その10 結界
うちのせまい庭には、雑木がごそごそと生えている。
綺麗にガーデニングされたご近所と比べると、まるで武蔵野の雑木林そのまんまという風情だ。今の十倍ぐらい土地が広ければ、小トトロやコダマがからころいっていてもおかしくない。
昔、この土地に家が一軒しかたっていなかった頃は、庭仕事の大好きな父が、日当りのいい庭に芝生を植え、縁をピンクの芝桜で飾り、薔薇のアーチを立て、藤棚にスズランにと、張り切って庭づくりをしていた。
けれど、家を建てるのが趣味になってから二軒の家に押しやられて庭は手狭になり、ガレージが幅を利かせ、残りの空間には次々に木が生えはじめた。
もともとほっといても次から次に木が生える土地であったのを、父がせっせと引っこ抜いていたのが、年とともに面倒になり、さらに
「昭和天皇はすべての木や草をいつくしんだ」とか言い出して木を切るのをやめてしまったのだ。
その父が亡くなって四年たった今、様々な木々が大威張りで庭を占領している。
敷地の東の端に門があったころ、石の門柱のわきにニワトコの木が生えた。これはあっというまに樹高6メートルサイズになり、胴回りも堂々と、わが家のシンボルツリーになった。実は食用にも薬用にもなるというが、試したことはない。あまり一般的な樹木ではなく、アイヌが聖なる儀式に使う魔よけの木でもあるという。
その後ガレージを作るために門柱は撤去し、木は抜根してしまった。
そうして庭の奥まったところに再び門柱を作ったのだが、そのわきに再びニワトコが生えはじめたのだ。ニワトコはすくすくと伸び、あっという間に以前のサイズを超えた。枝を気持ちよさそうに四方に広げ、大きな日陰を作り、ここは自分の庭だとでも言いたげな、堂々たる風情である。
もう二度とあの木を抜くことはないだろう。庭の主はわたしたちではなく、あの木だと今は思う。
しかしニワトコ氏はよほどわが家に執着があるらしく、何と八王子にある我が家の墓地の、墓石の裏にも顔をお出しになったのだ。
母が亡くなった翌年、墓の手入れに行ったら、ニワトコの若木がすっくと墓石の裏に生えていたのにはびっくりした。さすがにこれには困って、申し訳ないが抜かせていただいた。
なにしろあのまま放置していたらずんずん育って墓石ごとひっくり返していただろう。
それとも我が家にはなにかアイヌ関係の因縁でもあるのだろうか? 母方の先祖は岡山の池田藩なので関係ないと思うのだが。
庭にある木で、庭木として買って植えたのは、ゲッケイジュとハナカイドウ、山茶花、カエデ、ミモザ、梅、藤、柿、沈丁花、ノウゼンカズラ、ハナミズキぐらいだ。
勝手に生えてきたのは、ニワトコ、青桐、アジサイ、(庭を占領する勢いである)ヤツデ、棕櫚、バナナ(次から次へと生え続けて沖縄の民家みたいになってしまったし実がなったこともある)アボカド、ビワ、山椒、竹、(どんどん増えるのでこれにも難儀した)芙蓉、あと名前のわからない背の高い木が数本。
野鳥が種でも落としていくのか、とにかく植生を無視して次から次へと樹木が生え放題なのである。
勝手草としては、花韮、スノードロップ、スミレ、ムラサキハナナ、そして球根類まである。植えた覚えのない曼珠沙華が勝手に咲いては増えていくのだ。
曼珠沙華は球根のはずだが、なぜ離れたところにどんどん頭を出すのか正直気味が悪い。彼岸の時期、最盛期になると赤々と禍々しく、庭が墓地みたいになってしまうのである。お墓によく咲く花で、別名彼岸花とも死人花ともいわれる。
GONSHAN GONSHAN どこへ行く
赤いお墓の 曼珠沙華
曼珠沙華
今日も手折りに きたわいな
GONSHAN GONSHAN 何本か
地には七本 血のように
血のように
ちょうどあの児の 歳の数
GONSHAN GONSHAN 気をつけな
一つ摘んでも 日は真昼
日は真昼
ひとつあとからまた開く
GONSHAN GONSHAN 何故泣くろ
いつまで取っても 曼珠沙華
曼珠沙華
恐や赤しや まだ七つ
<北原白秋作 曼珠沙華>
GONSHANとは柳河の方言で、良家の令嬢のことだそうである。
この「曼珠沙華」の詩を知ってから、曼珠沙華が花というより別の生き物に見えて仕方ないのだ。わたしは草にも人にも、霊的な存在とそうでないものとがあると確信している。そうして曼珠沙華は明らかに、何か霊的なものをまとった植物であると思う。もしかして、ニワトコも。
近所に長年ほったらかしの空き地がいくつかあるが、丈の高い地味な雑草ははえるものの、これほどさまざまな木や草に占領されている土地はない。
当然生物も多く、バッタやコオロギやヒキガエル、鮮やかな南国の蝶々(ツマグロヒョウモンとか)が毎年訪れてくれる。ついでに、藪蚊も。
さて、わが家にまつわる超常現象話のはずなのになぜ延々と庭の話をしているのかというと、その土地に起きる現象の大元として、地味というものも無視できないと思うからである。
派手の反対のジミ、ではなく、作物を育てる土壌としての成分、性質のようなもののほうである。
大体ここらの空き地に生えるのは、イネ科の雑草とかタケニグサ、ヨウシュヤマゴボウと相場が決まっているのだ。何年もほったらかしの空き家も見てきたので間違いない。なのにうちだけどんどんどんどん多種多様な木が生えてアホみたいに成長するのはどういうわけか。
もうひとつ、園芸店で売っているような有料の鮮やかな花を買ってきても、根付かない。日当りのいいところに花壇を作り、専用の土を入れても、すぐ枯れる。パンジーもインパチェンスもビオラもヒャクニチソウも、とにかく簡単だと言われる草花があっという間に枯れ果てるのだ。そのかわり、花壇でも何でもないところに得手勝手に雑草類が咲くのである。
しかし、「空気のにおいがわかる」という人に言わせると、空気は悪くないという。
たとえば、神社の鳥居をくぐったところの空気。自然の中の御寺の境内。沖縄の御嶽。そんな、周囲と違う場所にある特殊な空気のようなものが漂っている、というのだ。
それでふと思ったことがある。
もしかして、「結界」みたいなものができているのだろうか?
そう思ったきっかけを書いておこう。
今から十四年ぐらい前、宮古島に旅行に行ったとき、平良タウンの真ん中あたりに、空き地にただ大きな石ばかりが並べられている場所があった。
枯山水でもなし、何とも妙な風景なので、あれは何ですかと近所の飲み屋で聞いたら、「結界」だというのだ。
よく覚えていないのだが、町全体に「悪いモノ」が入らないよう、石で結界を作っているのだという。上を見ると、なんだか荒縄があちこちに張り巡らされているのに気付いた。この店はその中にあるから大丈夫、だと。あと、三月当たりに、宮古島では別のもので結界を作る習慣があるようだ。逆巻きで編んだ荒縄に豚の骨をつけて、地区の各出入り口にぶら下げる。その結界により、地区を「悪いもの」から守るそうだ。
そういえば、宮古を含む沖縄全体に、石敢當と掘られた石のお守りを見ることができる。
最初沖縄本島への旅行で気づき、石垣島、竹富島、さらには宮古でも見たときは少し驚いた。たいていT字路のつきあたりにあり、石碑そのものが置いてあったり、塀に表札のようにはりつけてあったりする。この地域で恐れられている魔物、マジムンは直進することしかできないので、これが正面にあると衝突して砕け散るという。
うちの庭のもっさり加減は、(しかも地蔵菩薩が埋まっていたり竜の沼だとかなんとかおまけつきで)
勝手に何かの結界が張られた結果、周囲から取り残された精霊の聖地なのだろうか。
だとしたら、どうもそのヒントが、わたしには、あの巨大なニワトコにある木がして仕方ないのだ。
……また本題に行く前に力尽きてしまった。
次は庭話から離れて、このでたらめな植生の土地に立つ我が家の、リアルタイムな怪異のあれこれを具体的に書いていくことにする。