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人魚の舞  作者: 吾妻栄子
2/5

東方の皇子

「船は、順調に進んでおります」

 潮の香りが、晩夏の熱気を孕んで海上を漂っている。

 満月に程近い月が照らし出す夜の甲板で、年の頃三十半ばで、やや赤焼けした、眉太く目の丸く大きい顔つきに武装で身を固めた男は、しかし、飽くまで口調は静かに、自分より一回り以上も年若い主君に報告した。

「あと数日で越安えつあんの沖に到着しますかと」

 まだ十七歳の、青年というより少年に近い面影の主君は穏やかに頷く。

「承知した」

 象牙色の肌をした小さな瓜実顔うりざねがおに、黒目の勝った切れ長い奥二重の双眸。作りは簡素だが上質な水色の絹の衣を纏った、骨の細い体つき。

 姿を一見すると、男装した美少女かと思わせるが、低く通る声は間違いなく男性のそれであった。

「ご苦労であった、鄭護ていご

 臣下に向かって労うように微笑むと、端整な顔形に潜む冷厳さが消え、代わりに相手もふと釣り込まれて頬を緩ませてしまう温かさが立ち上る。

「嵐の兆候は、今のところはないのだな」

 行く手の海に目を向けると、問いかけとも独り言ともつかぬ口調で少年は呟いた。

「はい」

 鄭護は声こそ落ち着いていたが、しかし、大きな丸い目を伏せて答えた。

 甲板に立つ主従の耳に響いてくる波の音は規則正しく乱れを感じさせないが、一度、二人が黙してしまうと、波のもたらす揺れが微かだが確かな形を持って浮かび上がってくる。

「我らの上陸までには、荒波が来ぬことを祈ろう」

 潮の香りが漂う中、少年の語る声は年より大人びて低く響いたが、月明かりが照らし出す横顔は、薄くあえかな顎の線が、本来のよわいを主張するかのようであった。

 ふと、その横顔が仰向いて、月を見やる。

「三年前の春、二の兄上は、寒鴉宮かんあきゅうに幽閉され、毒杯を仰がれた」

 僅かに端の欠けた月に囁きかけるように、少年の声が密やかになる。

 鄭護は伏していた目を思わず上げる。

「二のあね上は報を受けると、『みやは酔えばいつも望む方とは逆に歩いていってしまうから、毒酒で行き先を誤らぬよう、私が冥府までまた供をします』と言われて自害されたそうだ」

 振り向いた少年の顔は半ば陰になっていたが、切れの長い目の端から光る粒がこぼれ落ちていく様がはっきりと認められた。

「お二人は無事、冥府に辿り着かれただろうか、と今でも思う」

 啜り上げると、水色の衣の袖で涙を拭う。

 自分を見詰める年長の臣下に対して、少年は大丈夫だという風に小さな面を静かに横に振った。

「ご夫妻ともとても良くしてくださったのに、私は何もお返しせぬままだった」

「あのお二方なら、きっと許して下さいますよ」

 諭すような臣下の言葉に少年は寂しい笑いを浮かべて頷くと、再び海に眼差しを映した。

 月に雲が懸かって、白々としていた海面がうっすらととばりを掛けたように暗くなる。

「一昨年の冬、三の兄上は、北伐ほくばつを命じられ、凶駿族きょうしゅんぞくの放った矢に当たり、吹雪の草原で亡くなられた」

 黒い影と化した少年の声は、一転して乾いた調子になる。

「知らせが来る前に、三の嫂上は京洛けいらくで産声も上げぬ子を産み落とし、そのまま母子共に息を引き取られた」

 鄭護も黙してかげった海原を見守った。

 視界が暗くなると、船を揺らす波の動きと湿った磯の香りが浮き上がってくる。

「お互いの死を知らずに済んだのだから、それだけでもまだ良かったのだろうか」

 問い掛けと解すには何かが足りない少年の呟きは、波の音に紛れていく。

 暗がりの中で耳にすると、そこまで激しい波ではないにも関わらず、奇妙にざわめいて聞こえた。

「雪解けしても、北の平原は射殺いころされた兵たちの骨で白く埋め尽くされていたと聞いた」

 月を隠していた雲が通り過ぎ、海も、甲板の上も、再び煌々とした月明かりに晒される。

 年若い主君の傍に控える男は眩しげに大きな目を細めた。

 帆先からの不意の飛沫しぶきが、赤焼けした頬を僅かに濡らす。

「去年の夏、四の兄上は、西討せいとうに赴かされ、行軍の半ばで熱病におかされ、砂漠の陣中で身罷みまかられた」

 改めて顔を出した月面は、僅かに欠けた端を縁取るざらついた陰影まではっきりと認められ、まるで干上がった黄色い砂を寄せて崩したかのようであった。

 乾いた月明かりを反射して、少年の結い上げた黒髪の小さな頭は、絹めいた滑らかな光を放つ。

「前年に嫁いだばかりだった四の嫂上は、『もう都で待つべき方はいない』『欲にけがれた地に未練はありませぬ』と言うと髪を切り落とし、よわい十八にも届かぬ身で京洛を離れた山奥の寺に入ってしまわれた」

 少年の面が緩やかに再び臣下を振り返る。

 鄭護はまるで咎められたように微かにいかつい肩を竦めた。

「四の兄上が春先に流行った風病の病み上がりと知っていながら、一の兄上は父上に西討を進言されたのだ」

 表情の消えた象牙色の顔には、感情の色がつかない端整さゆえの冷厳さが漂っていた。

 滑らかな面に僅かに懸かった後れ毛の煌めきで、月の下で夜風がそれと分かる程度に強まったと知れる。

 鄭護は射竦められた面持ちのまま、しかし、主君から目を離すことが出来ない。

「そして、今、私は南征を任じられ、この海の上にいる」

 少年は再び、切れの長い黒の双眸を、静かに光を湛えた海原に向ける。

 月明かりの下では、波音は優しく囁くように響いてきた。

「兄上たちと違って、まだ妻も持たぬ身で送り出されたが、それで良かったのだ」

 水色の絹に包まれた少年の肉薄な肩は、さやかな月光を浴びてほの白く浮かび上がる。

 夜風に吹かれ、潮の匂いに混じって、水仙に似た香りも甲板上に仄かに漂う。

 それは、他ならぬ少年から発せられたものであったが、まだ青さをどこかに含んだ爽やかな芳香であるにも関わらず、後ろでその香りに吹き当てられた鄭護の目が痛ましくなった。

「妻を娶ったところで、不幸な女性にょしょうをまた一人、増やすだけのこと」

 真っ直ぐ伸びた白く長いうなじは、むしろ、語る本人こそが、その薄幸な佳人の一人であるかのように傍で目にする者に思わせた。

「それに、西討将軍に続いて、南征将軍の位牌が一族のびょうに並べば、一の兄上も、もう疑いに苦しまずに過ごされるようになるのだ」

 満月に限りなく近づいた月を見上げ、少年は安んじたように息を吐くと、やっと聴き取れるほど小さく低い声で付け加える。

「太子の地位を脅かす弟は、もう、誰一人残っていないから」

 白々と照らし出された甲板に立つ主従の間を、パシャリ、と波の小さく弾く音が転がり落ちた。

「心残りと言えば、発つ前に、一の兄上とじかに言葉を交わしたかった」

 少年の語調はむしろ淡々としていたが、「一の兄上」という言葉を耳にした男は唇を強く噛む。

「南征の宣旨を受ける時、遠く父上の隣に姿をお見かけしたのが最後だ」

 鄭護はまるでその宣旨を受ける場にいるかのように、拳を強く握り締めたまま、頭を深く垂れた。

 バシャッと飛沫の上がる音がまた行く手から響いてくる。

「兄上の方では、こちらに目を向けてはいても、私のことなど眼中にないようだった」

 波間に向けて語る少年の声が、苦笑いする風に震えた。

「四年前の今頃、何者かに毒を盛られて生死の境をさまよわれてから、ずっと、そんな風に……」

 震えながら昂ぶったところで不意に途切れた声に、鄭護は思わず涙した目を上げて、主君に歩み寄ろうとする。

「今、行く手に、何か、光るひれのようなものが」

 少年は驚いたように目を見張った面持ちで、鄭護を振り返っていた。

 そんな表情をすると、酷く幼い顔になる。

「昨夜も、その前の昼間にも、確かに見かけた」

 十七歳の少年は白魚じみた指で海を示しつつ、再び見出そうと目を凝らす。

 しかし、甲板の上から目に入るのは、前も後ろも変わらず続く穏やかな波だけである。

「ただの魚とは、どうも違う気がする」

 主君の呟きに、鄭護は大きな目を細めると、静かだが確固たる語調で告げた。

「きっと、皇子みこが生きてみやこに帰れる吉兆きっちょうでございますよ」

 主従はそれから黙って、月明かりの下に無限に続くかの様に広がる夜の海原をそれぞれ見詰めた。

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