、話したいことがあるというのは初めてだし、あまり言われる機会もない。さて、どうしたものか、と考え始めたところで、ふと脳裏に、我が家の居間に寝そべる優麗の姿が甦った。
「いや、ダメだ!」
「えぇー! なんでだよ? オレとお前の仲だろ~?」
「え、いや、なんでって……そうだ! 今俺んち猫がいるんだよ! ほら、お前って確か猫アレルギーだったろ」
苦し紛れの言い訳。だが、これで清隆も退いてくれるだろう。以前、こいつは極度の猫アレルギーだと言っていた。例えどんな理由があろうともこれで引き下がるはずだ。
しかし、俺の思い込みは甘かった。
「ふっふっふー」
と清隆は得意げに笑うと、何やらごそごそとボストンバッグを漁り、あるものを取り出してそれを身に着けて見せてきた。
「ジャジャーン!」
「う……なんだ、それ?」
上機嫌なファンファーレと共に現れたのは、黒の目だし帽にサングラスとマスク、さらに軍手までも身に着けた清隆だった。誰がどう見ても不審者である。
俺がドン引きしていることには気が付かない様子の清隆は、不審者装備で嬉々としてその解説を始めた。
「このカッコしてれば、猫に触っても大丈夫だってわかったんだよ。いやぁ、ずっと猫と触れ合うの夢だったんだよなぁ」
「そ、そうか。……というかそれ……猫逃げないか?」
「おう、よくわかったな。それがなぜか悲しいことにどの猫も逃げるんだよ」
「考えればわかるだろ、普通……」
どこかの猫と触れ合おうとして、警察に捕まる大学生が現れぬよう切に願う。一応、今夜から「あいつはいつかやると思いました」とインタビューで答えられるように練習をしておいたほうがいいかもしれん。
「あ、もう来てたんだ、川島くん」
そう言って現れたのは沖野未来。同じ学年、同じ学部、同じサークルと、俺とは縁の深い間柄である。地毛にしてブラウンのおさげ髪が清楚さを強調し、黒目率の高い大きな瞳が特徴的だ。今はサークル活動のために青のジャージを着用しているが、それでも彼女の輝きは薄れることがなかった。外見だけでなく中身もいいと有名だ。非常に殊勝かつ健気で、いわゆる尽くすタイプという彼女は、学内でも密かに人気を博していた。
そんな沖野が、不審者装備の清隆を見て怯えるようにして俺の後ろに隠れた。彼女のそういった仕草には庇護欲を駆り立てられる。それから彼女は小声で訊いてきた。
「この人、誰……?」
「この怪しいやつは清隆だ」
清隆が装備を外していつものように二カッと笑うと、沖野はほっとしたように俺の陰から出てきた。
「なんだ、最上くんかぁ~。びっくりさせないでよ~」
「すまんすまん、怖がらせちったか?」
清隆は謝りつつ、大事そうに装備品を鞄の中にしまい込んでいた。また使うつもりなのだろう……たぶん。
俺、清隆、沖野と、演劇サークルはこの三人だけで活動をしている。本当は三、四年生の先輩たちも名簿に名前があるけれど、就職活動やら何やらが忙しいらしくてめったに顔を出さない。元々は小説や脚本を書く活動がしたかったのだが、この大学には文芸部が存在しない。そのため演劇サークルで脚本を書ければと加入したのだ。しかし、結局は演者をやらなければいけないというのが現状である。
「ところで、光輝?」
「ん?」
清隆は話を掘り返しにかかってきた。
「結局、光輝ん家行こうと思うけどいいか?」
「いや、だから……」
断ろうとした俺の言葉は、唐突に沖野が上げた高い声に遮られてしまう。
「へえ、川島くんの家、良かったら行ってみたいな」
そういえば、沖野はまだ俺の家に来たことがなかっただろうか。彼女は非常に興味があり気に目を輝かせている。
俺の家なんか何もないぞ? ……つい一週間前ならばそう言えたものを……。
清隆にも沖野にも、優麗の存在を話したことはない。拾った女の子を家に置いていることがこいつらに知られれば、確実に問題になるだろう。問題にならないはずがない。
しかし、沖野までもが俺の家に来たいと言ったことで、場の空気は徐々に俺の家に行くムードになってしまった。
「ほら、沖野さんも行きたいって言ってるんだからよ。いいじゃんか、光輝」
さらに降りかかる清隆の追い打ち。もはや一時の猶予もない。今すぐにはっきりと断らなければ。
「あのな、でも……」
そんな俺を見て――一瞬だけ眉を歪ませたように見えた――沖野は、またも俺の言葉に被せてきた。
「ねえ、川島くん!」
そして、誰だろうと虜にするような完璧な笑顔で言う。
「私、川島くんの家に行ってみたいな!」
◇3
空は茜色に染まっていく。近いうちに夏至が来るということだけあって、陽が落ちる時刻は遅かった。
一通りサークル活動を終えた俺たちは、私服に着替えて大学近くの閑静な住宅街を歩いていた。
結局、二人に押し切られてしまったのだ。
だが、まだ大丈夫。家が散らかっているから三分少々片付けの時間をもらいたいと言ったところ、了承を得ることができた。その時間を使って優麗を二階へ隠してしまえば、このふたりとご対面というハプニングも起こらないだろう。
そんなふうに家へ帰ってからのシミュレーションに頭を捻らせていたせいか、気が付けば俺は黙りこくってしまっていた。沖野も沖野で何故かさっきから緊張した面持ちで俯きながら歩いているものだから、変に静かな三人組がそこにはあった。
だが、そうした沈黙が大嫌いなやつがそこにはいた。
「なあなあ、ふたりは進路どうすんだ?」
清隆が場違いなほど陽気な声音で訊ねてきた。あまりの脈絡のなさに逆に訊く。
「どうしたんだ、いきなり?」
「今日、演劇サークルの先輩たちに会ったんだがよ。先輩たち、進路で大変そうにしてたからさ」
現在演劇サークルの先輩たちはほとんど活動に参加することがない。そのため、同じ講義を履修するか、個人的に会おうと思うかしなければ会うことがないのだが、清隆は不思議なくらい先輩たちと会う機会があるようだった。そのたびにサークル業務を頼まれているようで、実質上、こいつが演劇サークルの部長代理と言っても過言ではない。
そんな清隆の唐突な質問にまず答えたのは、強張った表情を笑みでほぐした沖野だった。
「私はまだ決まらないかな。一応、学校の先生にはなってみたいなって、思ってはいるんだけど」
「いいな~それ。沖野さんならば学校のマドンナ教師として名物になりそうじゃんか」
確かに、沖野が学校にいればそれだけで登校する児童生徒も多かろう。さらに、その性格から子どもたちにも人気のある先生となるに違いない。
「それで、光輝は?」
学校で教鞭をふるう沖野の姿を思い浮かべていると、清隆によってそれを阻まれた。せっかくいい気分に浸っていたというのに、と睨み付けていると、俺の代わりに沖野が答えてくれた。
「私知ってるよ。川島くんはあれだよね? ――作家」
そういえば、同じ学科である沖野には以前話したことがあったな。
その通り、俺は小説家や脚本家など、物語を作る職業に就きたいのである。小さいころからお話を作るのが好きで、ただそれだけが楽しみだったから。理由としてはそれだけだが、この気持ちは本気である。日向大学の文芸学部に入学したのも、演劇サークルに脚本志望で入ったのも、そういう目標があってのことだ。
この話を沖野にした時には、彼女は混じりけのない笑みで、感心と応援の言葉を口にしてくれた。
しかし、清隆は、大人になりきれない残念な人を見るような目を向けてきた。
「ちょっとばかし非現実的すぎやしないか?」
「昔からの夢なんだよ。そういうお前はどうなんだ?」
「オレ? オレは公務員になるさ」
清隆はさも当たり前のようにそう答えて見せたが、それは予想から外れすぎた答えだった。
「お前らしくもない。テキトーに生きるとか言いそうなものだったんだが?」
こいつの普段の素行を見れば、そう思わざるを得ない。講義には遅刻してくるし、授業中だって寝ていることが多い。それだから、てっきり将来のことなんぞ何も考えていないのかと思っていた。いや、事実、本当のところは何も考えていないに違いない。きっと今の発言も口だけだろう。
けれども、そう思う俺とは裏腹に、落ち着いた声音で、仕方がないことだとでも言うように清隆は話す。
「大学生にもなると、いい加減現実を見なきゃいけないだろ? オレらと同い年で、もうとっくに社会人だっていう人もいるんだからよ」
そう言う今の清隆は――今の清隆だけは、まるで、社会の歯車の一員になろうとする誠実な大人のように見えた。
非現実的。
俺の夢を聞いてそう言う人は少なくない。最近になり、俺もそれを自覚し始めていた。今までに何度か新人賞の応募はしていたが、そのどれもが一次落ちだ。それゆえ、自分に才能がないことは嫌でも自覚させられていた。
いい加減、諦める時期なのかもしれない。
「ア、ソーダー!」
家のすぐ近くまで来たところで、唐突に清隆が棒読みの声をあげて、俺の肩をポンと叩いて言った。
「沖野さんが光輝に話があるんだっけな」
「「え?」」
声を揃えて疑問符を返す俺と沖野。
おいおい、沖野まできょとんとしてしまっているじゃないか。これはもしかして、清隆が勝手に言い出したことじゃないのか。
俺は半信半疑で沖野に確認を問う。
「本当なのか、沖野?」
「え、あ、え……」
沖野は慌てたように清隆を見ると、清隆は何やら意味深に親指を立てて合図を送っていた。すると沖野は決心したように頷いて、俺に向き直った。
「ほ、本当だよ? わ、わわ、私ね、川島くんにすっごく話したいことがあるの! 今すぐに!」
顔を真っ赤にして、気迫というよりは勢いたっぷりにそう言ってきた。その勢いに圧倒され、俺は不意に足を止めて沖野に向いた。
「そ、そうか、じゃあ、話してくれ」
「えっと、ね、その……」
沖野も足を止め、頬を赤らめて、もじもじと言いよどみ始めた。
こんな沖野の姿は初めて見るかもしれない。講義中であれ、演劇の稽古中であれ、いつだって沖野は凛としていた。そんな彼女が今こうして弱々しくも可憐な姿になって言おうとしていることは、いったいどんなことなのだろう。
小刻みに震えてはきゅっと締まる小さな唇に目がいく。その桜色のふっくらした形は、官能的な美しさを醸し出していた。そんな唇から紡ぎ出される言葉は、どんなものであれ美しいに違いない。早く、早くその言葉を聞きたい。
俺は、自分自身も気が付かないうちに沖野に釘づけになっていた。
その隙に俺の鞄から鍵を取り出して、そっと家の方へ向かう清隆には気づきもしないで……。
◇4
その頃、川島家では――常盤優麗が居間で横になりながら、ガラス張りの戸の外をボーっと眺めていた。その服装は、彼女お気に入りのラフな部屋着だった。ダボダボした無地に最低限の装飾が施されたそれは、どうみてもパジャマである。
ガラスの向こうには、夕日に染められた小さな庭が見えた。松や梅、柿の木などに囲まれてちっぽけな芝生の空間があるというだけの庭である。ほとんど手を加えられていないのか、芝生の間には所々雑草もある。
そんな十秒もすれば飽きるような景色を、優麗はもう三十分も見つめていた。
「退屈ね……」
そう、彼女は今、暇で仕方がないのだ。
「夜になってくれれば、幽霊の格好をしておどかして回れるんだけど……」
優麗は、夜になると幽霊の扮装をしてはこの辺りの住民を驚かしている。これは、暗い夜の方がより効果的に幽霊になりすますことができるため、夜限定で行っていることだ。この行為は、彼女の家出の原因と大いに関係があるようなのだが、その理由については光輝にも話していない。
ところで、彼女はとある理由から家出をしているわけだが、匿ってもらっているこの家から通っている中学校までは結構な距離があるため、今は学校へは行っていない。それゆえ、彼女は教科書を使って自力で勉強をこなしているのだ。一応、分からないところは光輝に教えてもらうことになっているが、教えることなど何一つないほど彼女は優秀だった。
その時、優麗のお腹の小さな虫が鳴いた。
きゅるる~……。
「お腹空いた……」
アメ車もびっくりするほどの燃費の悪さを誇る優麗は、常にお腹が空いている。光輝がいれば、何かを作ってもらえるのだが、その彼も今は大学である。
「光輝、まだかしら……」
掛け時計の針がカチカチと時間を刻む音だけが響く部屋。優麗はちらりとその針に目をやった。
――19時4分。
もうすぐで光輝が帰る頃だ。そこで優麗にある妙案が浮かんだ。
「幽霊の格好をして光輝を驚かせちゃおっかな~」
家に突然幽霊がいた時の光輝の顔を思い浮かべた優麗は、思い付きを実行に移したくてたまらなくなってきた。光輝が帰ってくるまでもう時間はない。
優麗は急いで二階の自室に上がった。もう何年も使っていなかった部屋だけあって、優麗がこの部屋に初めて入った時はダンボールとほこりでいっぱいだったが、今では、ほこりは掃除されたものの、ダンボールについてはそのままである。ほとんどの時間を居間で過ごす優麗は、この自室を寝る以外に使わないのだ。
ダンボールの間に挟まった箪笥の引き出しから白いワンピースを引っ張り出し、部屋着を脱いでそれを頭から被る。そして、箪笥脇の姿見を見ながら、襟や裾を整え、黒くて長い髪を前に垂らした。たったこれだけでも、某ホラー映画の、テレビから出てくる幽霊そっくりにある。
準備万端。玄関に向かおうと階段の半ばまで降りた優麗を待っていたのは――
「さぁて、仔猫ちゃんはどこかなぁあああ~、あはあはあはははっ!」
――黒のニット帽にサングラスや白のマスク、さらには軍手を装備した、見るからに怪しい男だった。その不審者は、猫撫で声で仔猫ちゃんとやらを探している模様である。
(ん、仔猫ちゃん……? 仔猫ちゃんって、女の子のこと?)
仔猫ちゃん = 女の子 = わたし。
(って、わたしか!)
この家には今、女の子は一人しかいない。優麗はすぐに、不審者の狙いは自分に違いないと思った。
……この不審者もとい最上清隆が本当に仔猫目当てで侵入してきたことは、その時の優麗には知る由もなかった。
優麗は恐怖に身体を震わせた。
(まずい、まずいわ……ッ! これはいわゆる誘拐というものに違いない。何はともあれ、逃げないとっ!)
そこで焦って逃げようとした優麗は、愚かにも降りかけていた階段から急いで足を戻してしまった。古い階段の床板は、そっと上ろうとしてもギシギシと軋む音が鳴ってしまう。つまるところ、階段の発てた乾いた音が家中に響き渡ってしまったのだ。もちろんその音は、不審者にも丸聞こえである。
「おや、二階に行ったのかなぁ、あはあは、あははははは!」
(気づかれた!? しかもゲラゲラ笑ってるし! 襲われる! 殺される! 怖いよぉ! 助けて光輝!)
心の中で嘆きながら二階へ上がった優麗は、階段から一番遠い一室に入った。しかしそこは、畳が敷いてある小さな部屋なのだが、家具はなく、隠れられる場所といえば押し入れしかなかった。
不審者の足音は、階段の八割方を上り切ったようだ。今戻れば鉢合わせしてしまうだろう。やむを得ず、優麗はその押し入れに身を隠した。
足音は一直線にこの部屋に近づいてくる。物音でバレてしまったのかもしれない。
足音は優麗の潜む部屋に入ると、押し入れの前で静止。そして、ゆっくりとその戸が開けられた。
「仔猫ちゃ~ん、大丈夫でちゅよ~。さあ、みーつけ…………」
押入れを開け切ると、重なる二人の視線。
片方は不審者で、もう片方は幽霊の恰好である。さらに重なるのは、二人の悲鳴。
「「いやぁああああああああああああああああああ!」」
◇5
俺は沖野の言葉を待っていた。
夕焼け空に染められて、オレンジ色に見えるお下げ髪と真っ赤な頬。下を向いていることによって、長いまつ毛が強調された双眸。そして、ピンク色のふっくらした唇。
よく見ると――いや、よく見なくても――彼女は整った顔立ちをしていた。
そう意識してしまうと、たまに聞こえる彼女の吐息や、風に乗って微かに香る彼女の匂いの一つ一つに鼓動が刺激された。
「わ、私ね」
「っ!?」
恥ずかしくも、沖野の第一声に全身でもって驚いてしまった。異様なまでの俺の反応に沖野は気遣うような目を向ける。
「そ、その、大丈夫?」
「ああ、大丈夫だ。続けてくれ」
「え、えっとね、私……」
沖野がついに何かを言う。言おうとする。まさにその瞬間。それを阻むことが起こってしまった。
「「いやぁああああああああああああああああああ!」」
悲鳴が轟いたのだ。家の中からよく知った声が二人分。おそらく、優麗と清隆のものだろう。この二人の声が家の中から同時に聞こえたということは、恐れていた事態が起こってしまったのかもしれない……ッ!
「すまん、沖野! 話はまたあとで!」
「あ、待って川島くん!」
呼び止めようとする沖野には悪いが、俺は家の中へと急ぐ。
玄関の引き戸を開けてすぐ、黒い頭にサングラスとマスクを着けた変態が俺に飛びついてきた。
「どうしよう! でた! でたんだよ! みつきぃいいい!」
「ちょ、なんだお前!? 清隆なのか!? とりあえず落ち着け清隆! あと離れろ! 何が出たんだ!」
コアラよろしく腰にまとわりつく清隆を引きはがそうとしていたところに、顔を髪で隠した白いワンピースの幽霊がおろおろとした足取りで階段を下りてきて俺にしがみついてきた。
「光輝ぃ」
弱々しい声で俺の名前を読んだ幽霊の正体は、言うまでもなく優麗であった。優麗の趣味を知らず、尚且つここが我が家でなければ、変質者と幽霊にしがみつかれて今頃失神していたことだろう。
さて、今にも泣き出しそうなこの二人の顔から察するに、きっと出くわしてしまったのだろう。それも、最悪のかたちで……。
「……ねえ、川島くん」
どうこの状況をまとめたものかと考えていると、背中に冷ややかな声が突き刺さった。その声の主からは想像もつかないほどの冷たさを持っていた。本当にその人が出した声なのかと、恐る恐る沖野の方へ首を回すと、彼女の眼には生気が宿ってなかった。
そしてもう一度。今度はさっきの倍は鋭さを持った刃を投げかけてくる。
「その女の子……誰……?」
居間の中は氷点下30℃を下回っていた。
もっともそれは、体感気温であって正しい気温ではない。本当は初夏らしくそれなりに今も暑いのだろう。だがこの部屋には、動こうとするものはたちまち氷漬けにしてしまう雪の女王様が降臨なさっていた。
正座をしているだけなのに、玉座に腰かけているようにも見える沖野の前に、ちゃぶ台を一つ挟んで俺と優麗は縮こまって座っていた。というのも、嘘を吐くのが苦手な俺は、正直に事情を話してしまったのだ。そして話した途端、一瞬にしてこのように部屋が凍り付いてしまったという次第である。
陽が陰ってきたにもかかわらず、タイミングを逃したが故に電気を点けていない。そのため、室内は薄暗くなっている。おかげで沖野の表情が窺えず、余計に彼女の無言の希薄に拍車がかかっていた。
誰か助けてくれ。生きたまま氷に閉じ込められた小動物の気持ちで念じていると、それに答えるかのように助けが舞い降りた。
「しっかし、まさか仔猫ちゃんの正体がこんな女の子だったとはな~」
そう言って口火を切り、部屋の明かりを着けて氷を解かしてくれたのは、ニタニタと気持ちの悪い笑みを浮かべた清隆だった。普段ならうざいと苛立ったところだが、今だけはその顔に感謝である。
「含みのある言い方だな、清隆。何か言いたいことでもあるのか?」
「なんでもないぜ。それよりも、沖野さんのほうを気にしたほうがいいんじゃねーか?」
言われて沖野に目を遣ると、
「川島くんのお家に女の子……川島くんのお家に女の子……川島くんのお家に女の子……川島くんのお家に女の子……」
と、俯きながら何かをぶつぶつ呟いていた。もはやそれは狂気じみてさえある。
「お、おい、沖野。大丈夫か……?」
「……女の子…………えっ!? な、何かな!? 隠すなら海がいいか山がいいかって話?」
「ちげーよ!!」
「あ、そうだよね! やっぱり簀巻きにして東京湾に沈めないと!」
「だからちげーって! 何の話をしているんだ、さっきから!」
「え」
そこでやっと沖野は、今まで自分がかなりぶっ飛んだことを言っていたことに気が付いて、はっと手で口を覆った。それから真っ赤な顔でちゃぶ台の上に乗りだして謝罪をしてくる。
「ごめんなさい、川島くん! 今の忘れて! すぐ忘れて!」
「わかった、わかったから落ち着け」
沖野をなだめると、彼女は仕切り直すように一度咳払いをして提案をしてくる。
「じゃあ、今度の週末、いっしょに買い物に行こうよ?」
「ん、待て、何故そういう話になった?」
「だって、その子のための服とか日用品ってまだほとんど揃ってないんだよね? だったら買い物に行かないと」
「いや、それはそうだが」
普通ここは違う反応をするところだろう。まだ清隆の方が理想的な反応に近かったといえる。
「いいのか? 優麗はいわば、行方不明者なんだぞ?」
「それ川島くんが言う?」
沖野が苦笑いで俺を見て、何かを思い出すかのような目になって続けた。
「川島くんは、また正しいことをしようとしているだけなんでしょ?」
「そうだが」
「なら、私は川島くんに協力する。それだけのことだよ」
そんなに簡単なものだろうか。俺がやっていることは、下手をすれば警察に捕まるようなことだ。これに加担をするということは、同じく裁かれる立場になるということを意味する。それなのに、沖野は迷うことなく俺に協力すると言った。
ここに乗っかるようにして清隆も口を開く。
「オレも協力するぜ。こんなおもし……まあ、とにかく協力するってこった」
「おい、今、おもしろいって言おうとしてなかったか!」
「ま、理由はなんであれ、ここは協力されといた方が得だろーよ?」
「かも……な」
確かに、その通りかもしれない。正直、俺一人で女の子の面倒を見るのは、少しばかり限界があると思い始めていた。それこそ、服や日用品に関しては、まるで知識がない。そういったことの中には、男の俺には話しづらいことも必ずあるだろう。
そうしたことを考えると、この二人が協力をしてくれるというのは、願ってもないことだ。
俺はちゃぶ台から一歩退くと、二人に深々と頭を下げた。
「ありがとう、ふたりとも。これから迷惑をかけることになると思うが、どうかよろしく頼む」
すると、今の今まで借りてきた猫のように大人しかった優麗も同じようにしてお辞儀をしていた。
「よろしくお願いします……」
ここまで元気のない優麗は初めて見た。一体何をそこまで思い詰めているのだろう。
心の中で優麗のことを気に掛けていると、沖野が慌てて顔の前で手を振った。
「そんなっ! 頭下げるのはやめてよ! こっちが好きで言い出してることだし! あ、ほら、週末の詳しい日程とか行先とか決めよ。ね?」
その後は、軽く週末の日程について話して解散した。すっかり暗くなってしまっていたので送ると言ったが、その役目は清隆が担ってくれるらしい。
「何はともあれ、ひとまずは丸く収まったようだな」
二人が出て行った玄関の戸を見ながら独りごちると、消え入りそうな気配で隣に立っていた優麗が呟いた。
「ありがとう……」
「ん? 何のことだ?」
「だって、他の人にばれちゃったから、警察にでも突き出されると思ったから……」
は? え? もしかしてこいつ、それを心配してずっと思いつめた表情をしていたのか。
それに気が付くと、竜に襲われることを恐れる子どもを見ているようで、自然と笑いが込み上げてきた。
「ふははっははは」
「ちょっと、どうして笑うのよ!」
赤面して眉を吊り上げる優麗だったが、これを笑わずにはいられない。
「そんなこと心配してたのか、お前は!」
ふて腐れたようにそっぽを向く優麗の頭を撫でてやりながら断言する。
「そんなことは絶対にしないから、安心しろ」
俺は俺の正しいと思ったことを行う。それは、家出した少女を匿うことのように、時には社会的に正しくない行いもあるだろう。しかし、昔から俺はずっとこうしてきたのである。こうしてきたからこそ、俺は迷わずに生きてこられたとも言える。
ひとしきり笑ったところで、夕食の支度がまだだったことを思い出した俺は、玄関に踵を返して台所へと向かおうとした――
「いや~、冷や冷やしたです~。でも物分かりのよい方々で安心したですね」
――まさにその時、声が聞こえた。俺のものでなければ、優麗のものでもない。 しかし、どこかで聞いたことのある女の子の声だった。
未だ玄関で頬を膨らませたままの優麗に振り返って問う。
「おい、優麗。今何か言ったか?」
「「え?」」
今度は先の女の子の声と優麗の重なった声が聞こえた。
「何も言ってないわよ……?」
優麗は訝しげな目を向けてきた。気のせいだろうか。きっと風の仕業か何かに違いないと思い始めようとした瞬間、今度ははっきりとそれが聞こえた。
「あ、あの、ミーくん?」
「うおあ! やっぱり聞こえた!」
「どうしたの? 大丈夫、光輝? さっきので気疲れしちゃった?」
本気で心配している様子の優麗をそのままに、俺は再度振り向いてその正体を探そうとする。
「どこだ! 姿を現せ!」
「ここ、ここ。ここにいるです!」
目の前から声が聞こえた。若干視線を落とすと、そこには幼い女の子がいた。おそらく小学校低学年くらいだろう。左側のワンサイドアップの髪が可愛いらしい。真っ白の着物に身を包み、なんと――足が微かに透けていた。それはまるで、幽霊と呼ぶに相応しい姿だ。
「お、お前は……誰だ?」
うろたえる俺を見て、その女の子は一瞬だけ悲しそうな顔をしたが、気を取り直したようににこりと笑いかけてきた。
「こんにちはです、ミーくん!」
優麗との生活が始まって五日目。どうやら本物の幽霊が現れてしまったようだ。