プロローグ
◇プロローグ◇
「お客さん、おもしろい恰好してますねえ」
タクシードライバーの男は、後部座席に座る客に話しかけた。彼の額には汗が浮かんでいる。車のエアコンが効いているから別段暑いわけでもない。けれども運転手がたらたらと汗を流しているのにはわけがあった。
タクシーが走っているのは街灯もない真っ暗な農道。車のヘッドライトが照らしていないところは闇に包まれていて何があるのかすら分からない。疑心暗鬼を生じて、本当はないはずのものまで見えてきそうな気がする。
そんな中拾ってしまった客は、いかにも怪しかった。体型から言って、恐らく十代前半と思われる少女なのだが、大きめの白いワンピースに身を包み、顔を長い黒髪で覆って隠し、まるで――幽霊のような風貌をしているのである。
運転手が車内のデジタル時計に目を向けると、時刻は間もなく午前零時に差し掛かろうとしていた。初夏といえどもひんやりとしている頃合いである。それは、あたかも、この世とは別の世界へと繋がってしまいそうな時間帯ともいえる。
男はいよいよ悪寒が走った。そして、よくない考えに頭を支配される。
背後の闇に佇む少女が――幽霊なのではないか、と。
だが、もしかしたら普通の客なのかもしれない。運転手は震えた深呼吸をし、汗いっぱいの笑みをミラーに向けて話しかけた。
「お客さん、お墓にいましたが、こんな時間に何か用事でもあったんですか?」
「……」
「……えっと……お客さん未成年だよね? 見た感じだと中学生かな?」
「……」
客はいっさい口を開こうとはしなかった。目的地に関しても住所の書かれたメモを渡されただけなので、男はこの少女の声をまだ聞いていない。声を上げない不気味さに、男はますます空気が冷たくなったような錯覚を感じた。
それ以降、どちらも何もしゃべらないまま住宅街の外れの家へと到着した。築何十年と推測される和風の家だ。その家の住所が渡されたメモに書いてあったのである。
運転手はほっと安堵の息を漏らすと、客に振り向いた。
「じゃ、じゃあ、お客さん、会計をお願いします。っと……1380円になります」
「……」
少女は微動だにしないままただ座っているだけだった。
「お、お客さん、どうしたの? ……お金無いの?」
「……」
運転手は困ったと唸る。いくら怖くても、仕事の都合上、料金を貰わないというわけにはいかない。そこでふと、目的地の家が目に入り、少女に訊ねた。
「ここ、お客さんの家だよね? おうちの人にお金を持ってくるように言ってくれないかな?」
「……」
どうせ何もしゃべらないだろうと思い、返事を待たずに運転手はドアを開けてやった。すると少女は、のらりくらりと動き出し、タクシーを降りて家の中へと入っていった。
「……遅いなぁ……」
それからいくら待っても少女は出てこなかった。
「仕方ない……」
とうとうしびれを切らした運転手は、車から降りて家のチャイムを鳴らしに行った。
――ピンポーン
「はーい」
何秒か後に若い男の声が聞こえ、間もなく横開きの戸がガラガラと開けられた。そこには、二十歳前後と思われる青年が不思議そうな顔で立っていた。無造作だが清潔感のある髪に、誠実そうな顔をしている。身長は平均程度といったところだろう。
「は、はい、何でしょう? こんな時間に」
話が通じそうな人間が出てきたことに安心した運転手は、すかさずその青年に事情を話す。
「お宅にいらっしゃる中学生くらいの女の子が、うちのタクシーをご利用なさいまして、そのお支払いをしていただきたいのですが?」
「ちゅ、中学生くらいの……オンナノコ?」
首を傾げる青年だったが、その額に冷や汗が浮かんでいるのを運転手は見逃さなかった。白々しい。青年の態度からそう思った運転手は声を荒げる。
「さっき帰って来たでしょう! 白い服の女の子ですよ!」
けれども青年は、見当もつかないといったように首を横に振った。
「いえ……家にそんな人はいませんが……?」
「そんなはずは……ッ!」
「あ、ちょっと待ってください」
青年は運転手の言葉を遮って、しばらく顎に手を当てて何かを考える仕草をしたかと思うと、わざとらしくある答えに行き着いたというように目を見開き、それから歪ながら寂しそうな表情をして言う。
「よかったら、仏壇に線香をあげてやってはいただけないでしょうか?」
「は? そんなことより……」
「いいですから」
青年の声は震えていた。明らかにおかしい。しかし、このまま押し問答を続けても埒が明かない。そう考えた運転手は、ここはおとなしく従うことにした。
「では……お邪魔します」
鴨居をくぐると、灰色の三和土が現れた。布団を敷いても余裕があるほど奥行きがある。男はその広さに多少なりとも驚きながらも、適当に靴を脱いで、上がり框に足を乗せた。その瞬間、木と畳の香りが優しく鼻を撫でてきた。田舎の家を思い出すような匂いだ。和風で古めかしいものの、かなり立派な造りをしているようである。
正面には、薄暗い廊下とよく軋みそうな真っ暗な階段。その雰囲気は、怪談映画によく出てくる気味の悪い家のようでもあった。
青年の案内で、運転手は廊下を進む。玄関から間もなく、壁の右側にボロボロの襖が見えた。その襖を開けて和室に入ると、殺風景な部屋の隅に一つの仏壇が佇んでいるのが見えた。
青年の行動に訳が分からなくなっていた運転手だったが、彼の後に続いて仏壇の前に座ったところで、表情が凍り付いた。
「一年前に事故で他界した、俺の妹です」
なぜならば、その仏壇に置いてあった遺影に写っていたのは――さっきまで自分が後部座席に乗せていた、白い服の少女だったからである。