その6 あの夢の中へ
人は目覚めてから五分以内に、見た夢の九十五パーセントを忘れる、という。
最近夢を見なくなってね、年かなー、という人がよくいるが、それは年のせいで見なくなっているんじゃなくて、単に忘れているらしい。
かくいうわたしも最近の夢がさっぱり思い出せない。
猫が廊下でけんかして眠りを破られたときなどは、確かに「今見た夢」を鮮明に覚えていたりするが、そのあとまた寝て朝を迎えるともう何も覚えていない。
夢は主にレム睡眠(眼球が動いている状態の浅い眠り)の時に見ると言われているが、ノンレム睡眠(深い眠り)にはさまれて出現するので、深い眠りに吸い取られて大方が消え去ってしまうのだろう。
わたしは眠ることはたいして好きじゃないけれど、夢を見るのは大好きだ。というか自分の夢を正直、愛している。なので、名作の記憶を失わないように、枕元に録音機をおいてみたことがある。
けれど、夢を見てうまい具合に目覚めたからって、真夜中に録音機をいじくって突然支離滅裂な解説など始めたら、隣で寝てる夫がうなされると思うのでこれはやっていない。というか、眠たくて面倒でできなかった。まあ、考えればわかることではあった。
以前はよく、いつまでも忘れられないような強烈な夢を見た。
たいていオールカラーで、情景がこまやかで美しく独創的で、飛翔感と解放感と同時に無気味な寂しさがあった。切なさと孤独と神聖さがあった。あの世界に満ちる情緒は、現世では味わうことができない趣深いものなのだけど、なんともうまく言葉で説明できない。
今回は夢話ということでオカルト風味は弱め。というのも、第五話まで書いてみて、実話系怪異話はどうにも書けば書くほど肩が重くなるのが分かったので、ちょいと箸休めがしたくなったのだ。エッセイの一話目で、前世の記憶を引きずった系の悪夢について書いたけれど、今回ご紹介していくのは、そっち系列を除いた、純粋なオリジナルドリームである。
さて、よく見る夢のパターンをまず大雑把に書いてみると、わたしの場合
1 飛ぶ
2 逃げる(おいかけられる)
3 街中で服がボロボロ、あるいは半裸なことに気付く
4 トイレに入ろうにも汚いし底は抜けてるしというパターン
5 知らない人たちといっしょに未知の世界を旅する(世界の終末系を含む)
6 時間までにどこかに行こうとしているが間に合わない
7 歯がボロボロ抜ける
8 竜巻、地震、津波
9 泳ぐ
10 家族や友だちが化け物だ
これらを、夢分析ができるという人に分析してもらったらこうなった。
1 性的欲求不満
2 性的欲求不満
3 性的欲求不満
4 性的……以下略
分析する気がないのかと思ったらこれでも真面目らしい。抑制や理性をとっぱらった人間の原初的衝動は生殖活動しかない、と先に結論が出ているんだろうか。
聞くところによると、夢の中でぎりぎりの状況に陥って逃げ惑っていたり焦っていたり追い詰められたり恥ずかしい思いをしているのは、すべて性的な衝動の表れで、モロに表現できないからいろんな形をとっているのだという。
それって、レイプ願望ってこと? あんなのオスのファンタジーだぞ。
じゃあゆったりとして気分がいい、例えばきれいな水の中をゆっくり泳いでいたりふわふわ飛んでいたりする夢は、というとこれもじゅうぶん性的な夢だそうで、どうもありがとうございます。
では、性的な夢しか見ていないらしいわたしの一番最近の印象的な夢として、一つご紹介したい。世界の終りパニック編である。
雨の降る灰色の町に大変なことが近づいている。
殺人的電磁波が空から降り注ぎ、世界が終わる、とかそういうことらしい。
人々は争って大きな建物に逃げ込み、地下へ地下へと降りてゆく。わたしも人ごみにもまれて移動する。暗い長い廊下をひたすら進んでいくのだが、そのどん詰まりが妙に明るい。
よく見ると、切り取られたような四角い空間の向こうで、昔ながらの夏祭りの様子が展開している。
浴衣を着て笑う人々、金魚すくい、提灯の灯り、明るい盆踊りの音楽。
どうやらその向こうは幸せな過去につながっていて、そこに駆け込めば今からは逃げられるらしい。でも、家族や友人とはもう、会えない。
地下の通路に固まった人々の半分が過去の空間に向かって駆け出す。半数は、元来た方向へ戻る。
わたしはどちらも選べず、中間でおろおろしている。
と、夏祭りの風景の手前でシャッターが下りはじめる。来たほうへ戻る通路でも、下りはじめる。人々はあっという間に二手に分かれてシャッターの向こうへ突進してゆく。
慌てて幸せな風景へ向かって走る自分。が、あと少しのところでがしゃーんとシャッターは閉まる。
振り向いた途端、現在に至るシャッターも同時に閉まる。人々はみな隙間から自分の選んだ世界へ滑り込んでしまった。
周囲には誰もいない。何も見えない。
わたしは「どこでもない空間」の真っ暗闇に一人閉じ込められたのだ。
今でも過去でもない、全き虚無の空間。
うああああああああ!
わたしは叫んだ。叫びに叫んで鉄のシャッターをどんどんどんどんどんどんしていたら、怖すぎて目が覚めたのだ。
多分あの絶望感は、現実に同じ目にあって味わう絶望感とほぼ同等だと思う。 寝ているだけなのに精神が壊れそうになった。
安らぐために眠っているのに、これでは寝ている意味がない。どうしてこんな風に自分を追い詰めるんだろう?
夢は体験や記憶を反芻し、内容のシャッフルをすることで、さまざまな出来事への対処方法をシミュレーションしているという説もある。
が、絶望の内容があまりに極端だと、自分を追いつめて破壊するための夢もありなのではないかとすら思えるのだ。理由はわからないけど。
これだけ困らせておけば現実で何があってもましだと思えるだろうと、そういうことだろうか。でも五分で忘れるというシステムだと何の意味もないと思うんだけど。
次は、情景が細やかで美しい夢をよく見ると書いたけれど、そちら側について語ってみよう。イラスト付きで。
これは二十年ぐらい前に描いたスケッチで、起きてすぐ描きとめた覚えがある。そのためのスケッチブックを枕元に置いておいたのだ。(もっともこれも面倒くさくなって、これ一枚で描くのをやめてしまった)
どうやら女子寮の一部屋らしく、全体にふんわり黄色で、外からは水音と楽しそうな声が聞こえてくる。
左の窓の外はプールになっているらしい。
わたしは誰かに追われてここに逃げ込んだようで、ドアを閉めて息をひそめている。そして、この部屋の明るさと温かさにぼうっとなっている。
家具の配置、小物の配置、細かいところに至るまで夢の通りに描いたものだ。 なぜかこの部屋の情景は、今でも鮮明に思い出すことができる。まるで実際にこういう部屋がどこかにあって、魂だけで自分がそこを訪れたとでもいうように。
こういう風に、大したストーリーがないのにいつまでも焼き付いている夢の中の風景がたくさんある。
以下、思い出すままに並べてみよう。
「世界最後の日を迎えるためにみんなで思い思いの場へ行進する」という夢もシリーズのようによく見たけれど、(だいたい二十代まで)
その中で出てきた様々な風景が忘れられない。
廃校になった中学校の、理科実験室らしい空間。
わたしはそこに一人入り込む。外からはひんやりした日差しが斜めに差し込んでいる。
長い長い実験用テーブルの上は、ビーカー、フラスコ、アルコールランプ以外に、大小さまざまな背の高いガラス瓶が並び、それが全部美しい青色なのだ。
やんわりとした光が青色のガラスを透過し、部屋全体に青い揺らめきを作り出している。その中を、尾の長い黒猫が、静かに歩き回っているのだ。
優雅に、足音も立てず、瓶と瓶の間を縫うように、するりすらり、するりすらりと。
広い草原に柵がめぐらされていて「飛行機の墓場」と書いた立札が立っている。
空から真っ白な飛行機が落ちてきては、音もなく次々と突き刺さってゆく。
飛行機は尾翼を空に向かって突き立てて、まるで固まった白いクジラのようだ。
逃げ惑うひとびとは、ときに教会を目指す。
教会のドアは外からバッテンの材木で封じられ、閉じ込められた人々が必死でガラス窓をたたいているが、全く声は聞こえない。教会を囲むナナカマドの葉が火のように赤く、美しい。周囲は緑の沃野である。
いつの間にか旅の同胞もいなくなり、わたしは一人滝のそばに立っている。
金色の滝がどうどうと流れ落ちていて、そのそばに真っ赤な百合が一輪、咲いている。
それを眺めるわたしの脇に、なぜか三島由紀夫が立っているのだ。
わたしが、何もかも終わりなのですか、と聞くと、葉巻をくわえながら、人類に必要なのはユニゾンだ、という風なことを言う。あといろいろ聞いたけど、みんな忘れてしまった。
人けのない遊園地。
なぜかジェットコースターに乗っている。しかも最前列。
ふと見ると隣がイエス・キリストなのだ。長髪で髭を伸ばしていて、生成りの布地でできたゆったりとした服を着ていて、実に生真面目な顔をしている。
ジェットコースターが走り出す。やがて急な下りが来ると、イエス様は真面目な顔のまま万歳した。付き合ってわたしも両手を上げた。コースターは途中から線路を外れて宙を飛ぶ。わたしは風を受けながらただ真剣に両手を上げている。眼下には、人の消えた錆びた遊園地が寂しく広がっている。そうして、コースターはいつまでも空を行く。
旅の途中によく出て来るのが、巨大な駅だ。
何階建てかよくわからない多重構造で、てっぺんにはモスクにあるような丸いドームが乗っている。そこはいつも夜だ。昼の駅は出てきたことがない。
電車がいくつも空中を走ってくる。空はきらめく星空だ。そして多重構造の各階のプラットホームに滑り込んでゆく。大きな荷物を持った人々が、次々に電車の中に消えてゆく。
電車は警笛も鳴らさず、窓を淋しく光らせながら静かに滑り出し、夜の中に消えてゆく。
その銀河鉄道と巨大駅の上には、いつもきまって細い三日月が出ているのだ。
ラピスラズリのような深い青いろの海に、砂糖菓子でできたような真っ白な豪華客船がいくつも浮かんでいて、その手前に乗船を待つ人々が立っている。逃げに逃げて、ここが最終地点らしい。
乗ろうとすると、船は次々に、音も立てずに崩れ落ち、海に溶け去ってゆく。
そのたびに、海は一層青くなる。
重い荷物を持ったまま、人々は途方に暮れ、黙って崩れゆく白い船を見ている。
黒い服の尼僧の一群が、白と青の前に首を垂れて祈っている。
もう乗っていける船はない。どこにも行けない。
それでも、その風景を見ている自分の気持ちは、やさしく甘やかなのだ。
わたしはたくさんある夢の中で、このシリーズが一番好きだ。夢の中の世界は静謐で、鮮やかで、すべてが終わるというその運命の前に、人はおごらず昂ぶらず、素直でそして平等だから。
わたしは現実では気難しくあまのじゃくで、あまり人とはなじめないけれど、あの世界の中で共に旅してそして半ばで死んでいった人たちのことはみな愛することができる。
一つ一つの風景も、胸が痛くなるほどいとおしい。
でも、と思う。
夢の役目というものが、昼間見たことやったことを情報処理し取捨選択し、翌日もスッキリ生きるためであるならば、現実よりもはるかにいとおしい夢の世界はなぜ現れるのだろう。
あの風景たちは、どうしてあのように美しく深いのだろう。そしていつも、色鮮やかなのだろう。
わたしにとってそれは、逆に、現世がどんなに味気なく醜くても、目を閉じさえすれば夢幻の世界に行けますよ、という、「生きることをあきらめないためのおまじない」のような気がする。
だから、そんな記憶があまり残らなくなってきた昨今、
耳に入るニュースが残酷で血なまぐさくて耳をふさぎたくなるようなものばかりだからこそ、
覚えているうちに記録し、書き残し、手放さずにいたいと思うのだ。
大丈夫、自分には帰れる世界がある。それはいつでもそこにある。
美しくて、静かで、いつでもわたしを待っている。
と思っていたいから。
それはもしかしたら、花嫁のように時間をかけて美しく飾り立てられた、「死」へのシミュレーションなのかもしれない。