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双月の恋  作者: 藤之恵多
暁の章
2/6

――遠い昔、まだ髪が肩に掛かるくらいだった頃、交わした約束がある。

 あれは橘の木が匂い立つような季節だった。どことも知れない場所に遥日はいた。

 えーん、えーん、と泣いているのは自分だ。転んで膝を打ったのか、一人であることが寂しかったのかは覚えていない。どんな理由にせよ泣いていたという事実だけが遥日の頭の中には残っていた。


『どうした?なぜ、泣いている』


 そして泣き通しの自分を慰めるのも、いつも同じ人物だった。

 名前は分からない。ただ男の子だということは分かる。両脇に髪を結ったみずらの髪型は利発そうなその子の顔立ちにとても似合っていて、時が過ぎるごとに掠れていく記憶の中で一際印象が強い。

 どこかも分からぬ場所で、見たことも無いほど見目麗しい相手に慰められるのだ。

 貴族の姫として平々凡々な暮らしをして来た遥日が覚えておくには充分な記憶だろう。


『__、帰る場所がわからないの』


 薄く靄のかかった記憶の中で、遥日はその男の子の名前を呼ぶ。今は一欠けらも思い出せないというのに、呼んでいるということだけは忘れられない。

 とても綺麗な、さやかな名前であったのも覚えている。なぜなら遥日はその名前を口にすることが大好きだったから。まるで呪いのようにその名を口にしていた。

(そんなに好きだったのに、なぜ忘れてしまったんだろう)

 ぼんやりと泣く自分とそれを慰める自分を見ながら遥日は思う。

 あれほど口にした名前を、あれほど呼んだ名前を自分は忘れてしまった。幼き時の記憶は薄れていくものと相場は決まっている。ましてや遥日はあれ以来、件の男の子と会ったことがないのだから。当然といえば当然である。

 だが遥日は忘れてしまったことを酷く悔いていた――それはこの後に続く約束のためだ。


『まだ庭に詳しくないから余り出歩かないようにと言われていたではないか』


 呆れたような口調で男の子が言う。そうだ、この時はこの子の家に来ていたのだ。大きな家で門から家までの間に自分の家など入ってしまうのではないかと遥日は感じたものだ。


『だって、子猫が走っていくのが見えたんだもの』


 真白い子猫が掛けていったのを幼い遥日は目ざとく見つけて、庭へと下りてきたのだ。小さい頃から、やんちゃだったのだ。

 子供らしい屁理屈を口にする遥日に彼は呆れたように目を細めていた。だけれどその瞳には優しさが燈っていて、遥日はそれを知っていた。


『それで遥日自身が迷い猫になっているのだ。私が見つけなかったら、どうする?』

『__は絶対見つけてくれるもん!』

『大した自信だ。けれど、それでは私が面倒くさいだろう』


 ふうと溜息を吐く。今思えば随分と大人びた子供だった。身長も僅かに男の子の方が高いようだし、もしかしたらいくつか年上だったのかもしれない。


『ならば、約束をしようか。遥日』

『やくそく?』

『そうだ。大きくなって、私がお前を見つけたら、ずっと一緒にいる。こうすれば探す必要はなくなるだろう?』


 するか?と差し出され手を自分はどうしたのだろう。いつもこの記憶はここで途切れるため遥日は事の顛末を知らないのだ。

 だから頭に残っているのは差し出された手の白さとその時の優しい顔だけ。

 それしかない。それしかなくとも遥日には充分だった。きっと単純な自分のことだから、嬉々としてその手をとったことは分かっている。約束を交わすのが嬉しくて、何だかんだで探しに来てくれる彼が嬉しくて、満面の笑みで約束をしたのだろう。

 記憶の中の二人はいつまでも綺麗で美しい。

 再生の終わった場面を見ながら、遥日はそんなことを思っていた。




「七図家、到着でございます!」


 がたんと少々大きく牛車が揺れた。

 その揺れと外から聞こえてくる喧騒に遥日の頭は急激に現実へと覚醒する。どうやら寝ていたようだ。

 格子の隙間から見える景色は見慣れたものから一際華やかなものへと変化していた。綺麗に整備された道はとてもなだらかで揺れが少なく、自分の家の前の道とは大違いであることを遥日は体感した。

 今の揺れは門を越えたことによるものであるから、七図家の敷地に入ったと考えていいのだろう。

 どれくらい寝ていたかはわからないが、丁度良かったといえば丁度良かった。

 それにしても――遥日は僅かに瞳を伏せる。懐かしい夢だった。まだ父がいて様々な人々と交流のあった時期のことである。あんなに大きな庭も、高級そうな服も大路家にはないものである。少し考えれば、自分の家とは違う何処か位の高い貴族の家にいたことはわかる。

 何せ子供が走って迷子になる場所である。そんな大きな敷地をもつ家は今自分がいる七図家のような殿上人と交流の深い家柄か、遠くから見たことしかない帝の住まい、内裏しかないだろう。


「大路家の一の姫さまです」


 外から声が聞こえる。七図家に遥日の到着を知らせているのだ。

 遥日がここにいるのは月葉、七図家当主夫人の手紙による。綺麗な筆跡で書かれたそれは要約すると"七図家に仕えてくれ"というものだった。上級貴族の家に地下じげの人間が奉公するのはよくあることである。ただそれは元から血縁を辿って話が来ることがほとんどであったし、わざわざ文による名指しで人間を指名することなどほとんどないだろう。

 七図家と繋がりがあったなどトンと聞かない話ではあったが、こういう手紙が来た事に母親はそう驚いた様子を見せずに喜んでいたのを見ると昔に何かあったのかもしれない。もっとも母親は貴族の姫君らしく何事にも鷹揚に反応を示さない人物だったので推測するのも難しい。

 牛車から降り引き連れられるままに歩む。扇で一応顔を隠してはみたが、ここにいるのは遥日よりも身分が高いものの方が多い気がするので無駄な気がした。


「月葉さまの局でございます」

「ありがとうございます」


 自分を連れてきてくれた侍女がすっと身を引いた。

 恐らく、部屋付の者へと預かりが引き渡されたのだろう。遥日は小さくお礼を言うとただ同じように前の人の案内に従うだけだった。


「あなたが大路遥日さん?」


 御簾の向こうにその人はいた――七図月葉、現当主の正室であり、琴の名手としても名高い。またその美貌も輝かんばかりとは都の民にはよく口に出される話であった。

 声を聞いただけでわかる。目の前の人は間違いなく貴婦人だという事が。

 静に波打ち出した鼓動を抑えるようにしつつ遥日は考えていた条文を口に出す。


「はい。七図家の御台様におかれましてはご健在のこと大変よろこばしく思います」


 舌を噛みそうな挨拶だなと遥日は低頭しながらひっそりと辟易した。こういう高貴な人に会う機会などなかったため、こういう挨拶でよいのかもわからなかったが、とりあえず上手く言えただけでよしとしよう。

 そんな遥日の緊張を見て取ったのか、くすりと小さく笑いが漏れ月葉の気配が緩んだのを感じる。頭を上げてくださいとたおやかな声で言われ、遥日はしずしずと頭を上げる。袖が畳とすれて微かな音を出した。


「来てくださったという事はお話を受けて下さるということでよろしいですか?」


 真っ直ぐに投げかけられた言葉は遥日が受け取った文の内容が間違っていなかったことを知らせた。この場所まで来ておきながらも遥日は未だに半信半疑の状態であったのだ。

 ぴくりと驚きに身体が跳ねそうになるのを押し留める。間違いであろうとなかろうと、七図家に仕えられるというのならば幸せなことである。有名な貴族と知り合いになる機会は増えるし、何より後ろ盾がない自分のような存在に七図家という燦々と輝く家名は喉から手が出るほど欲しかった。

――体裁も何もなく受けるべきだ。

 そういう家人が半数だった。最もな意見だと思う。残りの半分は姫様が幸せになってくださるならと嬉しいことを言ってくれた。

 自分の肩に乗っているのは何も自分の人生だけではない。父が死んでしまった今、大路家に残された働き口は主に遥日である。男手はなく、下に続くのは妹たちばかりだ。しかも髪結いの儀も済んでいない、いまだ幼い子達ばかりなのだ。

 七図家で働き、安定した給金がもらえるというのは魅力的な話であった。


「もちろん、お受けいたします。ですが、一つだけお聞きしてよろしいでしょうか?」

「なんでしょう?」

「なぜ、私を選んでくださったのでしょうか」


 遥日がその質問を口に出すと月葉は「まぁ」となぜそのような質問をされるかわからないという声を出した。


「大路家とは昔面識が有りましたし、何より貴女をと望んだのはわたくしの子ですの」

「月葉様の……」


 七図家には二人の子がいる。長男である盛名もりなと長女である朔夜さくやである。どちらも見目麗しい美丈夫と美姫であり、七図の子らしく風雅を尊んだ。特に兄である盛名は短歌と舞に秀で、妹である朔夜は楽器全般が得意で中でも琴と笛は聞かずに死ぬならば蘇っても聞くべきだとまで言われる腕である。

 これくらいのことは調べずにしても耳に入ってくるほど有名なことであり、遥日の耳にも入ってきていた。

 だが遥日にはそのどちらとも面識がなかった。当然、望まれる理由にも心当たりがない。ある日、突然貴族の子息が娘を貰いに現れるのは京に住む民たちの夢みたいなものであるが、そんなに都合が良いことが自分に起こる筈もないと諦めていた。


「ええ。長年、仕えてくれていた人物が止めてしまって新しい人を入れなければ、と言った時に、それならば是非、と私と主人に申し立てたのですわ」


 ころころと笑う月葉は子供を二人も設けている年齢を感じさせない。

 まさか、と遥日は目を見開き驚きに開いた口を袖で隠す。


「本当です。信じられないなら自分で聞いてみなさい」


 そんな遥日の様子がおかしいのか月葉はふんわりと笑うと手に持っていた扇子をぱちんと閉めた。

 同時に侍女の影が月葉に近寄る。何か問題でも起こったのだろうかと遥日が考えるのを遮るようにその声は鮮やかに入ってきた。


「――お母様、よろしいですか?」


凛とした声だと遥日は耳に響く音に対して印象を持った。柔らかな高音が耳に優しく、それでいて張り詰めた弦から紡ぎ出されたかのような針のある声だった。

 御簾の向こう側に人影が一つ増える。女性だとすぐにわかった。だとしたら先ほどの声は月葉の娘である朔夜姫のものに違いない。


「あら、早かったのね。それほど自分の元に来る人のことが気になったのかしら?」


 楽しそうに月葉が笑う。

 声の持ち主はそのからかいの言葉に少しだけ身じろぎをしたかと思うとすぐに諦めたように体の力を抜き、月葉の隣へと移動した。

 部屋の中の空気が動き、優しい香りが鼻をくすぐる。梅花の香りのような気もしたが余り香に明るくない遥日には断定することができない。しかし嫌いな香でないことは確かで、何より月葉の言葉に遥日は思わずその人影へと視線を向けてしまった。

(見られてる……?)

 不躾に近い視線を向けてしまった思いはあったので、すぐに逸らそうと思っていたのだが意に反してじっと見てしまう。それは御簾の向こうからでもわかる視線が自分に向けられていて、遥日も視線が合ってしまったことに気付いたからである。


「そんなことは……ただ、この可愛い人がそうなのかなと思っただけですわ」


 すいと視線による圧力がなくなったのを感じる。先程より少し幼さが見える声だった。


「それは気になったということじゃなくて?」

「お母様は意地悪ですのね」


 拗ねたような声はこの母子間の仲が良いことを感じさせる。しばし続いた会話を遥日はただぼんやりとした頭で聞いていた。

 その間にもちらちらと御簾越しに見える朔夜の姿は深窓の姫君というに相応しいものだった。すらりとした肢体と女性にしては高い身長が一層華やかに雰囲気を見せている。それでいてこの芯の通った甘い声に楽を奏でる腕とくれば、何処に出すにも恥ずかしくない姫様だろう。

 聞きかじった事情を鑑みるとどうやら遥日が仕える事になるのは朔夜のようで、ここまで完璧な姫様に自分が仕えると考えると少々不安が募ってしまった。


「お母様。そういえばいい加減、この邪魔な御簾を上げてくれませんの?」

「ああ、それもそうね」


 どうせ今から顔を突き合わせて生活するんだしね、とあっけらかんに言うと月葉は側にいた者に命じて御簾を上げさせた。

 遥日が話を受けるまでは顔を見せるわけにはいかなかったのだろう。何となく恐れ多い気がして遥日は反射的に顔を伏せてしまっていた。その姿は遥日がこの部屋に入ってきたばかりの時を思い出させる。

――シャッ

 手早く御簾が纏められる。遥日はそれを音だけで知った。

 床に顔を向けている遥日の視界に鮮やかな生地が映りこむ。細やかに織り込まれた文様に鮮やかな染め、使われた布地も最高級のものなのだろう。遥日がお目にかかったことのない程、素晴らしく煌びやかな裾野であった。


「なぜ、顔を伏せるの?」


 さっきも嗅いだ香りが濃く感じられた。僅かに暗くなった視界は目の前に人が立っているせいだ。そしてその人とは朔夜以外いない。

 聞こえた声は思ったよりも更に近く、まるで耳元で囁かれているような気分になる。不思議な声だ、と遥日はこの部屋に入って何回目か分からない漠然とした感想を抱く。


「恐れ多いからでございます」

「今日から、ずっと見ないといけない顔なのだから、普通に見て欲しいわ」


 素直に答えた遥日に朔夜は困ったような吐息を漏らし、遥日の前に膝をついた。

 黒髪が、烏の濡れ羽色というに相応しい光沢と艶のある、それでいてさらさらと流れる美しい髪が床に広がる。その一部が手に触れそうなほど近くに見え、遥日は思わず触れそうになった自分の手を律する。

 いきなり、高貴な人の髪に触れるなど不敬すぎる。今から自分が仕える人であるのだからその気持ちは緊張も含んで更に大きくなった。


「ね、遥日。顔を挙げて?」

「……はい」


 気付かれないように大きく息を吸う。何度か繰り返したが大きくなった鼓動は収まりそうになかった。

 優しく、それでいて拒否を許さない声に導かれゆっくりと顔を挙げる。

(ひゃ)

 漏れそうになった悲鳴を飲み込む。目の前には七図家長女にして、美姫と名高い朔夜姫の華のかんばせがあった。

――眉にかかるほどで切りそろえられた前髪から覗く黒曜石のような瞳。

――優美な線を描く眉山。

――抜けるような白さでありながら、薄らと色づく頬。

 まさに麗しい美貌がそこにはあった。

 "月からお出でのかぐや姫"

 朔夜に関する、彼女の容姿を褒め称える言葉の中にそんなものがあったことを遥日は思い出す。物語に描かれる姫君になぞられるとは一体どんな人なのだろうとその時は思ったものだが、これならば納得である。

 その日、遥日は紛うことなき"月の姫君"に出会った。


とりあえず、今日はここまでです。

次回投稿予定は1/30

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