蝶の歪
テーマ:夕暮れ
そう、俺は、彼女と話していた。
出会いは本当、今思えば可愛らしいものだった。
その時些細なことで、家を出た。子供だなってしみじみ思うほど小さいことだったけれど、俺にはすんごく大きかった。扉は開けっ放しで、門もでかい音をたてて蹴破って、全力疾走したね。
空がもう、濁ってた。それはとても鮮明。白い光を洩らす怯えた橙を、今にも飲み込まんと暗鬼が攻め込んでいるような、そんなぐしゃぐしゃな色が、俺の視界の隅を走ってた。
やがてたどり着いた海辺に、
彼女がいた。
彼女は浮世離れした姿をしていた。
前は眉毛の上で切り揃えられ、後ろは腰の辺りまで伸びた、艶やかに白く反射する黒髪。
冷たい風邪に舞いはらはらと浮かび上がり、背にした夕闇の燐光を切り裂いていた。
翡翠色の影を帯びた、空気を孕まぬ氷のように澄んだ眸。
透き通って背景に消えてしまいそうな、薄色の肌。
それを包む、髪よりも深い漆黒のワンピースが、海側の向こうに広がるテトラポッドを覆い隠す。
裾から覗く足は、病魔に侵されているかと思うほど細かった。防波堤の上に立っているのが、不思議なくらい。
「きみも――――」
静かに太陽が揺れて、深淵から溢れ出た浅い藍色が侵食していく。
じわりと染め変えられる空は、彼女を中心に広がる。
やがて全てが彼女のものになったとき、燃えるように赤い唇が開いた。
「きみも、逃げてきたの」
心臓を直接鷲掴みにされた気分だった。
まるでそのまま、黒くてきらびやかな翅を生やして、奪ったまま翔んでしまいそうだ。
「そうよね? その手、震え、息の荒さ……そして何より、その目付きが証拠」
彼女は、俺のクラスメートだ。
だからこんなに異様な雰囲気を放っていても、彼女は唯の少女にすぎない。中身は誰とも変わらない、普通の十七歳なのだ。
「……ふふ、わたしとおんなじ。ねぇ?」
口の端をくにゃりと歪ませ、ふわりと堕ちるように防波堤に座る。
「結木」
ぶらんぶらんとあどけない弱さを曝しながら、ざらついた石の表面に綺麗な踵を擦り付ける。
「どうだった?」
「どうって……絶望?」
「あら、そう。坂田くんは仲間かなあって、少し期待したのだけれど」
結木は痒そうな顔をして、足を抱え込んだ。スカートの中は見えそうで見えない。
「その言い方、やっぱりお前、噂通りなのか?」
「噂?」
「……さ、殺人鬼」
「あぁ」
結木が右腕をほどき、耳にかかった髪を掻き上げる。
「坂田くんは、そう思う? 坂田くんは……」
それからまた足を抱え、首を折ったまま膝に顔を乗せた。
青白く発光する肌に、窪みのような暗色の斑点が浮かぶ。隠すように広がった髪のせいで、彼女を核にした繭のように見える。
「みんなと同じ? それとも、わたし?」
「お前と一緒にするな!」
「でも、わたしは知ってる……きみは、きみが」
「うるさい!」
荒らげた声に動じることなく、結木は上品に、口元に手を添えた。
完璧な笑みを湛え、完璧な『少女』の表情をした結木は、聖母のようにおれにそれを差し出した。
縁取る銀色が鈍く光る。
「見つかったら、消せばいいのよ」
吟うような口調で、結木が持つ部分を変える。
「君だって、先生に落書きが見つかりそうだったら消すでしょう?」
切れた掌を気にすること無く、さらに手に持つそれを、俺に向かって突き出す。
「ほら」
水平に空気を横断している包丁。
俺はそれを乱暴に奪い、結木のぶら下がった足を思いっきり下に引いた。
ごっと音を立てて、結木の細い身体が落ちる。
結木が塞いでいた太陽がようやく姿を現し、僅かに残る体力を振り絞り、俺の横顔を照らした。
俺は結木の胴に馬乗りし、彼女の、何本も線状痕の走る首目掛けて、錆びた安物の包丁を突き立てた。