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その2 真夜中の電話

 ここでお詫びしておきます。エッセイ第一話は「です・ます調」つまり敬文体で書きはじめました。本来ならそれで文体を統一すべきなのですが、何話か下書きしてみたところ、どうにもそれではまどろっこしく、描写でいちいちブレーキがかかるということがわかりました。

 本来ルール違反なのですが、2話以降は「だ・である調」つまり常文体で統一することにさせていただきます。どうぞご了承ください。

 わたしの母は六十九歳で死んだ。

 今の時代では早いほうだといわれるけれど、どの時代であろうと長生きはできない体ではあった。片肺が肺結核でつぶれ、常人の半分しか肺活量がなかったのだから。

 その病は、最初の夫に伝染(うつ)されたものだったという。


 生家は岡山の地主だった。母は女五人男一人の六人きょうだいの長女で、癇性で線が細く、「ろうたけた」という表現の似合う、美しい人だった。

 母とは全く容姿の似ていない祖母は、少女のころから、周囲の人間が母をほめるたびに嫌な顔をしたという。初潮を迎えたときも、ませた本ばかり読むからこんなに早く来るんだ、と顔をしかめたと母に聞かされた。


 祖母はいつも、娘たちをひとまとめにしてこてんぱんに罵倒したという。

「あんたたちは屑です。屑の、カスの、ゴミです!」

 女ばかり産んで、と姑に嫌味を言われ苛め抜かれて、ひどく辛そうにしていたと、昔の祖母を母は語る。その鬱積が自分たちに向けられたのだろうと。

 こんな言葉に飲み込まれてはいけない、自分はゴミじゃない。母はそう自分に言い聞かせて、娘時代の自分を守った。

 高等女学校を出て間もなく、地元の会社勤めの男性と縁談がまとまり、解放の嬉しさとともに母は嫁いでいった。こでれもう、カスだゴミだ出て行けと怒鳴られ続けなくてもいいのだ。

 けれど無情なことに、結婚後ほどなくして若い夫は血を吐いた。

 肺結核だった。


 当時、結核と診断されることは、死の宣告と同じだった。母は看病のために夫とともにサナトリウムに入った。(ジブリの風立ちぬで有名になった結核療養所ですね)

 入ったときからもう病は絶望的だったという。すまないすまないと言いながらやせ細っていく夫の前で笑顔を見せながら、母は井戸端で泣いた。痩躯の青年が肩を叩き、奥さん泣かないで、きっとご主人は良くなりますから、と慰めてくれたこともあるという。

 その青年もほどなくして死んだ。

 そして、母の懸命の看病もむなしく、若い夫は結婚二年目でこの世を去った。

 そのころには、母の体も同じ病に侵されていたのだ。


 病身で出戻った娘を、祖母はひどく邪険にしたという。とにかく容姿が衰えぬうちに再び嫁に出したがった。そして(めあわ)せたのが、同じバツイチの父だったのだ。

 父は大金持ちの旧家に婿養子に入り、そこで新妻を病で失っていた。まだ赤子の娘がいて、面倒は妻の母、つまり義母がみていた。幼い娘のことがあってその家を出られず、妻亡き後もその家に住み続けていたという。

 そこに、母は嫁入りしたのだ。

 義母にとっては母は邪魔ものでしかなかった。亡くなった娘の元夫のところに嫁いできたただの赤の他人である。こんな不自然な生活がうまくいくわけもない。

 義母は目障りな若い嫁をいじめ続けた。父の見ていないところで、仏壇の仏様用のお茶碗にご飯を盛り、まっすぐ箸を刺した状態で母にご飯を食べさせ、下僕のようにしてこき使い、毎日毎日いびり続けたという。

 耐えに耐えていた母は、ある日父の前で泣き伏した。そしてすべての仕打ちを打ち明けた。

 父は初めて、日々母がやつれ続けていく理由を知った。そして義母に絶縁を言い渡し、養子縁組を解消して、幼い娘を連れてその家を出たのだ。

 義母はその時初めて頭を下げて泣いたという。

 あんたは仏のような嫁だった、わたしに何一ついやな顔を見せず耐えてくれた。どうか許しておくれ、江戸の仇を長崎で討たないでおくれ。

 自分が与えた仕打ちを、幼い孫に返さないでくれ。そういう意味だった。

 母は、わかりました大事にします、と答えた。そして父と継子と三人でその家を出た。

 父の転勤に伴い、一家は岡山を出て広島県福山市の家で暮らし始めた。自由の天地だった。そうして姉が、続いてわたしが生まれた。

 写真を見る限りでは、若いころの父は背が高く、理知的なタイプで、なかなかの色男だ。そしてとにかく母にほれ込んでいた。それは間違いない。父が自慢のカメラで撮り暗室で現像した母の写真が、今もアルバムにあふれるように残っている。モノクロで見る若き母の写真はちょっと映画の一シーンのようで、激しい性分の母の静の部分ばかりが、美しい陰影の中にしっとりと写し取られているのだ。

 洋裁が得意な母はわたしたち三姉妹の服をいつも手作りしてくれた。おそろいのワンピース、コートに帽子。お洒落に着飾ったわたしたち三人と両親の写真は、今見ると幸せな家族そのものだ。

 ところがそのころ、近所の噂好きのおばさんが、当時小学生だった姉にひどいことを吹き込んだ。


 あんたのお母さんは本当のお母さんじゃないよ、知ってるかい。

 ……違うもん、ほんとのママだもん。

 じゃあ聞いてごらん、あんたはお父さんの連れ子なんだよ、お母さんとは血がつながっていないんだよ。お母さんは本当はあんたが邪魔なんだよ。

 妹たちだけがかわいいんだよ。


 姉は駆けて帰って、母を問いただした。当然母は否定する。だが出自に関しては、いずれわかることと結局説明したという。けれど愛情は変わらないと。

 姉は屈折し、母を遠ざけるようになった。母も、扱いにくい姉を避けるようになった。そして、理由のわからないご近所の悪意そのものに戦慄し、怯えた。


 姉が十二歳になった年、一家は東京に引っ越した。そこには過去を知る意地の悪いご近所ももういない。わたしはまだ二歳前だった。

 わたしが一番上の姉が腹違いであることを知ったのは、自分が結婚した二十八の時だ。家族の中でその話が出たことはついぞなかった。ただ一番上の姉と母の間に流れる冷たい川を、漠然と意識していたとは思う。二人が互いの顔を見ながら会話していたのを見た記憶がほとんどないのだ。

 一方父は、そういうごたごたからはいつも身を遠くにおいていた。

 そしてただ、母を一方通行で愛し続けていた。

「うちのママさんは美人だ」「頭がよくて、おしゃれだ」というのが父の自慢だった。気持ちのいい夜半、よく二人で手をつないで散歩に出かけ、なかなか帰ってこなかったものだ。

 外から見ればわたしたち一家は、裕福で仲のいい両親に手のかからない三人の娘の、理想的な家族に見えたことだろう。

 だが、母の心は満たされていなかった。

 実際、父は自分の興味と関心のあること以外、目を向けないタイプだった。神経の細い母の愚痴を、言っても仕方のないことを言うなと取り合わない。子どものことは任せた、と面倒には頬かむりをする。

 思えば、養子に入ったあの旧家で、母がやせ細るまで放置していたというのも、自分とその周囲にしか関心を向けない父だからと言えば言える。

 好きな人が、好きだと言いながら自分の苦しみに関心を持たない。それは、自分に興味も関心もない相手が理解してくれないということよりも、ずっと苦しくうらめしいことだっただろう。

 母はたびたび癇癪を起こすようになった。

 どうでもいいことで怒り始めると、そのうち怒りの火種に次から次へと火が付き、手が付けられなくなる。しまいに家族全員を巻き込んで過去のことまで掘り出して嘆きだす。怒鳴り散らし喚き散らし、大火事になるころには、誰もが最初なぜ母が怒り出したかを覚えていない。ただ全員が首を縮め、火勢が衰えるのを待っていた。そして父はいつも、また始まったとばかりに新聞を畳んで自室に逃げてしまうのだった。

 母はぶつかる壁を失い、すれ違う寂しさを、わたしたち姉妹を支配することで埋めようとした。異様に教育熱心となり、学校での成績やご近所での評価、友人関係、ありとあらゆることを厳しく監視するようになったのだ。娘の出来は、体が弱く職に就けない母の、唯一の「成績表」のようなものだったのだろう。

 できの悪いわたしは、母にとって難物だった。絵ばかり描いて空想に夢中、散歩に出ると真っ暗になっても帰ってこない、空き地の高い木に登っててっぺんから降りてこない。

 小さいころから変なこだわりや妄想や神経症を複数抱えていたわたしを、母は嘆きに嘆いた。

 こんな面倒な子は欲しくなかった。ほかの子ならだれでもよかった。普通の子がほしかった、あんたでさえなければもう誰でもいい。

 母の執着は真ん中の姉に向けられた。姉は普通どころか、とても優秀で素直で、愛らしい容姿だったのだ。

 けれど、母の要求は果てしなくエスカレートした。あなたはなんでも一番で当たり前なのよ、ほかの子とは違うんだからね。わたしとパパの間の自慢の子なんだからね。

 結果姉はわたし以上に追い詰められることになった。

 お習字に朱で訂正をされたというだけで外に放り出され、成績が学年で二番だったというだけで、親に恥をかかせたと激怒される。

 ごめんなさいごめんなさいといいながら母に毎日泣かされているおとなしい姉が、わたしは可哀想でならなかった。

 腹違いの一番上の姉もまたたいへん優秀だったが、母の自慢にはならなかった。むしろ、泣かされている姉のライバルとして位置していたと思う。もちろん、母の心の中でだ。見ていてはっきりわかるレベルだった。母は継子の姉を、そこにいないかのように日常ほとんど無視し続けた。

 わたしたちはそれぞれに、言葉で母と和解するのを諦めていった。

 姉は二人とも、大学を出るとすぐに結婚して家を出た。もちろん、母のお眼鏡にかなう学歴、職業、家柄の相手だった。そして、あまり実家に寄り付かなくなった。


 わたしは二十八で結婚した。

 夫が結婚のあいさつに家に来たとき、父はいきなり宣言した。わたしたちは老後の面倒をこの娘にみてもらおうと決めているが、あんたはそれでよろしいね。

 わたしは絶句した。そんな口約束をした覚えはない。夫はただハイと答えた。わたしは怒りと申し訳なさでいっぱいになった。

 たぶん、嫁いだ上の二人との距離を感じていた両親は、頼れるのは末娘だと勝手に決めていたのだろう。

 でもわたしは、両親と争う気力はなかった。長い支配の時間の中で、親は対抗するものではなく、無言で従うべき相手となっていたのだ。わたしは上の子の出産を機に、両親と同じ敷地内の別棟に引っ越した。

 長女出産から三年目に、長男に恵まれた。そのころには母はだいぶ弱っていた。十段の階段も、息切れのために上がることができない。

 それでも母は、二つの家の間にある明るい芝生で二人の孫と遊ぶ時間を何より喜んだ。駄々をこねて泣き続ける娘をそのままに台所の片づけなどしていると、たいていいつの間にか入ってきた母が娘を抱いていて

「こんなかわいい子を泣かせる必要がどこにあるの」とわたしを睨んだものだ。

 母が抱けば必ずうれしそうに笑う孫たちは、気難しい母の晩年の宝となった。

 母はとろけるようにわたしの子どもたちを愛し、愛することでとても幸せそうだった。

 母の本当の笑顔を見られたのはその時期だけだったと思う。わたしは自分自身でなく孫の笑顔によって、ようやく母を幸せにすることができたのだ。

 ああ、よかった。娘としての義務が果たせた。わたしは素直にそう思った。そして思い出した。物心つく前、少なくとも幼児のころまで、母はとてもやさしく幸せそうで、とろけるようにわたしたちを愛してくれたのだ。


 その春は特別庭の花々がきれいだったと思う。

 四月のある朝、母が突然の腹痛を訴えた。

 お医者様の見立てでは、十二指腸に潰瘍ができて腹膜炎を起こしているが、この肺では、全身麻酔をすれば呼吸が再開できぬという。

 母は随分前にそういう宣言を受けていたし、わたしたち娘もそのことを知っていた。全身麻酔が必要になるような大病をしたら、そのときが最後だと。

 ついに、そのときがきたのだ。

 開腹手術は死を意味していた。もうなにも母にしてあげられることはない。

 苦しい呼吸の下で母は意識朦朧となり、急速に正気を失っていった。

 父の手を取り、うっとりした口調で「なんておいしそうなの。これこんなふうにして、いただいたらダメかしら」などと言いながら口にもっていこうとする。空中に見えない化粧道具を見てしきりに粉をはたき紅を塗るしぐさをする。そして傍らに座るわたしに、どんなに自分たちが幸せな夫婦でどんなに父がやさしいか、得々と話して聞かせるのだ。

 苦しい呼吸の元、低酸素状態で幻覚を見ながら、何のストレスもない幸せな日々に母は帰って行ったのだと思う。

 父は「切なくてたまらん」と涙ぐんでいた。そしてパパ大好き、パパ大好きと甘え続ける弱弱しい声を聞きながら、その手を握り、細くなってゆく命の炎を見つめ続けた。

 父の血圧はレッドゾーンを超え、顔が真っ赤になったまま戻らなくなった。三日めの夜、わたしがつきそっていったん帰宅した。

 その夜中、母は錯乱状態に陥った。

 一晩付き添った叔母の話では、みんな冷たい、わたしのことなんか誰もわかってくれない、と一晩中叫んでいたという。点滴を引き抜き、ベッドから降りようと暴れ、大人が押さえつけてもはね返す激しさだった。

 急変を聞いて病院に駆け付けたのは早朝で、その時はもう母の意識はなかった。

 呼びかけにも反応しないまま、午前八時すぎ、母はねむるように息を引き取った。


 葬儀場では満開の桜がちょうど散り始めていた。

 あたりを被いつくすかのように降りかかる花弁が誰の服も髪も桜色に染め上げ、まるで夢幻の風景のようだった。

 桜の嵐の中で棺を送りながら、わたしは、苦しい呼吸の下、ろれつの回らない舌で母が言った言葉を思い出していた。


 あなたはやさしい。Rちゃん、あなたがいちばんやさしいの。

 ママ、わたしが好きだった?

 当たり前じゃないの。

 わたしもママが好き。ママが好き。

 わかってますよ。わかってますよ……


 たぶん、ほんとうのことを言うなら、わたしもママが好き、でいたかったのだ。母もきっと、当たり前にわたしという娘を愛したかったのだ。孫でなくわたし自身の笑顔で、母には幸せになってほしかった。

 でもそれは無理だっただろう。たとえ何度やり直しても、わたしたち一人一人が幼児であり続けることができない限り、無理だったのだろう。

 それでも、理性のタガが外れたその時に、わたしをやさしいと何度も言ってくれたことで、わたしは何十年分を慰められる思いがしたのだ。


 葬儀がおわっても、熱に浮かされたように、父は親戚と家族の前で思い出を語り続けた。

「わしは毎日言っていたんだよ。ママさん、世界中で一番好きだよと。迷惑そうにしていたけどね、本当の話だよ。ああ、忘れていた、大事なことを忘れていた。最後に送り出す前に、棺の中のママさんに、ちゃんとキスをすればよかった。なぜしなかったんだろう」

 大正生まれの男性で、これほど臆面もなく妻への愛を語る人をわたしは見たことがない。親戚は父の熱愛自慢を聞いて、さぞ母も幸せだったことだろうと泣き笑いしていた。

 そして叔母の一人がわたしたち姉妹を見て、ふと漏らした。


「あんたらは強いな。誰も泣かんのじゃな」


 わたしは頭を殴られたような気がした。そしてただ、こう言った。


「顔に出せないだけです。心の中では、みな泣いているんです」


 わたしたち姉妹は、人から見えぬところでずっと、ひそやかに話し合っていたのだ。

 どうして、母はいつもあれほど不幸そうだったのか。

 素直な娘と愛してくれる夫に囲まれて、どうして十二指腸に穴が開くほど追いつめられていたんだろう。母も苦しかったのかもしれないけれど、わたしたちも懸命に考えてきた。母を幸せにするにはどうしたらよかったのか。 みなそれぞれに、母の期待通りに頑張って来た。まだなにかが足りなかったのだろうか。

 答えは出なかった。



 葬儀から二週間ほどたったころ。

 突然わが家の電話が壊れ、通話ができなくなった。

 仕方なく新しい電話を注文し、壊れた電話の栓を引き抜いて、寝室の枕元の飾り台に置いた。

 その夜半。

 突然、枕元の電話が鳴ったのだ。


  りりりりりん。りりりりりん。りりりりりん。


 夫とわたしは飛び起きた。

 時間は午前三時だった。

 電話は、引き抜いたコードでぐるぐる巻きになっている。ぐるぐる巻きになったまま、誰かを呼んで鳴っているのだ。

 確か三回ベルが鳴って、静かになった。

 ああ、母だ。直感でそう思った。

 それでも怖かった。鳴っている間も怖かったし、鳴り終わったあとの静寂も怖かった。怖いと思ったことが母に申し訳なかった。それでも出るのは不可能だった。

 もうわかったわ、もういいから、ママ、わかってるから。親不孝な娘は、胸の中でひたすらそう祈り続けたのである。


 母の死から十六年後、父は九十二歳で他界した。

 相続等であれこれと所用が重なり、他県に住んでいる怒られ仲間の姉と会う機会も多くなった。

 去年の暮れ、わたしは電話の件をふと思い出して、お茶のついでに、思い切って打ち明けてみたのだ。

「実はね。ちょっと、変な話なんだけど、驚かないでね……」

 話を聞き終わると、姉の顔色が変わった。


「それ、その夜中の電話、そのころうちにもあったわ!」


 わたしは心底仰天した。


 聞けばちょうど同じころ。電話が突然壊れ、買い替えることにして、コードで巻いて枕元に置いていたという。

 そして、その夜、それが鳴った。真夜中に、三回か四回、けたたましくベルが鳴ったというのだ。姉は思わず

「で、出た!」

 と叫んでしまったという。

「不謹慎よね。瞬間、ママだと思ったわ。直感でそう思った。だから出られなかった」

 よくわかる。わたしは頷いた。

 姉は続けた。

「わたし、怖かったの。いまになっても、まだ、怖いの。ママはまだ怒っている気がする。

 あんたはまだわたしの思い通りになっていない。駄目じゃないのって、怒っている気がする。あのときも、きっと叱られるんだと思った。わたしいまだに、お仏壇の遺影がまともに見られないの」


 ……母の期待を一身に背負い続けた姉の傷は、わたしよりずっとずっと深かったのだ。


 子どもをもって、わかったことがある。

 上の姉も二番目の姉も、羊のようにおとなしく従順なひとたちだけれど、わたしはそうではない。

 わたしだけが癇性の血を持ち、感情的になると自分がとめられないところがある。

 些細なことで子どもをしかりつけているうち、夫とのすれ違いや自分へのいら立ちや、わけのわからない鬱屈した感情が燃え上がって、手が付けられなくなることがあるのだ。


 あふれるほどの愛しさと苦しみ。整理できない思い。

 母は、母が祖母から受け継いだその魂とくるしみは、わたしの中に連綿と生きている。

 激しい言葉を後悔するたび、そのことを、切なさとともに思い知るのだ。



 


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