その5 気づいたな
いまは成人した息子がぽつりと語ってくれた、小学生のころの夢の話からはじめよう。
とてもとても、とおおっても怖い夢を見たという。
どんな夢かというと……
よくは覚えていないが、家を出て、遊びに行った。
そして帰り道が分からなくなった。
日も暮れて、どうにか家に帰り着いた。ところが出てきたのは知らない家族。しまった別の家だ、と思ったけれど、みな笑顔でお帰りなさいと言う。
変なことを言うと大変なことになりそうで、そのままその家で家族の振りをした。
そのうち家に帰れる。いつか帰れる。と思いながらうろうろしても、自分の家族は見つからない。帰り道も見つからない。
「それでどうなったの?」と聞いたら
「今も夢から覚めてない。だから、帰れてないんだよ」
………
そういえば、わが家には彼に絡む「ザリガニ事件」があった。
ときどき彼は思い出したように、「うちにザリガニがいたよね」というのだ。
「水槽が箪笥の上にあって、そこでぼくがいつも餌をやってたよね。二匹いて、名前も付けた。脱皮するところも見たよね」
いやに具体的だけれど、家族のだれも……四歳年上のおねえちゃんも、わたしたち夫婦も、そんなものは見ていないし飼った記憶もない。箪笥の上の水槽で飼ったことがあるのは、金魚のつがいだ。ザリガニは買ったことももらったこともないのである。
夢でも見て勘違いしてるんでしょ、と皆が言うと、彼はむきになって
「いた。ザリガニは絶対にいた! どうして誰も覚えてないんだよ?」というのである。
そしてある日、洗面所の物入れの整理をしていて、わたしは奥から、ほこりまみれの小さなビニール袋を見つけ出したのだ。
中には茶色いペレット状の餌が入っていて、こう書かれていた。
「ザリガニのえさ」
わたしは驚愕した。これはどういうことなのか。
彼の記憶のほうが正しいのなら、なぜ彼を除くわたしたち家族には、ザリガニの記憶がないのだろう。
わたしたち夫婦はともかく、お姉ちゃんのほうは記憶力抜群だ。さらに動物好き、イキモノ好きなのである。飼っていたなら忘れているわけがない。
もしかしたらそれは、彼がこの夢の世界に閉じ込められる前の、彼の本当の家の記憶で、それが時空の割れ目でつながり、証拠品が転がり込んだ……と?
時空の裂け目。そこから覗く、ここではない世界。
それを思わせる事件が、現世で、この身にもあった。
不思議体験史上最強のわけのわからなさを誇るその事件を、次にご紹介しよう。
週末になるとよく車で近くのショッピングセンターに家族で買出しに行く。
そこは三階建てで、一階がスーパー、二回が大型電気店、三階と屋上が駐車場になっている。
夫婦ふたりで買出しに行ったその日も、屋上に車を止め、そこからエレベーターに乗り込んだ。
一つ下の屋内駐車場で止まる。家族連れが乗り込んでくる。
次はK電気。の、はずだった。
ドアが閉まってゆっくり降下がはじまった。ドアには縦長のガラスがはめ込まれていて、外が見えるようになっている。そのガラス窓の外に、暗い駐車場が下からあらわれたのだ。
人けはない、ただ車だけが止まっている。
その陰気な風景はエレベーターの降下につれ、すうっと上に上がり、消えていった。
エレベーター内の客の会話がぴたりとやんだ。
窓の向こうに電気店の明かりが上がって来る。二階である。エレベーターは止まり、客が乗り込んでくる。
そして一階、スーパーへ。ドアが開き、外に押し出された。
わたしはただただ、困惑していた。このことを口に出すべきか、出さざるべきか。
突然背後から、夫がぼそりと問いかけてきた。
「今さ、……すごく不思議なことが起きたよね」
ずきーんと胸を痛みが突き抜けた。
「あるはずのない階があったよね?」
「やっぱり? やっぱりよね!」わたしは振り向いて言った。
「駐車場とK電気の間に、駐車場があったわよね。あれ、なんだったの?」
「……わからない」
それ以上の会話はできなかった。
あれこれ語り合うには異様すぎたのだ。
いきなり押し黙ったエレベーター内の人たちも、あの光景に凍り付いたのだろう。
何度も何度も利用している店なので、見間違いや勘違いは考えられない。あれからも何度も行っているが、二度とあの階は現れていない。
では、あれは「建物の幽霊」なのだろうか。
それとも、例の「時空の裂け目」が、この世界と重なって存在するもう一つの世界をかいま見せてしまったのだろうか。
実は、目に見えているこの世があまり絶対的なものではなく、なんでもありというかかなりいい加減なものなんじゃないかという思いは、幼いころからわたしにあった。
それは第一話で書いたように、自分自身が妙な前世の記憶にうなされ続けて、現世の自分より、凶悪殺人鬼としての自分の存在に圧倒され続けたせいもあるだろう。
けれどわたしの、現世に対する信頼を突き崩した出来事は、それとは別の、実に些細なものだった。
何歳のことかは忘れたがおおかた小学校三、四年あたりだと思う。
夕暮れになって、洗面所の灯りをつけようとした。
が、スイッチに指をもっていったその瞬間、なぜかやめようと思い、とっさに指を引っ込めた。
すると、ふれてもいないスイッチが大きな音を立ててぱちんと跳ね上がり、洗面所のあかりがついたのだ。
わたしはびっくり仰天し、パニックに陥った。そして台所に駆け込み、料理中の母に報告したのだ。
「いまね、すごい変なことが起きた。スイッチつけようとしてやめたら、勝手にパチンって上がって、あかりがついたの!」
母は眉間に皺をよせてこちらを見ると、あんたの言うことはさっぱりわからない、とだけ言って鍋のほうを向いた。それはそうだろう、当の本人にだってわからないんだから。
わたしは幼い頭で考え込んだ。
この出来事の意味するところはつまり、つまり……
この世は、あるいは自分の人生は脚本通りに進んでいて、演出もそれに沿ってなされていて、イレギュラーな動きをとっさにすると、こういう風にミスが起きるのではないか?
ここは舞台で、自分はある芝居の主人公で、気づかぬながら脚本通りの人生を演じさせられているのではないか。見えない観客の前で。
あとで知ったことだが、同様の想定で作られた漫画や映画は結構あるのだ。漫画なら手塚治虫の「赤の他人」、映画なら、ジム・キャリーの「トゥルーマン・ショー」。
どちらも、ラストで主人公は周りの陰謀に気付き、禁を破って脚本の外、舞台装置の外に出ようとする。片方は失敗し、片方は成功する。失敗したほうでは、主人公は死ぬ。
わたしは多分、自分は世界のほころびに気付いたのだと思った。そしてそれに気付いたと宣言したり、親に向かって指摘したりしてはいけないのだと思った。
そんな行為は世界を不安定にさせ、自分を危険な立場に立たせるだけなのだ、きっと。
それで、騙されたふりをして過ごそうと決めた。
でも、とわたしは考えた。本来自分が自分として生きられる世界、脚本のない世界はどこにあるのだろう。今の親がつくりものなら、自分の本当の親はどこにいるんだろう?
そしてたびたび不安な夢を見た。
たとえば、自分の家の芝生の庭に面したベランダで、みんなでスイカを食べている。姉二人とわたし、そして両親。犬のロックもいる。
楽しさを装って会話しているけれど、何か背中が冷え冷えとしている。でもそれを気取られてはならない。何も気づかれてはならないのだ。
ふとスイカを食べながら振り向いてしまった。すると、家族全員が、トンボのような顔になってこちらを見ている。大きな目はぐるぐるのコイル巻きのような渦巻になっていて、からだはナナフシのように細くて長い。
彼らはぐるぐるの目でこちらを見て言うのだ。
「気づいたな」
そしてカマのような手を振り上げてわたしを追ってくる。わたしはスイカをほっぽりだして逃げた。助けてママ、ママ、と呼ぼうとするが、この世界にママはいないのだ。死ぬまで、きっと誰も、助けてくれない。
目覚めても夢の余韻から逃げられず、わたしは両親の顔を見るのが怖かった。
気づいたな、と思われたら、いつあのへんな姿に変身されるかわからないからだ。
成長するにつれてこの何とも言えない恐ろしい妄想? は薄れて消えていったけれど、変な現象はたびたびおこった。
ホテルに泊まり、物を書いていたら、(竹芝桟橋に近い綺麗なホテルだ)デスクの上のゼムクリップが目の前で、シャーッと音を立てて真横に二十センチほど動いて止まったとか、
伊豆急下田線で稲取から河津に行こうとして、二分後に発車する列車に乗るため自販機で切符を買おうとしたら、五千円札を突っ込んだはいいものの長距離の行先駅名つきボタンしか並んでおらず、「ああ二百二十円、二百二十円、二百二十円の切符は!」と叫んでいたら、ガチャガチャとおつりが出てきて見事に二百二十円区間の切符がペッと出てきたとか。
(この時は主人が後ろで一緒に見たので間違いない)
切符のほうは、あれは自販機に見せかけた有人販売機で実は人が売ってるんだ。という無茶な結論で押さえ込んだが、これが幼いころのわたしなら、この世に返り討ちしてやると妙な殺意を燃え上がらせていたかもしれない。
ともあれ、息子である。
彼の話が本当なら、それはそれは長いこと、彼は夢の中の見知らぬ顔の偽家族に育てられ、自分の真の思い出を笑われて、孤独な思いをしてきたことだろう。
それなのに、キレもせずやけにもならず、夢の外に出てやると刃物も振り回さず、知らぬおばちゃんに説教されながら育って、なかなか健気なものだと思う。
それを言えば、まあわたしも真相究明を諦めて、犯罪も犯さずおとなしく生きてきたわけだけれど……
大人になるにつれ、ああかもしれないこうかもしれないという疑いの穴の一つ一つに、ぼんやりした色のふたがどんどんかぶさって行って、自分で足を突っ込んで転びそうになることもなくなった。
彼も二十歳を超えたことだし、一応蓋がかぶさり始める時期だろう。だから話してくれたのだとも思う。
あきらめたとは言いつつ、実は外に向かって語らないだけで案外、自分のような人間も少なからずいるんじゃないかという思いはある。
「トゥルーマン症候群」に悩まされ続けた時代を持つ仲間が。
そうして、現世を信じきれない多くの人はみな、この世の孤児、あるいは迷子といえるのかもしれない。なんて都合よく考えてみたりする。
けれど、このような何のつもりかわからない繰り言を聞かされるとうざったくてイーッとなる人のほうが現実には多いから、
わたしとてそれを知っているから、
こんなところでひっそりちまちまと書き垂れているのである。
吐き出すだけ吐き出して、また純粋な小説の世界に戻るために。