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その3 サンクチュアリの女

 前回は亡くなった母の「女の一生」編∔怪異譚、でまとめてみた。

 今回はその続編として、父のことを書こうと思う。

 もちろん、エッセイタイトルのテーマに沿って。


 話は、母の死後の父から始まる。父が不器用ながらも母を一途に思っていたこと、母が感情表現のへたな父に苛立ちながらも心はいつもよりかかっていたことは前話に書いた。できれば未読の方は一応目を通していただければと思う。


 母は腹膜炎で六十九歳でこの世を去った。

 過去に肺結核を患ったことで肺活量が常人の半分しかなく、全身麻酔の必要な手術をすることができなかったのだ。

 愛妻家の父は七十六歳で突然、一人ぼっちになった。

 腹痛を訴えてからわずか三日目の死。父にとってはほんとうに、突然の別れだった。

 いつも泰然と構えていた父だったが、最愛の妻を失った痛手はあまりに大きく、葬儀の後は魂が抜けたように無表情になってしまった。

 両親は二人暮らしだったが、わたしたち夫婦と子どもたち二人が同じ敷地内の別棟に住んでいた。影の薄くなった父が心配で、わたしは毎日お惣菜をもって父の家を訪れた。

 父はしんとした家でいつも一人、俯いて新聞を読んでいた。

 毎日何をしているのかと尋ねたら、毎日泣いてるんだとせつないことを言う。

 天国から地獄とはこのことだ。ずっとあの暮らしが続くものだと思っていた。ママさんと二人、あとは何もいらなかったのになあ。そう、ため息交じりに繰り返した。

 父に関する母の愚痴を山ほど聞かされ続けていたわたしとしては、言いたいこともあったけれど、口には出さなかった。あとになってわかる至らなさなど、どんな夫婦にも、きっとわたしたちにも、山のようにあることだから。

 ともかく、火の消えたような家の中に父を一人置いておくことが心配だった。

 けれど父は、わたしたちと一緒に住む気はさらさらないという。母と二人で設計し、大事に建てたこの家で、母の思い出とともに静かに生きたいというのだ。

 結局、家政婦さんを週一で頼み、夕食は宅配を手配して、細かい雑用はわたしがすることになった。

 広い家の中で、父は趣味の油絵を描き、友だちを招いて囲碁を打ち、図書館から借りた本を読んで静かに過ごした。声高にあれこれ嘆く人ではなかったが、それでも来客があるたび、話がしたい、妻と話がしたい、もっと話をすればよかったと、沈んだ声で言っていた。


 十二月にはいり、クリスマスプレゼントにわたしは大きな赤いシクラメンを持って行った。父はキッチンテーブルの真ん中にそれを置いた。花のあるダイニングは父の毎日の居場所で、大きな窓から緑の庭を見渡すことができた。花のすぐ上に昼光色のライトが下がっていて、その下でよく父は本を読んでいた。

 夕暮れに外からダイニングを見ると、灯りの下に明るい(かがり)()がともっているようで、わたしは花の色が少しでも長続きしてほしいと願ったものだ。

(後で知ったことだが、シクラメンは別名篝火花ともいうそうだ)

 あるとき、その篝火の下に、父と向かい合って女性の顔があった。

 家政婦さんかなと思ったが、どうやら違う。もう少し若くて、おしゃれで、きれいな人だ。

 おやおや、とわたしは思った。

 それから、わが家から見える庭の通り道に、ときおり、女性の姿が見えるようになった。

 何も言わないのも不自然な気がして、わたしはある日そっと聞いてみた。

「最近、お友だちが遊びに来てる?」

 すると父はにっと笑い、

「綺麗な人だろう」と答えた。

「市の開設している歴史サークルで知り合った人だ。いい友だちだよ。友だちは多いほうがいいだろう」

 その通り、友だちは多いほうがいい。

 母が生きていたらそうは言わなかっただろうが、わたしは娘として心からそう思った。

 そしてそれから、父の周辺の様相が変わってきたのだ。

 ある日、父宅の郵便ポストに手紙を取りに行ったら、リボンのかかった可愛いらしい包みがあった。その日はバレンタインデーだった。

 例のお友達ね、いいわね、と父に渡したら、違う、と淡々という。

「え、違うの」

「これは多分、別の人だ」

 その翌日、門を出たところでご年配の品のいいご婦人に呼び止められた。

「あの、Tさんはおいででしょうか」

「いえ、父はちょっと出かけていますが、なにか……」

「あの、ではすみませんがちょっとこれをお渡しくださいませ」

 チョコレートらしい包みをわたしに押し付け、名前も言わずに女性はそそくさと去って行った。

 ……これも、別の人?

 そこでわたしは思い出した。

 父が、母の生前から通っていた社会教育会館でサークルの顔役をしたり、油絵の会で世話役を引き受けると、母が露骨に嫌な顔をしたことを。

 面倒なことばかり引き受けるんだから。たくさんの人に振り回されてるとろくなことにならないっていうのに、あんなにしょっちゅう出かけて。

 だが、母は知っていたのだと思う。父が外に出ると結構もてていたことを。そして父も案外、まんざらでもなかったことを。

 背が高く、理知的なタイプでなかなかダンディな父は、たとえばわたしの大学の学園祭に訪れれば、教授と間違われて周囲の学生から頭を下げられていた。病気で入院すれば、若い看護師さんたちが、Tさんのファンクラブを作らなきゃとはしゃいでいた。

 わたしは父の元気が復活してきたこと、明るく生きなおしていることに安堵したが、もしあの世というものがあるなら、そして天国というものがあるのなら、今の父を見て母が天界で怒っていませんようにと、妙な心配をしたものだ。


 母の死から数年たって、父の「大事な友だち」はどうやら一人に絞られていった。それは最初に見た彼女ではなく、サークルで知り合った別の女性だった。年齢より若々しく上品なタイプで、母に少し雰囲気が似ていた。

 そう、父は気づいていたかどうかわからないが、父がお付き合いする女性はみな、少しだけ母に似ているのだ。

 父はその彼女と旅行に行くようにもなっていた。お洒落をして、小さな鳥の羽のついた帽子をかぶり、お気に入りのステッキを持って。

 父は彼女についてはっきりとこういっていた。

 いい付き合いをしているが、結婚はしない。あちらもこちらも配偶者に先立たれて独り身だが、お互いひとりと一人として付き合い、いい時間をともに過ごせたらそれでいいと思っている。

 そのお付き合いは、それから数年続いたと思う。

 わたしは毎年シクラメンをクリスマスに贈った。年末になるとダイニングテーブルの上には篝火がともり、父と女性がたびたび赤い炎を挟んで向かい合っていた。

 その彼女も年老いて、体も弱り、次第に父の元から足が遠のいていった。

 そして、八十代最後の夏。

 父は突然の肺炎に倒れた。

 前日の昼はおいしそうにシュークリームをパクついていたのに、翌日の昼訪れたら、高熱でベッドから起き上がれない状態になっていたのだ。

 救急搬送、即入院。それでも、熱が下がり、菌がなくなれば病も通り過ぎる、とわたしは思っていた。ところが、熱が下がっても父は立ち上がることができない。当初は二週間で退院できると言われたものの、三週間たちひと月が過ぎても、父は歩けるようにならなかった。おまけに全身の筋力が下がり、嚥下も満足にできず、誤嚥を繰り返す。

 結局病院の勧めに従って胃ろうをつないだ。父は最後まで胃ろうには抵抗していた。胃に直接穴をあけて食べものを入れる、それはもう人間じゃない、死んでもいやだ、と。

 だが若くて美人の女医さんにお説教されて、あっさり折れた。綺麗な顔を近づけられ、わがまま言わないで生きましょう、娘さんたちはあなたに生きてほしいと願っているんですよ。みんなのために生きましょう、わかりましたねTさん、と言われて、はいわかりました。と笑顔で返事したのである。どこまでも、女性に弱い父であった。

 その後、まとまった貯金が父にあったのが幸いして、かなり良心的な有料介護施設に入ることができた。胃ろうをつなぎ、たびたび高熱を出す患者でも、快く受け入れ、目を離さず世話をしてくれる施設だった。

 もう病み衰えた父を訪れる女性もいなかった。その代りわたしたち三人姉妹は、父の元をかわるがわる訪れ、話しかけた。髪をとき、体を拭き、人口唾液をスプレーで舌に吹いた。ダークダックスのCDをかけ、枕元でお気に入りの写真集をめくった。

 父は嘆かず愚痴も言わず、ただ静かに日々を過ごしていた。舌の動きがおぼつかず、会話はほとんど家族しか聞き取れない。ただ、高校生の孫と、紙面上で囲碁のやり取りをするのを楽しみにしていた。地域の囲碁大会で彼が優勝したというような話をすると、そのときだけほんとにうれしそうな笑顔を見せた。

 父はその後もたびたび発熱を繰り返し、枯れ木のようにやせ細っていった。

 

 十二月五日、父は九十二歳で亡くなった。


 ベッドサイドに置いた家族写真と母の写真を、最後の最後、大きな目で食い入るように見つめていた。動かすと懸命に目で追った。その瞼が閉じたとき、どうか許して、もてていた父を許して、天国に行ったら優しくしてあげて、こんなにこんなに最後まで見ていたんだからと、わたしは母に祈った。

 父の遺言もあり、葬儀は無宗教の家族葬でこじんまりと済ませた。祭壇周りは父の描いた油絵と打ちかけだった碁盤、愛用のステッキや靴で飾った。

 あれほど帰りたがった家へ、父は骨になってやっと帰った。

 父の遺影は、母の仏壇の隣で花に囲まれ、ほっと一息ついているようだった。

 大好きだったビールを写真の横に置いて、わたしたち姉妹は父の思い出を語り合った。

 なんだかんだいっても、幸せな一生だったじゃないの、と。病や老いが悲劇であるとしても、誰もが行く道であるならば、愛する妻と共に過ごせて、その死後もいい女友達に恵まれて、最後はかいがいしい娘たちに囲まれて恵まれた時間を過ごすことのできる男性はそういないわよね、と。


 その年の冬は特に冷え込んだ。

 葬儀が終わり来客も途絶え、誰もいなくなった父の家は、冷蔵庫のような冷気に包まれていた。外気より低いとも思われるその冷え方は、不自然なぐらいだった。

 玄関を上がると長い廊下があり、突きあたりが唯一の和室で、そこにはいつも祭壇の灯りがともっている。葬儀場から持ち帰った花、弔問客の置いていった花ばながあふれるようにたくさんの花瓶に生けられ、六畳の室内は花の香りでむせかえるようだった。

 様々な手続きでその家を訪れるたび、わたしは異様な冷気と花の香りに圧倒された。そして、灯りのともる和室に、何とも言えない濃い気配を感じた。

 たぶん、父はいる。帰りたかった家の中で、新聞を読みビールを飲み、ソファにもたれて庭を見ているのだ。

 切り花たちは、いつまでたっても枯れなかった。花弁も落ちないし、色も変わらない。それは不自然ともいえるぐらいで、わたしにはその六畳が、なにか、時の止まった聖域(サンクチュアリ)のように感じられた。

 葬儀から二週間ほどたったころ、ふと気が付いて留守電を確認してみた。しばらく電話も鳴らなかったその家で、三日余りのうちに十件以上のメッセージが録音されていた。

 それもほとんどが、同一の女性からだ。

 録音時間をいっぱいに使って、同じことを呼び掛けている。


 サークルでごいっしょさせていただいたKです。人づてに訃報をうかがって、驚いてお電話しています。ほんとうなんでしょうか、信じられません。 もうほんとうに、あなたはそこにいらっしゃらないんでしょうか。葬儀も終えられたと聞きました。寂しいです。あんまりです。

 そしてそのあとで、父の名を連呼するのだ。おいて行かれた子どものような悲しい声で、何度も、何度も。


 わたくしはここにいるわ。ひとりぼっちです。寂しいです。Tさん、Tさあん……


 ほぼ同じ内容が続けて入っている異様さに、わたしは立ち尽くした。

 父からは聞いたことのない名前だ。例の彼女でも昔の友達でもない。

(例の彼女は花をもって別の日に弔問に訪れていた)

 これほど会いたがっていたのなら、家族葬になどせず、参列させてあげればよかったかもしれない。

 いや、今からでも呼んでさしあげたらいいのではないか?

 あの花だらけの部屋へ。


 わたしは思い切って、リダイヤルを押した。

 何回か長いコールののち、ご本人が出た。

 はい、Kでございます。

 か細い上品な声のご婦人だった。

 わたしは留守電を聞いた旨と、自分が留守宅を整理している娘であること、よければこれからでも自宅にいらっしゃるなら父の仏前にご案内差し上げられること、などを説明した。

 すると、相手は驚いた様子だった。そして、実に驚くべき返事が返ってきたのだ。


「わたくし、もうすでにお邪魔しています」


 わたしは驚嘆した。そんなはずがない。そして答えに詰まった。


「それは、あの、……お出迎えしたのは、では……」


「わたくし先日、とるものもとりあえず、お花をもってお伺いしましたの。そしたら、上品なクリーム色のワンピースをお召しになった女性が出ていらして、案内してくださいました。

 廊下の奥の部屋でした。たくさんのお花があって、祭壇にはTさんのお元気そうなお写真と、お水と、それから銀色の腕時計がありました。わたくしのよく知っている腕時計です。

 わたくしそこでお写真に向かって、いろいろお話をいたしましたのよ。お出迎えになったかたも、聞いていらっしゃいました」


 わけがわからなくなった。確かに部屋の様子も祭壇の様子もその通りだ。 けれど、この家の鍵を預かっているのはわたしと夫だけ、そして弔問に来た人はみな覚えている、それも数人しかいないことだ。あの彼女以外、年配の女性を案内した覚えはない。

 クリーム色のワンピース?

 わたしはそんなものは持っていない。

 姉たちも、ここの家に来ていた間はみな黒っぽい服だった。そもそも葬儀の翌々日あたりに皆自宅に帰っている。


「案内してくださったのは口数の少ない方で、お嬢様かと思っていました。違うのですか。とにかくわたくし、もうお参りは済まさせていただきましたから」

「はい、はい、行き違いでまことにすみません、たぶん親戚のものがご案内差し上げたのだとと思います、人の出入りが多かったものですから、ほんとに失礼いたしました……」


 言い訳を重ねて、あたふたとわたしは電話を切った。

 そして考え込んだ。

 言っていることが当たっている以上、あの人はほんとうにここに来たのだろうか。

 いや、もしかしたら祭壇なんてどこも似たようなものだから、多少恍惚が入った人が夢のようなことを言っているだけかも?

 あの立て続けの電話の様子からして、少し常軌を逸してはいるようだし……

 クリーム色のワンピース……

 そこでわたしははっと思い出した。


 母が持っていた。


 洋裁の得意だった母が、自分で作った黄色っぽいワンピースなら、確かに覚えている。余所行きとして、よく着ていた。

 昔のものだし、もうこの家にはないけれど。

 じゃあ、案内したのは……


 母は六十九で亡くなった。もともと綺麗な人で、年齢よりずっと若く見えた。あのクリーム色のワンピースで出迎えたとしたら、娘だと思われても少しもおかしくない。

 いや、おかしい。こんな話があるわけがない。こんな話が。


 あったとしたら、母はどんな気持ちで、どんな思いであの服を着て、父に焦がれていた女性を仏壇の前に案内したのだろうか。

 その場に、では、父も存在したのだろうか? ……

 祭壇のある部屋の花々を見ても、誰がどれを持ってきたなどと確認することもできないぐらい咲きあふれていた。

 カトレア、カサブランカ、トルコキキョウ、薔薇……

 どの花も花弁を落とさず、生き生きとみずみずしいままで。

 あの冷え切った部屋の甘い香りと祭壇のあかり、父の写真と腕時計。


 その空間の記憶と、Kさんの語ったクリーム色のワンピ―スの幻の女性の幻影は、女性関係華やかなりし父の死の記憶の最後に、解けない謎のようにひんやりと掛かりつづけているのである。


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