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その12 屋根裏の散歩者

 前回のエッセイで、「大雑把に言って十数年前に音が始まった」とかいたけれど、今回つらつら考えてみるに、それほど昔ではない気がしてきた。

 イセエビ音が始まった時、少なくとも、今二十一歳の息子は十を越えていたと思う。

 だから少なくとも、十年以内だ。

 ただ、多少気になるような大小の異音はそれまでにもあったので、記憶がはっきりしないのである。


 さて、最初の「イセエビ音」があった次の日から、わが家は一気ににぎやかになった。

 翌日わかったのだが、その夜、正確には明け方、別々の部屋に寝ていた家族全員が同時に「怪音」を聞いていたのだ。


 二階には三部屋ある。真ん中に東西に廊下が走っていて、その廊下を挟んで南側に二つ、子どもたちの部屋が並んでいる。東の部屋が娘の部屋、西の部屋が息子の部屋。二つの部屋の境は壁ではなく、それぞれの部屋に作り付けになっているクロゼットだ。

 北側の奥の八畳が私たち夫婦の寝室で、ベッドは北側の窓のない壁にくっついている。つまりわたしたちは北枕で寝ているわけだが、怪音は最初、その北の壁、あるいはその壁に作り付けられた洋服ダンスの中から聞こえてきたのだ。

 息子の言う、最初の音はこうだった。

「夜明けごろ、部屋と廊下を隔てる壁の中から音がした。

 どんどんって叩くような音やごそごそ動くような音。相当うるさかった」

 そして四歳上の娘。

「なんか天井や壁がいきなりがさごそいいはじめて気味が悪かった。動物でもいるんじゃない?」

 ご説明した通り、三つの部屋の音の聞こえてきた場所・方角は全部、ばらばらだ。距離的にも離れているし、薄い壁を通して同じ音を聞いているわけでもない。

 それに、音の性質が全部違っている。

 わたしたちが聞いたのはとにかく、「がりがりかりかりばりばりごそごそ」という、尖ったもので壁をひっかく、鋭角的で耳障りな「イセエビ音」。

 息子が聞いたのは、どんどんごそごそという低い音。そして娘が言いたのは、がりがりごそごそ、という、生き物が動くような音だ。

 それが、何かあるとすぐ時計を見る癖のある息子に言わせると「午前四時ピッタリに」聞こえ始めたというのである。そう、夫が「何かいるね」といったあの時間だ。


 その翌日から、昼となく夜となく、家中の壁の中から妙な音が鳴り響くようになってしまった。


 真昼間、一階のパソコンルーム(ちょうど夫婦寝室の真下にあたる)でデスクトップパソコンを見ていたときは、パソコンの向こうの壁の中から、表現しようのない音が突然始まった。

 ぱたぱたぱたぱたぱたぱた……

 なんというか、大きな鳥がせわしなく、そしてものすごく軽く羽ばたく、そんなふうな音なのである。二十秒ほど続いて止まった。その類の音はそれ以来一度も聞いていない。

 がさがさがさ、と新聞で内側から拭くような音が唐突にするときもある。これは階段の壁面で多い。

 音は一階の居間の天井付近や壁からも聞こえ始めた。ごそごそごそ、とんとんとん。ととととと……虫のような動物が走るような鳥が飛ぶような。どの種類にも絞れない、不可解で複雑な音だ。

 当時うちには、二匹の猫がいた。鈍感でのんびり屋のスコと、敏捷で神経質なアメショーである。スコの方は音が始まってもびっくりして頭を巡らせているだけだが、アメショはじっとしていなかった。目を真ん丸にして、音を追いかけて壁をかけ登ろうとしたり、上を見ながら廊下を走り回った。

 そして、夕方になるとなぜか音はしばらく聞こえなくなる。

 やれやれ鎮まったか、と思っていると、

 まさに午前四時。

 草木も眠る丑三つ時を通り越して、明け方の午前四時ピッタリに、それはふたたび始まるのだ。あの北の壁から。

 がりがり、がりがりがりがり。ごそごそがりがり。

 わたしは次第に、その一連の音の始まりが「あらかじめ」わかるようになっていった。

「気配」があるのだ。

 音のはじまりの、いや、異形のものの動き出す気配が。

 ぴしっ。ばしっ。

 窓ガラスの隅が割れるような音がする。それも、なんというか、家の周りの気圧が急に高くなって、家全体を押しつぶそうとしている、そんなすごい圧力の中で家が耐えきれずにあげる悲鳴のような家鳴りのような音だ。

 そのぴしっ、が来て、ああ始まったな、と思うと、サッシ窓がみりみりみりみりっと音を上げる。台風の強風で窓ガラスが内側に押されるときのような具合で。

 そしてそれを合図のように、、がりがり、どんどんどん、とととととと、ぱたぱたぱたといろんな音が同時多発的に、家中の壁の中で始まるのだ。

わたしは昔から、それこそ幼少期から色々とこういう現象に接してきたから、説明できないものがこの世にはあるのだ、ぐらいには諦観していたが、夫は最初、頑固だった。

 あのすごい「がりがり音」を、

「家の裏に立っている立木が風で揺れて壁をがりがりする音だ」と言ってきかないのだ。

 前からあった木なのに、なぜいきなり始まったのか。なぜ天井や壁に移るのか。風のない日であってもするのはなぜか。全く説明がつかない。

 そのうち、音のパターンがわかってきた。

 怪音は、明け方四時に判で押したように始まる。始まったら家中を縦横無尽に走り回る。終わる時は一斉に終わる。部屋によって聞こえる音が違う。

 夜昼を問わない。人がいようといまいと関係ない。怖いというより、とにかく、うるさい。遠慮会釈がない。

 一番派手だったのは息子の部屋だったと思う。薄い壁の向こうから、あるいは床下から、そこにひとがいて拳で擦るように、ひっかくように、すごくダイレクトに音がするのだ。

 ある夕方。

「うわあっ」と叫びながら息子が駆け下りてきた。

「またあいつがきた!」

「いつものことでしょうよ」と投げやりに料理を続けるわたし。

「違う、さっきのはやばい。壁の中からがりがりがりがり音がするから、頭にきて壁を拳でドンってぶっ叩いてやったんだよ。そしたら一瞬静かになって、人が拳でするような感じで

『こんこん』って、はっきり返事されたんだ! あれは、返事だよ!」

 わたしは息子とともに階段を上がり、音のした場所を指さしてもらった。 個室を入ってすぐの、左の壁の天井近くを彼は指さした。

「そこ?」

「ここ。ダイレクトにここ。ここでどすどすがりがりうるさいから、だんってなぐってやったら、……」

「しょっちゅうそこから音がする?」

「いや、ここは初めて」

 わたしは廊下側に回り、廊下の壁の上部のモノ入れを見上げた。音のした部分の裏側はここになる。そこで脚立を使い、久しく開けていない物入れを開けてみた。

 そこには古い靴が入った靴箱と、からの靴箱が積み重なっていた。

 一つ一つ開けて、下におろす。

 古い靴と、空の靴箱。

 はいっていたのは、それだけだった。それを全部出すと、中はがらんとした空洞だった。

 わたしは中からコンコンと叩いた。

「これ? この音?」

「そうだけど……」


 何の解決にもならなかった。つまり、なにもなく誰もいない場所を、音はめぐっているのだ。それがわかっただけだった。


 そのうち、天井からの音がはなはだしくなっていった。

 というか、一階の居間にとっては天井、娘の部屋にとっては床の部分である。屋根裏ではないので、狭い狭い空間だ。

「ボーリングのボールをゴロゴロ転がすような音がする」

 そうしょっちゅう、娘は訴えるようになった。

 ゴロゴロゴロゴロ、と何かが床を転がってゆくという。ほかに例えようがないのだそうだ。

 娘の部屋に入り、床の音を聞いたことはわたしもある。そのときはなにか、ずずっ、ずずっ、と引きずるような音だった。たとえるならば、蛇?

「そういう、何かが這いずるような音の時も多いの。すごく重い音。でも、ゴロゴロゴロの方が多い」と娘は言う。

 その音は居間の天井からも聞こえた。ゴロゴロゴロゴロ。何か重そうなボールが転がってゆく感じである。

 なにがおきているのか、さっぱりわからない。

 そして一番恐ろしかったのが、わたしたちの寝室の天井の音だった。

 はっきりと、「人の足音」が聞こえはじめたのである。

 ある夜、いつもの癖ではっと目が覚め、時計を見た。

 午前四時。

 ああ、こんな時間に起きてしまった……

 ぴしっ、と部屋が鳴る。始まりだ。

 すると、二階の廊下部分の天井を、みしりみしりと踏みながら、なにかがやってくるのがわかった。

 ちょうど、人がニ本足歩行をする時のような足音だ。

 足音はゆっくりと廊下をこちらに進み、寝室の天井裏に来た。もう、ちょうどわたしの、わたしたちの頭の上だ。

 みしり。みしり。みしり。頭上を歩き回っている。みしりみしりみしりどかどかどかばたばたずるずるざざざざざざあああああ………


 その時の音を何と言ったらいいだろう。だれか、かなり体重の重いものが天井を二本足で歩き、頭上に来た途端四つん這いになり、はいずり、長く伸びて蛇のようになりぐるぐると十重二十重に部屋に巻きつき……

 というような、もうそれはそれはこの世のものではないような音だった。


 娘の部屋でも怪音が止まらなくなった。どころか、二階に上がって部屋にはいろうとしたら、真っ暗な部屋の中から逆に「とんとん」とノックされたという。

 わたしも一度、二階に上がったとき、階段を上り詰めたあたりで、彼女の部屋の内側からノックする音を聞いたことがある。

 とんとん。

 もちろん、無人だ。

 娘は部屋で眠れなくなり、親のベッドで一緒に寝るようになった。もう高校生なのだが、それどころではない。緊急避難だ。

 音のしない時でも、「今日はだめ、嫌なものが満ちてる」といって、自室に入ることを拒否することがあった。そういう夜はたいてい家中からすごい音がしたものだ。

 そのころから、彼女のかわいがっていたアメショが、(家族の中で一番娘になれていた、というか、彼女以外になつかなかった)滅多に二階に上がらないのに彼女の部屋の前に来てうずくまるようになった。

 そして娘の顔を見ると、みゃあと細い声で鳴く。入れてくれ、というのだ。

 その子と一緒のベッドで寝ると、かなり音は軽減したという。猫は彼女に抱き付くようにして眠り、髪の毛をなめ続けた。

 だが娘は猫の毛アレルギーで、一緒に眠るのは体的にきついものがあった。くしゃみと涙が止まらなくなるのだ。

 でも部屋から出されても、アメショは娘の部屋の外でうずくまったままどかなかった。さりとて鳴きつづけるわけではない。とにかく、そこで香箱座りをして、朝まで頑張るのである。

 わたしにはなにか、その子が必死に、娘の部屋に居座ろうとしているなにかから娘を守ろうとしているように見えた。

 ともかくも、天井の無遠慮な足音には夫も驚いて、「これは泥棒が夜中に屋根に上がっているのかもしれないし、何か動物が住み着いているのかもしれないから、一度屋根屋さんに診てもらった方がいい」と言い出した。

 そろそろ屋根も葺き替える必要があったし、プロに診てもらうのが一番と、わたしたちはリフォーム専門の工務店さんに電話した。

 そして屋根裏に入ってもらい、音の話をして、ついでに壁の中や躯体を見てもらった。

 たぶん、おそらく、何か住んでいる。そういう結論であってほしい。そう願って。

 けれど、あちこち丹念に見てくれた挙句、恰幅のいい職人さんは言った。

「生き物の気配はありませんね。しっかりした家で、小動物の出はいりする隙間もありません。壁の中には断熱材が詰まっていますし、食い荒らされた後もありません。天井裏の根太の間の断熱材にも、動物の巣やふんなどは見受けられません。

 ここらへん、結構ネズミとかハクビシンとかコウモリとか、住み着いて巣つくっちゃってる家は多いんですよ。そういうとこはまず臭いがすごいんですぐわかります。天井裏に首突っ込んだとたん、おえっとなりますからね。 巣があればふんもあるし、しょんべんはするし、赤んぼも産みます。食い散らかしたいろんなものの残骸もあるしね。そういうのほっとくと家そのものが腐ってくわけです。でも出入り口がなければ子育てはできない。ここは何も住んでないしその形跡もないですね。だいいち、小動物の出入り口がないです」

 床下まで見て、職人さんはそう言った。

 正直、納得がいかなかった。

 その前日も、派手な音は続いていたのだ。何もいないのに音がするわけがない。

 職人さんが帰った後、わたしは自ら脚立を上り、寝室の天袋の天井板を外し、唯一室内から天井裏に入れるそのルートから屋根裏に入った。

(職人さんもそこから入ったのです)

 懐中電灯で中を照らす。

 確かに、何の音もしない。臭いもない。

 縦横にめぐらされた木材の間には、ふわふわした緩衝材の入った紙の袋が詰まっている。それだけだ。

 木材の上を伝うように移動し、部屋を仕切る壁の中を上から見てみた。

 確かに、同じ断熱袋が詰まっているだけだった。

 絶対何かいる、と思っていた天井裏にも壁の中にも、何もいなかった。

 わたしは茫然とした気分で、天袋から出て、置いておいた脚立に足を延ばした。

 その途端、足を引っ張られる感覚があり、突然わたしは脚立に触れることもなく頭から寝室の床に落下した。

 どすん!

 すごい音がして、目の前が真っ白になった。

 首が……

 首が、動かない。

 一階から駆け上がってきた夫が、仰向けに脚立の横に倒れているわたしを見て叫んだ。

「落ちたの? 大丈夫、起きれる?」


「このまま動かさないで……」


 かすれ声でそういうと、心配顔の夫を見上げ、だいじょぶだからと言って、わたしはそのまま目を閉じた。

 頭と首をしたたかに打ったので、すぐに動かないほうがいいと思ったのだ。

 そして、自分でも意外なほど冷静に、考えていた。


 ……多分、のぼってはいけなかったんだ。あそこに。


 自分はほんとに意外に思っているだろうか? 音の正体が動物じゃなかったことを。

 いや、そうではない。たぶん、薄々はわかっていた。

 始まる時の、びしっ、という音。異様に押しつぶされていく空気。

 あれは、動物が作り出せる音じゃない。


 あれは、壁や屋根の上にいるのは、「生き物」では、ないのだ。


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