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双月の恋  作者: 藤之恵多
暁の章
3/6


 朔夜の局、つまるところ遥日の勤め先は東の対にあり、庭の景観がよく見えた。

 惜しげもなく力を注ぎ込まれた庭には木々が青々と生い茂り、梅の花が所狭しと咲いている。春の優しい日差しを目一杯に受ける庭は何もかもが輝いているようであった。少し離れた場所には池も見え、分かっていたとはいえ自分の家との差に遥日は目が回るような気がした。

 そして庭をしげしげと観察できたのは、遥日の胆が座っていたからというわけでは勿論ない。

(朔夜さまのお顔に比べれば……)

 どうということはない。人間信じられないくらい美しいものを見ると、どうしていいか分からなくなるものだ。今の遥日にとって、自分の家と雲泥の差である豪華な庭を見るより、目の前に座っている主を同じ人間として認める方が信じられなかった。だからできるだけ気を逸らすようにして東の対から見える庭をつぶさに描写してみたのだ。


「それにしてもよく来てくださいましたね」

「は、い」


 あの後、朔夜の顔に見とれているといつの間にか部屋を移動し始めていた。前を歩く朔夜の長い黒髪を見ながら夢でも見ているのではないかと本気で疑ったものだ。今も、朔夜の局に二人きりで座っているという状況が遥日には飲み込めていない。

 何処に視点を定めていいのかも分からないまま、遥日は朔夜の声に相槌を打った。


「急な話だったでしょう?」

「いいえ。私などが七図家にお仕えできるなら、嬉しいことでございます」


 柔らかな声、微笑む顔はまるで桃の蕾が花開くようで。ただ対面しているだけだというのに褒め言葉が止めどなく出てくるのは目の前の主のせいである。物語の貴公子は眼差し一つで姫君を恋に落としていたが、それはきっと朔夜のような人ができる所業なのだろう。

 それにしても、と遥日はここに来るまでの道順を思い出す。

 七図家の姫様が住む対にしては人が少ない気がした。普通これほどの邸宅になれば十や二十の侍女とすれ違っていてもおかしくはないのだが、東の対に入ってからすれ違ったのは片手の指で足りるだけの人数である。これは遥日の家が抱える家人と余り変わらない数であり、その数倍の広さをも持つ家にしては非常に少ないと言わざるを得ない。


「ふふ、遥日は昔から変わっていないのね」


 素直な疑問が半分、気を逸らすためが半分。考え事をしていた遥日の耳に小さな笑い声とともに朔夜の声が聞こえた。楽しそうに笑う声は自分と同い年だという少女の顔を年相応に見せ、初めて遥日は肩の力を抜くことができた。

 しかし、"昔"という単語には首を傾げずにはいられなかった。

 今朔夜は「昔から変わっていない」と遥日に言った。それは昔の遥日を知っているという事になる。月葉に言われたときにも考えたことではあるが自分は七図家の人間と出会うような場所には行き来した覚えがない。ましてや、こんなに親しみを込めて名前を呼ばれるような間柄になった記憶もなかった。


「失礼ですが、昔に私とお会いしたことが?」


 緊張とともに声を押し出すと朔夜がきょとんと不思議な顔をした。

 その表情に遥日は既視感を覚えた。これと似た表情を自分は見た気がすると考え、すっと浮んできたのは月葉のことだった。月葉に「なぜ、自分を選んだのですか」と投げかけたときの表情と、さすが親子ということなのか、そっくりなのだ。


「覚えていないの?」

「……申し訳ございません」

「いえ、小さかった頃の話だし、仕方ないわ。それに――」


 深々と頭を下げて謝罪する遥日に朔夜は残念そうに微笑んで、それから小さく首を横に振って気にしなくていいと示した。

 途切れた言葉にちらりと目を上げると何処か遠い場所を見て考え事をしているらしい朔夜の姿が目に入る。どうしたのだろうと今度は遥日が戸惑った。


「あら、ごめんなさい。遥日は今日来たばかりで戸惑うことも多いだろうから、お仕事は明日からでいいわ」


 困ったように苦笑している遥日に気付いた朔夜は表情を一変させると華やかな笑顔を浮かべた。

 告げられた言葉に面食らったのは遥日のほうである。唐突な申し出ではあったが、それを知ってここに来たのは遥日自身であるし仕事は明日からと言われる方が困ってしまう。


「明日から、でございますか?朔夜さまのお優しい言葉は身に余る光栄でございます。

 ですが文には今日から働いて欲しいと書かれていたので、気を遣っていただかなくても大丈夫です」

「そう?働きたがるなんて、遥日は不思議な人ね。でも、そういうなら、頼もうかしら」


 一つ、貴女向きの仕事があったのよ、と朔夜はニコニコとした表情のまま手近にあった文箱を取り寄せ中から料紙を取り出した。柔らかな青に染められた浅葱色を更に一層薄くしたような文である。宛名の確認でもしているのか、少し眺めた後、朔夜はそれを遥日に向かって差し出した。

 丁寧にそれを受け取る。初めての仕事とあって微かに手は震えていた。


「これを兄の盛名に届けて欲しいの。恐らく南の対にいると思うから、途中道を聞きながら行ってね」


 華の顔に笑みを乗せたまま、月の姫君は言う。主から授けられた最初の仕事に遥日は固まらざるを得なかった。



 元々、使者とは重要な役割を持つ。主の代役としての責任はその肩に重く圧し掛かり、持たされた情報は漏らさず速やかに特定の人物に届けなければならない。その上、相手の人物にも失礼がないように礼儀を知り、時には受け取ってくれるような機転を利かさなければならないのだから、大変な仕事と言う外ない。

 初めてである屋敷の中で文を届けるという大役を仰せつかった遥日は、輝かしい笑顔で自分を送り出した朔夜のことを思い出していた。

 あのお姫様は思ったよりも大胆な性格をしているらしい。そうでなければ地理も何もわかっていない遥日に文を届けさせるなどということはさせないだろう。いや、わざわざ遥日向きなどと言っていた事や途中で道を聞いて行けと言っていた事を考えると、早く遥日がこの屋敷の位置取りを覚えるためにこの仕事を残していたのかもしれない。もしくは、作ってくれたのかもしれない。

 そうだとしたら、厚遇、それも特別扱いも甚だしい厚遇に違いない。遥日の記憶にない昔とやらは余程朔夜たちに良い印象を持たせたようだ。特別扱いとは随分と大それた事を考えると自分でも思うが、「明日になってもいいから」とのんびりとした声で言われた事を考えると当たらずも遠からずな気が遥日はしている。

(南の対、南の対)

 遥日は朔夜から言われた事を忘れないように胸中で何度か呟いた。

 朔夜から言われたことはわかっているし、その優しさは素直に嬉しい。

 だが元来、遥日は真面目な性格である。今日任された仕事を明日へと持ち越そうとは露とも思っておらず、今日のできるだけ早いうちに初仕事を終わらせてしまおうと考えていた。

 そのためには場所を間違えないことが先決であるのは言うまでもなく、遥日は朔夜の局が東の対という情報だけで南の対を目指すことにした。


「……広い」


 目指そうとしたのだが、既にその目論見は頓挫しかけている。

 いくら歩いても庭に面した場所から抜けれないのだから嫌にもなる。遥日の家と比べて、七図家と自分の家を比べることの馬鹿らしさを遥日は理解しているが、七図家の邸宅は何もかもが大きく作られており、そのうえ数も倍以上に増えているのだ。

 朔夜が言っていたように誰かに尋ねないことには南の対まで尋ねられそうにないと遥日は肩を落とした。

 考えてみると朔夜は南の対にいると言っただけで、この文の届け先である盛名の居場所までは教えてくれなかった。そうなると遥日は南の対に真直ぐに辿りつけたとしても、盛名の場所をその時に尋ねなければならなくなる。

 一つの対の大きさは未だに東の対を抜けられていない事実だけで充分に身に沁みた。

(どうしようかな?)

 道を聞きながら、とは朔夜の言葉であるが七図家に仕えている侍女の数はとても少ない。東の対を歩いてきてすれ違ったのは三人、その全てが忙しそうな表情をしていた為、主人直々に「のんびりでいい」扱いされている仕事で引き止めることは気が引けた。

 ならば人がいそうな場所へ向かい、そこで尋ねようかとも思ったのだけれど、そもそも場所が分からない。どうにも動かない事態に遥日は眉を下げた。

 いっそのこと、人が通りがかるまでこの場所で待っているのも一つの手である。目の前に広がる庭はどこまでも大きく優雅で観察に飽きない。


「鮮やかな色」


 上げられた格子の脇から手を差し出す。青々と茂った葉は、それでも夏の眩しさとは違い、春の優しい色をその身にたたえていた。夏の生命力にあふれた色も好むものではあるが、やはり春先の優しい色が一際好きだと遥日は思った。

 ふと、この家に来るまでに見た夢の事を思い出す。

 あれは小さき頃の記憶であるが、今の自分の状況とさして変わりはない。違いがあるとすれば自分で飛び出したか、仕事のため足を運んだか位であり、迷子に近い状況になっているという根本において違いは少ないのだ。

 成長していない自分に苦笑しながらも遥日は手の中の葉を愛でていた。


『約束しよう』


 あの爽やかな声は今は遠い。

 約束した本人である遥日の記憶でさえ、このように掠れてきているのだから、あの彼は既に忘れているかもしれない。それでもいいと遥日は思った。記憶は記憶だからこそ、宝物として心の中にとっておけるのである。


「約束の彼も、こんな場所に私がいるとは思わないもの」


 くすりと笑って葉を戻す。若木のしなやかさに枝はすぐに太陽を多く浴びることのできる場所へと帰る。

 遥日でさえ自分が七図家にことが信じられないのだから、約束の彼はきっと自分を見つけることができないだろう。本人さえわかっていない転身がどうすれば他の人に理解されるというのだ。だから――遥日は思う。約束は約束のまま、思い出は思い出のまま。それが一番いいのだと。

 さてそろそろ休むのを止めて人を探し始めよう。そう思い、庭に向けていた身体を局の方に向けようとした。


「どうかした?こんな所で青葉なんて眺めて」


 遥日の顔の横を通って腕が伸びていた。すらりとした白い指先であった。遥日はそこから身体の線を辿るようにして後ろを振り返る。

 いつの間にか後ろに人が立っており、遥日に被さるようにして庭の青葉へと触れているのだ。

 身体に纏うは唐紅の華やかな衣、その上を滑る黒髪はさらさらと川の流れのように潤っている。それだけで高貴な身分であろう事を予想される。唐突な現われにも驚いたが、何より遥日が驚いたのは、その顔が、この世に二つと無いに違いないと思った美貌にそっくりであったことである。


「朔夜、さま?」


 呆けた顔のまま固まった遥日の口から言葉が勝手に飛び出していく。

 その驚きようが微笑ましかったのか、目の前の美しい人は手を下ろすと口元を袖で隠しくすくすと顔を綻ばせた。

 麗しいの黒髪も、雪のような白さも、見れば見るほど朔夜に似ていた。だが。

(朔夜さまじゃない?)

 形作るものは恐ろしいほどに同じであった。それでも朔夜とは違うと遥日に訴えかけるものがある。

 言葉にはしがたい"それ"は恐らく身に着けている雰囲気なのだろう。静かな優しい雰囲気を持った朔夜とは違い、この人からは動くことにより発せられる溌溂とした空気が漂っていた。朔夜と同じ顔でいながら、全く反対の雰囲気に近いことが逆に二人の違いを遥日に示しているようであった。

 びっくりしたことにより心臓の鼓動が耳にうるさい。気付かれないように息を吸って、心を落ち着ける。

 どんな時でも姿勢良く、前を見つめる瞳は汚さないで、そうすれば大抵のことを乗り切ることができる。そんな風に教えてくれたのは母だった。


「すみません。私は朔夜さまに言われ、この文を盛名さまに届けに行く所であります。何方かは存じませんが、もしよろしければ南の対までの道中をお教え下さい」


 遥日が言い切ると目の前の人物は一瞬驚いたように動きを止め、それからにっこりと嬉しそうに笑った。


「あなた、私と朔夜さまの違いがわかるのね。凄いわ」

「……お姿はそっくりであらせられますが、そのように身に纏う空気が異なわれれば、自然と気付きます」


 遥日はゆっくりと息を吐き、伏せ目がちに答える。違うとわかっていても目の前にあるのは、この世とは思えない美貌である。ずっと見ていることなどできるはずもなかった。

 遥日の言葉に気を良くしたのか、何なのか、目の前の美女は口の端を上げて更に笑顔を作ると遥日の顔を覗き込むように見た。

 その動作にはっとする。気付かなかったが違うのは雰囲気だけではない。僅かではあるが目の前の少女の方が朔夜より身長が高いようだ。朔夜と立って向かい合ったことはないが、その背を追いかけて東の対まで歩いた時に大体の高さは覚えている。

 きっと横に並べば朔夜は遥日と同じくらいか、やはり少々高くなり、この人は覗き込めるほど高いということになる。


「その言葉、一体、何人の者から聞けることかしら。面白いわ、あなた」


 何処からか取り出した扇を艶やかに広げる。そして口元を隠して機嫌よく笑う。

 その仕草はとても身に着いていて、やはり目の前の人物がある高いの教養を持っていることを予想させた。

(それにしても、誰なのかしら)

 朔夜ではないのはすでに明白である。ならばここまで似た顔を持つ彼女は誰なのだろう。七図家に盛名と朔夜以外の子供がいたという話は聞いたことがなく、しかし、そのまま同じと言ってよい顔貌は血の繋がりを濃く感じさせる。


「私は朔夜さまの乳兄弟である迦月かつきよ。よろしくお願いするわね、遥日」


 乳兄弟とは字の如く同じ女の乳を飲んで育った者のことである。一緒に育つことになるので、その主従の仲は自然と深まることになる。その上、乳兄弟になれるとなれば家柄同士も深いものになることが多い。つまり、子供が乳兄弟ならば、母親も乳兄弟であることが多いという事である。

 どこに、どのように人が入り込んでくるかわからない貴族の家柄において、そういう気の置けない関係は貴重といえよう。


「迦月、さま」


 今聞いた名前を口の中で転がしてみる。

 迦月、かつき――朔夜のときのも思ったが高貴な人は名前まで麗しい響きに包まれるものらしい。遥日とて自分の名前が劣っているとは思わない。父と母が考えて、どちらかといえば母親のような気もするが、悩んで付けてくれた己の名だ。恥じることも誇ることもなくとも、遥日は自分の名前を好んでいた。

 しかしそれとは別に七図の家において出会った人々の名前は綺麗だと思った。

 遥日をここに招いた月葉という名前はもちろん、朔夜も盛名も、そして迦月も遥日には綺麗に感じられた。さすが、風流を解していると都で評判になる家は違うと変な納得もしていた。


「そう。迦月よ。きっと、あなたと顔を会わせる回数も多いでしょうから、覚えておいてね」


 念を押すような迦月の言葉に遥日は僅かに首を傾げる。覚えておいて、などと断りを入れなくとも、人間一度聞いた名前は忘れないものである。その人物が自分の直属の上司にあたり、毎日のように顔を会わせることを考えれば尚更である。


「遥日は青葉に見とれるくらいだから、私のことなんてすぐに忘れてしまいそうだわ」


 不思議そうな顔をする遥日を見つめて迦月は言い放った。その言葉に含まれているのは明らかなる"からかい"である。さすがに、それに気付かない遥日ではなかった。いくら、鈍いやら、ぼんやりしている所が多いと言われていても、ここまで真直ぐに放たれたものには気付く。

 一瞬で顔に火がついたように、血が集まり、赤くなる。迦月はそれを面白そうに見ていた。


「忘れたりなどしません。綺麗な名前ですもの」


 赤い頬のまま迦月を強く見つめる。このような顔を見目麗しい彼女に見られることは恥ずかしかったけれど、それ以上に頭にきていた。簡単に言ってしまえば、遥日は負けん気が強いやんちゃな性質たちを直さないまま大きくなった娘であった。

 良くも悪くも真直ぐで、母親が頭を悩ませるくらい、男気にあふれる性格だったのだ。つまり理想の姫君とは程遠い。

 だからこそ、迦月の顔に一瞬浮んだ寂しさが遥日の目に留まることはなかった。


「――どうかしら?忘れない事を祈っているわ」


 ふわりと含み笑いを存分に組み入れつつ迦月は言った。

 その言葉の意味を遥日が、いつ身に沁みて考えることになるか。それは誰も、天に浮ぶお天道様さえも、知らぬことであった。


予定通りに投稿。

次回は2/6に予定しています。


お気に入り登録、評価、閲覧、どれもありがとうございます。

自分の文章を読んでいただけるだけで嬉しいです。

これからもよろしくお願いします。


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