鏡の向こう側
第一章 茶色い瞳
「和美の目って、茶色いよね」
放課後の教室で、窓際の席に座っていた紗英が何気なく言った。夕日が差し込む中、彼女は私の顔を覗き込むようにして、まるで珍しいものを見つけたかのような表情を浮かべていた。
「──そう……なの?」
私は思わず聞き返した。紗英の言葉が、まるで外国語のように耳に届いた。
高校二年の秋。私はそれまでの十七年間、自分の目の色について一度も考えたことがなかった。日本人なら皆、同じような黒い瞳をしているものだと、漠然と思い込んでいた。
「うん。光に当たると特に分かるよ。ほら」
紗英は私の肩を掴んで窓の方へ向かせた。斜めから差し込む秋の陽光が、私の顔を照らす。
その日の帰り道、私はコンビニのトイレで初めて自分の目をまじまじと見つめた。確かに、紗英の言う通りだった。光の加減で、瞳が茶色く見える。
なぜ今まで気づかなかったのだろう。
鏡に映る自分の顔が、急に見知らぬ人のように思えた。
*
「和美、あんたの足首太すぎよ!足首がない!」
「……えっ?」
大学二年の夏休み、実家に帰省した時のことだった。久しぶりに会った両親と居間でテレビを見ていると、母が突然そう叫んだ。父も頷いている。
「本当だな。象の足みたいだ」
「ちょっと、ひどいこと言わないでよ」
私は慌ててジーンズの裾をめくり、自分の足首を見下ろした。
確かに、テレビに映るタレントの華奢な足首と比べると、私のそれは……太い。くびれがほとんどない。ふくらはぎから足首にかけて、ほぼ同じ太さで続いている。
「気づいてなかったの?」母が不思議そうに首を傾げた。
「うん……」
それまで私は、足首の太さなんて気にしたことがなかった。というより、他人の足首をまじまじと観察したこともなかった。
その夜、私は部屋で一人、鏡の前に座って自分の足を見つめた。裸足になって、いろいろな角度から確認する。
どう見ても、太い。
ネットで「足首 太い 改善」と検索した。マッサージやストレッチの方法がたくさん出てきた。むくみが原因の場合もあるらしい。でも、私の場合は骨格の問題かもしれないと思った。
またひとつ、自分について知らなかったことを知った。
*
「山本さんの手の小指、短すぎ!そんなに短いことってあります⁉」
「……ええっ⁉」
社会人一年目の春。入社して二週間ほど経った頃、隣の席の同期、田中さんが私の手を見て叫んだ。
オフィスの何人かが振り返る。私は慌てて自分の両手を見比べた。
言われてみれば、確かに小指が短い。薬指の第一関節あたりまでしかない。右手も左手も同じだ。
「ずっとそうだったの?」田中さんが目を丸くして聞く。
「多分……というか、気づいてなかった」
昼休み、私はスマホで「小指 短い」と検索した。
『短指症』
そういう症状があるらしい。遺伝的なもので、特に健康上の問題はないと書いてあった。でも、私の両親の小指は普通の長さだった気がする。
会議室のガラスに映る自分の手を見つめた。ペンを持つ手。キーボードを打つ手。二十三年間、毎日使ってきた手。
なのに、その形を正確に把握していなかった。
*
「──お前、音痴だな」
実家に帰省した時、父にカラオケに誘われた。家族で久しぶりに行ったカラオケボックス。私が一曲歌い終わると、父がぽつりと言った。
「え……?」
私は割と歌には自信があった。学生時代、友達とカラオケに行っても、特に何も言われたことはなかった。採点機能でも、いつも七十点台は出ていた。
「いや、悪くはないんだけど、音程が微妙にずれてるんだよ。本人は気づいてないんだろうけど」
母も申し訳なさそうに頷いた。
「そうね。和美は昔から、リズム感もちょっと……」
その言葉が、胸に刺さった。
家に帰ってから、録音アプリで自分の歌声を録音してみた。再生して聴く。
……確かに、何かが変だ。音程が微妙にふらついている。リズムも、ところどころずれている。
でも、歌っている最中は全く気づかなかった。むしろ、上手く歌えている気がしていた。
自分の耳には、自分の声がどう聞こえているのだろう。
*
「和美って、いつも同じ話を何度もするよね」
二十五歳の秋、大学時代の友人、恵美とランチをしていた時だった。
「え……そうなの?」
「うん。この前も、高校の時の文化祭の話、三回くらい聞いたよ」
恵美は笑いながら言ったが、私は凍りついた。
「ごめん、気づかなくて……」
「別にいいんだけどね。でも、本人は覚えてないんだろうなって」
それまで私は、同じ話を繰り返していることに全く気づいていなかった。
自分では、初めて話すような気持ちで毎回話していた。相手の反応も、特に違和感を感じたことはなかった。みんな、優しくて何も言わなかっただけなのかもしれない。
*
そんな風に、私の人生は指摘されて気づくことの連続だった。
二十六歳になった今、私は自分という存在が、どれほど自分自身から遠いところにあるのかを思い知らされている。
人は、……というか私は、自らを客観視することがなかなかできないものらしい。
鏡に映る姿は見える。でも、それは表面だけだ。自分の声の響き方、歩き方の癖、話し方の特徴。他人から見た自分の印象。
きっと、まだ気づいていないことがたくさんある。
他人は気づいているけれど、誰も教えてくれないこと。あるいは、誰も気にしていないけれど、私だけが知らないこと。
──今の私は、それが怖い。
怖いのは、新しい欠点を知ることではない。
怖いのは、自分という人間が、実は自分が思っているような人間ではないかもしれないということ。
私が「私」だと思っている人間は、本当に私なのだろうか。
第二章 見えない欠陥
転機は、二十六歳の誕生日の二週間後に訪れた。
新しいプロジェクトチームに配属されたのだ。リーダーは三十代半ばの女性、桐谷さん。評判では優秀だが厳しい人らしい。
「山本さん、ちょっといいかな」
配属されて三日目の夕方、桐谷さんに呼び止められた。
「はい」
「今日のミーティングでの発言なんだけど」
私の胸が、きゅっと締め付けられた。何か間違ったことを言っただろうか。
「山本さん、他の人が話している時に、よく遮るよね」
「……え?」
「自分では気づいてないかもしれないけど、相手の話が終わる前に自分の意見を言い始めることが多いの。今日だけでも、三回あった」
桐谷さんの表情は厳しくはなかったが、真剣だった。
「そんな……つもりは……」
言葉が出てこない。全く自覚がなかった。
「悪気はないんだと思う。でも、チームワークを大切にするなら、改善した方がいい。これは、あなたのためを思って言ってるの」
その夜、私は眠れなかった。
布団の中で、今日のミーティングを思い返す。でも、自分が誰かの話を遮った記憶がない。むしろ、活発に意見交換をしていたつもりだった。
翌日から、私は自分の言動を意識するようになった。誰かが話している時、口を開きそうになったら、一呼吸置く。相手が完全に話し終わるまで待つ。
すると、気づいた。
確かに私は、相手の話の途中で自分の考えを述べたくなる衝動が強いのだ。相手の言いたいことが分かった気がした瞬間に、もう口が動き始めている。
これまでの人生で、何度そうしてきたのだろう。
何人の人を、不快にさせてきたのだろう。
*
「ねえ、和美」
週末、久しぶりに紗英と会った。高校以来の親友。今は別の会社で働いているが、月に一度は会うようにしている。
「何?」
「最近、様子がおかしいけど、何かあった?」
カフェのテーブルを挟んで、紗英が心配そうに私を見つめていた。
「そんなことない……よ」
「嘘。和美が嘘つく時、目が泳ぐの、私知ってるから」
私は観念して、最近気づいた自分の欠点について話した。茶色い瞳のこと。太い足首のこと。短い小指のこと。人の話を遮る癖のこと。
「それで、怖くなっちゃって。まだ気づいてないことが、きっとたくさんあるんじゃないかって」
紗英は黙って聞いていたが、私が話し終えると、ゆっくりとコーヒーカップを置いた。
「和美、それって……普通のことじゃない?」
「え?」
「誰だって、自分のこと完璧には分かってないよ。というか、完璧に分かってる人なんていないと思う」
「でも……」
「私だって、大学の時、友達に『紗英って、緊張すると早口になるよね』って言われて初めて気づいたし。あと、笑う時に目が完全に閉じちゃうことも、写真見るまで知らなかった」
紗英は笑った。でも、私の不安は消えなかった。
「そういうことじゃなくて……私、自分が思ってる自分と、他人から見た自分が、全然違うんじゃないかって怖いの」
「それは、みんなそうだよ」
「でも──」
私は言葉に詰まった。何を恐れているのか、うまく説明できない。
紗英は少し考えてから、優しく言った。
「和美は、完璧主義なんだよ。自分の欠点を許せないんでしょ」
その言葉が、胸に突き刺さった。
*
翌週、私は思い切って、信頼できる同僚の佐藤さんに相談してみることにした。
「佐藤さん、ちょっと聞いてもいいですか」
ランチの後、二人だけになった時に切り出した。
「どうしたの?」
「私の……欠点って、何だと思いますか」
佐藤さんは少し驚いた顔をしたが、真剣に考えてくれた。
「突然だね。何かあった?」
「いえ、ただ……自分では気づかない部分があるんじゃないかと思って」
「そうだなあ……」
佐藤さんは少し考えてから、言った。
「山本さんは、真面目すぎるところがあるかな。もうちょっと、肩の力を抜いてもいいと思う」
「真面目すぎる……」
「あと、たまに、表情が硬いかも。特に、集中している時」
また新しい発見だった。自分では、普通の表情をしているつもりだった。
「ありがとうございます」
「でも、それって欠点というより、個性だと思うけどな」
佐藤さんは笑顔でそう言ったが、私の心は重くなるばかりだった。
*
その夜、私は鏡の前に座り、自分の顔をじっと見つめた。
茶色い瞳。言われるまで気づかなかった瞳。
表情の硬い顔。自分では意識していなかった顔。
鏡の中の女性は、本当に私なのだろうか。
私が「私」だと思っている人間と、この鏡に映る人間は、同じ存在なのだろうか。
ふと、恐ろしい考えが頭をよぎった。
もし、私が想像する「理想の私」が存在しないとしたら。
もし、他人が見ている「本当の私」が、私の知らない、醜い存在だとしたら。
私は、一体誰なのだろう。
鏡に向かって、小さく問いかけた。
「私は……誰?」
もちろん、答えは返ってこなかった。
第三章 救いの言葉
ある日の夜、ベッドに横になりながらスマホを眺めていた。
SNSのタイムラインを何気なくスクロールしていると、ある記事が目に留まった。
憧れの俳優、柊木涼のインタビュー記事だった。
柊木涼は、三十代半ばの実力派俳優。デビュー当初は脇役ばかりだったが、独特の存在感で徐々に頭角を現し、今では主演を務めるまでになった人だ。
私は彼の演技が好きだった。どこか不器用で、でも誠実な役を演じさせたら右に出る者はいない。
記事のタイトルは「柊木涼が語る、俳優としての哲学」。
何気なくタップして、読み始めた。
『──デビュー当時は、自分の欠点ばかりが気になったと聞きましたが』
『ええ。声が低すぎる、滑舌が悪い、顔が地味。そんなことばかり言われました。オーディションに落ちるたびに、自分は俳優に向いていないんじゃないかって悩みました』
『それをどう乗り越えたんですか』
『ある監督に言われたんです。「お前の欠点は全部、個性になる。それをどう生かすか。それを常に考えろ」って』
私の指が、画面の上で止まった。
『欠点も個性になる。それをどう生かすか。それを常に考えていますね』
柊木涼のその言葉が、スマホの画面から私の胸に流れ込んできた。
『低い声は、重厚感になる。滑舌の悪さは、不器用な人間らしさになる。地味な顔は、どんな役にも染まれる強みになる。欠点って、見方を変えれば全部、武器なんですよ』
──欠点も個性。
なんだか救われた気持ちがした。
私は記事を最後まで読み、そっとスマホを胸に置いた。天井を見つめながら、考える。
茶色い瞳は、珍しい特徴。
太い足首は、安定感がある証拠。
短い小指は、私だけの個性。
音痴なのは……これは、まあ、人前で歌わなければいい。
同じ話を繰り返すのは、記憶力の問題かもしれないけれど、それだけその出来事が印象的だったということ。
人の話を遮るのは……これは直した方がいいけれど、それは意見を言いたいという積極性の表れでもある。
全部、見方を変えれば。
私は深く息を吸い込んだ。少しだけ、心が軽くなった気がした。
*
翌朝、出勤前に鏡を見た時、いつもと違う感覚があった。
茶色い瞳が、少しだけ綺麗に見えた気がした。
会社に着くと、桐谷さんに呼ばれた。
「山本さん、最近意識して変えてくれてるよね。人の話を最後まで聞くようになった」
「あ、はい……気をつけています」
「いいことだと思う。でもね」
桐谷さんは微笑んだ。
「あなたの、思ったことをすぐに言いたくなる性質。それ自体は悪いことじゃないの。タイミングと方法を変えれば、チームにとって貴重な意見になる」
「え……」
「会議で黙ってる人が多い中、あなたみたいに積極的に意見を言える人は必要なの。ただ、相手の話を聞く姿勢も同時に持てば、もっと良くなるって話」
欠点も個性になる。
柊木涼の言葉が、頭の中で響いた。
「ありがとうございます」
私は、心からそう言った。
*
その日の夜、私は紗英に電話した。
「もしもし?どうしたの、こんな時間に」
「ねえ、紗英。この前、私が悩んでるって話したじゃん」
「うん」
「なんか、少し吹っ切れた気がする」
「本当?良かった」
紗英の声が、嬉しそうに弾んだ。
「あのね、考えたんだ。私が気づいてない欠点って、きっとまだたくさんあると思う」
「うん」
「でも、それって怖いことじゃないのかもって」
「というと?」
「欠点を知るっていうことは、自分を知るっていうことで。自分を知れば、それをどう生かすか考えられる。欠点も、使い方次第で個性になるんだって」
受話器の向こうで、紗英が少し黙った。そして、優しく言った。
「和美、成長したね」
「そうかな」
「うん。前の和美だったら、そんな風には考えられなかったと思う」
電話を切った後、私は窓の外を見た。
夜の街に、たくさんの明かりが灯っている。一つ一つの窓の向こうに、それぞれの人生がある。
きっと、みんな自分の欠点と向き合いながら生きているんだろう。
完璧な人間なんて、どこにもいない。
私も、完璧じゃなくていい。
欠点があって、それでも前に進んでいければ、それでいい。
*
でも、その安堵は長くは続かなかった。
翌週の金曜日、私の世界は再び揺らぎ始めた。
「山本さん、ちょっといい?」
同じチームの後輩、井上君が、おずおずと声をかけてきた。入社二年目の、大人しい青年だ。
「どうしたの?」
「あの……言いにくいんですけど」
井上君は困ったような顔をしている。
「何?」
「山本さんって、たまに……人のこと、見下してるように見える時があるんです」
その言葉に、私は凍りついた。
「え……?」
「悪気はないんだと思うんです。でも、アドバイスとかする時に、上から目線というか……。僕だけじゃなくて、他の後輩も何人か、そう感じてるみたいで」
見下している。
上から目線。
そんなつもりは、一度もなかった。
私はただ、良かれと思ってアドバイスをしていただけだった。後輩の成長を願って、自分の経験を共有していただけだった。
なのに。
「ごめん……全然気づかなくて」
「いえ、こちらこそ、言い方が悪かったかもしれません。でも、知っておいてほしくて」
井上君はそう言って、小さく頭を下げて去っていった。
私は自分のデスクに座ったまま、動けなくなった。
欠点も個性になる。
そう思い始めていた矢先に、また新しい欠点を突きつけられた。
しかも、今度のは深刻だ。人を傷つけている。しかも、無自覚に。
その夜、私は一人で居酒屋に入った。カウンター席に座り、ビールを注文する。
グラスを傾けながら、考える。
見下している。
私の何が、そう見えるのだろう。
言い方?表情?態度?
自分では、まったく分からない。
カウンター越しに見える鏡に、自分の顔が映っている。
疲れた顔。少し目が虚ろな顔。
この顔の持ち主が、人を見下しているように見えるなんて。
「お客さん、大丈夫?」
店主が心配そうに声をかけてきた。
「あ、はい。大丈夫です」
私は作り笑いを浮かべた。
でも、大丈夫じゃなかった。
欠点を個性に変えられると思った。でも、人を傷つける欠点を、どうやって個性に変えればいいのだろう。
グラスの中のビールが、涙でにじんで見えた。
*
週末、私は実家に帰った。
久しぶりに両親と食卓を囲む。
「和美、最近元気ないわね」
母が心配そうに言った。
「そんなことないよ」
「嘘おっしゃい。お母さんには分かるの」
父も、新聞から顔を上げて私を見た。
「仕事で何かあったのか?」
私は少し迷ったが、正直に話すことにした。
自分が気づかない欠点がたくさんあること。それが怖いこと。でも、欠点も個性になると思えるようになってきたこと。
そして、人を見下しているように見えると言われたこと。
「それで、どうしたらいいか分からなくて……」
話し終えると、両親は顔を見合わせた。
「和美」
母が優しく言った。
「あなたね、昔からそうなのよ」
「え?」
「真面目すぎて、完璧を求めすぎて、それで自分を追い詰めちゃうの」
父も頷いた。
「お前の欠点はな、欠点を許せないことだよ」
その言葉が、胸に響いた。
「完璧な人間なんていない。みんな、欠点を抱えながら生きてるんだ。大事なのは、欠点に気づいて、それと付き合っていくことだろう」
「でも……人を傷つけてるなら」
「傷つけたなら、謝ればいい。そして、直す努力をすればいい。でも、自分を責めすぎるな」
母が私の手を握った。
「和美は優しい子よ。ただ、その優しさが、時々空回りしちゃうだけ。それも、あなたらしさなの」
涙が溢れそうになった。
でも、まだ完全には納得できなかった。
「私……自分が分からないの。本当の自分が、どんな人間なのか」
すると、父が笑った。
「当たり前だ。自分のことなんて、誰も完璧には分からない。一生かけて、少しずつ知っていくものなんだよ」
第四章 他人という鏡
実家から帰った翌週、私は意を決して井上君に声をかけた。
「井上君、この前の話なんだけど」
昼休み、社員食堂の隅の席で、二人きりになった時に切り出した。
「はい」
「具体的に、私のどういうところが、見下してるように見えたのか教えてもらえない?」
井上君は少し驚いた顔をしたが、真剣に考えてくれた。
「えっと……例えば、アドバイスする時に『普通は』とか『常識的に考えれば』とか、そういう言葉をよく使うんです」
「『普通は』……」
「はい。それを言われると、僕が普通じゃないみたいに感じちゃって」
言われてみれば、確かに使っていた気がする。
「あと、アドバイスの最後に『分かった?』って確認するじゃないですか」
「うん」
「あれも、ちょっと……子供扱いされてるみたいで」
私は目を閉じた。全部、無意識だった。良かれと思ってやっていたことが、相手を傷つけていた。
「ごめん。本当に気づかなかった。でも、教えてくれてありがとう」
「いえ……」
「これから気をつける。また気になることがあったら、教えてね」
井上君は少しほっとしたような顔で頷いた。
「山本さん、悪い人じゃないって、みんな分かってますから」
その言葉が、少しだけ救いになった。
*
その日から、私は自分の言葉遣いに敏感になった。
「普通は」「常識的に」という言葉を使いそうになったら、別の言い方に変える。「私の経験では」「私はこう思うんだけど」というように。
「分かった?」ではなく「何か質問ある?」と聞くようにする。
最初は意識しないとできなかったが、徐々に慣れてきた。
そして、気づいた。
言葉を変えると、後輩との関係も変わっていく。井上君だけでなく、他の後輩たちも、以前より気軽に話しかけてくれるようになった。
「山本さん、これ教えてもらえますか?」
「山本さん、相談があるんですけど」
以前より、明らかに距離が近くなった気がした。
ある日、佐藤さんが言った。
「山本さん、最近雰囲気変わったよね。柔らかくなった」
「そうですか?」
「うん。前は、なんていうか……ちょっと近寄りがたい感じがあったけど、今は話しやすい」
近寄りがたい。
また新しい発見だった。でも、今回は落ち込まなかった。
むしろ、変われたことが嬉しかった。
*
週末、私は紗英と久しぶりに買い物に出かけた。
デパートの洋服売り場で、紗英が一着のワンピースを手に取った。
「これ、和美に似合いそう」
淡いベージュのワンピース。シンプルだけど、上品なデザイン。
「そうかな?」
「試着してみなよ」
試着室で着替えて、鏡の前に立つ。
確かに、似合っている気がした。
「どう?」
試着室から出ると、紗英が待っていた。
「いいじゃん!すごく似合ってる」
「本当?」
「うん。和美、もっと自分に自信持った方がいいよ」
私は鏡をもう一度見た。
鏡に映る女性は、少し前の私とは違って見えた。
表情が、柔らかくなっている気がした。
「ねえ、紗英」
「ん?」
「私ね、最近思うんだ。自分のことって、他人を通してしか分からないんだなって」
紗英は少し考えてから、頷いた。
「確かにね。私たちって、他人という鏡を見て、自分を知っていくのかもね」
「他人という鏡……」
その表現が、しっくりきた。
「でもさ、鏡って、一つじゃないんだよ」
「え?」
「いろんな人が、いろんな角度から和美を見てる。ある人から見たら欠点に見えることが、別の人から見たら長所に見えたりする」
紗英は私の肩に手を置いた。
「だから、一つの意見に縛られすぎないで。いろんな鏡を見て、その中から本当の自分を見つけていけばいいんだよ」
私は深く頷いた。
「ありがとう」
「何が?」
「いつも、私を見ていてくれて」
紗英は笑った。
「当たり前じゃん。親友なんだから」
*
そのワンピースを購入して、二人でカフェに入った。
窓際の席に座り、紗英はカフェラテを、私はアイスティーを注文した。
「そういえば、和美の茶色い瞳の話、覚えてる?」
紗英が急に言った。
「うん、もちろん」
「あの時、私すごく羨ましかったんだよ」
「え?」
「だって、綺麗じゃん。私の目なんて、真っ黒でつまんないもん」
私は驚いた。
「そんなこと思ってたの?」
「うん。でも、和美は自分の目のこと、気にしてなかったでしょ?」
「うん……」
「それってさ、幸せなことだと思うんだよね。気にしなくていいことを、わざわざ気にして悩む必要ないじゃん」
紗英の言葉に、はっとした。
「確かに……」
「でもまあ、知ることも大事だけどね。バランスが難しいよね」
私たちは顔を見合わせて笑った。
「ねえ、紗英は自分のこと、どれくらい分かってると思う?」
私が聞くと、紗英は少し考えた。
「うーん……五割?いや、三割くらいかな」
「少なくない?」
「だって、毎日新しい自分を発見するもん。昨日まで気づかなかった癖とか、考え方とか」
「じゃあ、完璧に自分を知ることなんて──」
「無理だと思う」
紗英はきっぱりと言った。
「でもね、それでいいんだよ。完璧に自分を知らなくても、人は生きていける」
窓の外を見ると、たくさんの人が行き交っている。
みんな、自分のことを完璧には分かっていないまま、それでも前を向いて歩いている。
「和美、最近変わったよね」
「え?」
「前より、表情が豊かになった気がする」
また新しい発見だった。でも、今回は素直に嬉しかった。
*
その夜、家に帰ってから、私はノートを開いた。
そして、タイトルを書いた。
『私について知ったこと』
その下に、これまで指摘されてきたことを書き出していく。
・目が茶色い(紗英より)
・足首が太い(両親より)
・小指が短い(田中さんより)
・音痴(父より)
・同じ話を繰り返す(恵美より)
・人の話を遮る(桐谷さんより)
・表情が硬い(佐藤さんより)
・見下しているように見える(井上君より)
・近寄りがたい(佐藤さんより)
・真面目すぎる(両親、紗英より)
そして、その隣に新しいページを作った。
『私の長所だと思うこと』
最初は何も書けなかった。でも、少し考えて、書き始めた。
・茶色い瞳は綺麗(紗英の言葉)
・積極的に意見を言える(桐谷さんの言葉)
・真面目(父の言葉)
・優しい(母の言葉)
・変わろうと努力できる(自分で思う)
書きながら、気づいた。
欠点と長所は、表裏一体なのかもしれない。
真面目すぎるというのは、裏を返せば誠実だということ。
人の話を遮るというのは、積極的だということ。
近寄りがたいというのは、凛としているということかもしれない。
全ては、見方次第。
*
翌日、会社で桐谷さんに呼ばれた。
「山本さん、新しいプロジェクトのサブリーダー、やってみない?」
「え……私がですか?」
「うん。最近、すごく成長してると思う。後輩との関係も良くなってるし、意見も的確。期待してる」
サブリーダー。
数ヶ月前の私なら、きっと自信がなくて断っていたと思う。
でも、今の私は違った。
「やらせてください」
「よし。期待してるよ」
桐谷さんは満足そうに頷いた。
デスクに戻る途中、ガラスに映る自分の姿が目に入った。
少し、背筋が伸びている気がした。
表情も、以前より明るい。
これが、今の私。
完璧ではない。欠点もたくさんある。まだ気づいていないこともたくさんあるだろう。
でも、それでいい。
私は、少しずつ自分を知っていけばいい。
他人という鏡を通して、一つずつ、自分の姿を確認していけばいい。
そして、欠点に気づいたら、それをどう生かすか考えればいい。
欠点も個性になる。
柊木涼の言葉が、また胸に響いた。
*
その週の金曜日、井上君が嬉しそうに話しかけてきた。
「山本さん、聞いてください!」
「どうしたの?」
「さっき、桐谷さんに褒められたんです。最近、仕事の質が上がってるって」
「良かったね」
「これも、山本さんのアドバイスのおかげです。ありがとうございます」
井上君は深く頭を下げた。
私は少し照れくさくなった。
「そんな、私は何も……」
「いえ、山本さんが教え方を変えてくれてから、すごく分かりやすくなって。質問もしやすくなりました」
その言葉が、何より嬉しかった。
欠点を直したことで、誰かの役に立てている。
それは、私が変われた証拠だった。
*
夜、一人でアパートに帰り、鏡の前に座った。
茶色い瞳が、静かに私を見つめている。
「ねえ、あなたは誰?」
もう、怖くない。
鏡の中の人間は、私だ。
完璧じゃない私。欠点だらけの私。でも、少しずつ成長している私。
私は、まだ自分のことを完璧には知らない。
これからも、新しい欠点に気づくだろう。
誰かに指摘されて、傷つくこともあるだろう。
でも、それでいい。
それが、生きるということなのだから。
スマホを取り出し、保存していた柊木涼のインタビュー記事をもう一度読んだ。
『欠点も個性になる。それをどう生かすか。それを常に考えていますね』
画面に映る自分の顔が、少し微笑んでいた。
「そうだね。考え続けよう」
私は、鏡に向かって小さく呟いた。
そして、ノートを開き、新しいページに書いた。
『今日気づいたこと』
井上君の言葉を思い出しながら、ペンを走らせる。
・教え方を変えることで、相手に伝わりやすくなる
・自分の欠点を直す努力は、他人のためにもなる
・変化を恐れなければ、成長できる
書き終えて、満足げにノートを閉じた。
明日も、新しい発見があるかもしれない。
新しい欠点に気づくかもしれない。
でも、それは怖いことじゃない。
それは、自分をもっと知るチャンスなのだから。
第五章 見えてきた輪郭
サブリーダーになって二ヶ月が経った頃、私は新しいチームメンバーとの顔合わせ会議に出席していた。
メンバーは五人。その中に、一人だけ異質な雰囲気を放つ女性がいた。
名前は、藤崎麻衣。私と同い年だが、キャリアは私より長い。前職では大手企業でプロジェクトリーダーを務めていたらしい。
「よろしくお願いします」
会議の最中、藤崎さんは淡々とした口調で自己紹介をした。
その目が、鋭かった。
まるで、全てを見透かすような目。
会議が終わり、メンバーが散っていく中、藤崎さんが私に近づいてきた。
「山本さん、少しいいですか」
「はい」
「率直に聞きます。あなた、自分に自信がないでしょう?」
突然の言葉に、私は言葉を失った。
「え……」
「さっきの会議、ずっと観察してました。発言する前に、必ず周りの反応を伺ってる。自分の意見に確信が持てていない」
図星だった。
サブリーダーになってから、私は常に不安を抱えていた。自分の判断が正しいのか。メンバーに嫌われていないか。
「気づかれてました……か」
「ええ。でも、悪いことじゃないですよ」
藤崎さんは、少し表情を緩めた。
「自信がないからこそ、慎重になれる。周りの意見を聞ける。それは、リーダーとして大切な資質です」
「でも……」
「ただし」
藤崎さんの目が、また鋭くなった。
「自信のなさを、決断の遅さに繋げてはいけない。最終的には、自分を信じて決める。その覚悟が必要です」
その言葉が、胸に突き刺さった。
*
その日から、私は藤崎さんに注目するようになった。
彼女の仕事ぶりは、見事だった。
決断が早い。的確。そして、自分の判断に責任を持っている。
会議でも、臆することなく意見を述べる。たとえ上司が相手でも、間違っていると思えばはっきりと指摘する。
ある日、勇気を出して声をかけた。
「藤崎さん、ランチ一緒にいいですか?」
「ええ、構いませんよ」
社員食堂で向かい合って座る。
「藤崎さんは、どうしてそんなに自信を持って仕事ができるんですか?」
私が聞くと、藤崎さんは少し考えた。
「自信……ですか。正確には、自信があるわけじゃないんですよ」
「え?」
「私も不安です。いつも。自分の判断が正しいか、分からない」
意外な答えだった。
「でも、決断しないことの方が、もっと悪い結果を招く。だから、不安でも決める。そして、その決断に責任を持つ。それだけです」
藤崎さんは、サラダに箸をつけながら続けた。
「山本さんは、完璧を求めすぎているんじゃないですか?」
「……そうかもしれません」
「完璧な判断なんてないんです。どんな選択にも、メリットとデメリットがある。大事なのは、選んだ後、それを最善にする努力をすること」
その言葉が、新しい視点を与えてくれた。
*
週末、私は久しぶりに恵美に会った。
大学時代の友人で、同じ話を繰り返していると指摘してくれた人だ。
「和美、雰囲気変わったね」
カフェで顔を合わせるなり、恵美が言った。
「そう?」
「うん。なんか、落ち着いた感じ。大人っぽくなった」
「ありがとう」
「仕事、順調なの?」
「うん、サブリーダーになって……大変だけど、やりがいはある」
恵美は嬉しそうに笑った。
「良かった。この前会った時、すごく悩んでたもんね」
「あの時は、自分の欠点ばかりが気になっちゃって」
「今は?」
私は少し考えた。
「今も、欠点はたくさんあるし、まだ気づいていないこともあると思う。でも、それが怖くなくなった」
「へえ」
「欠点を知ることは、自分を知ること。そして、どう生かすか考えるチャンスだって」
恵美は感心したように頷いた。
「和美、本当に成長したんだね」
その言葉が、嬉しかった。
第六章 揺れる自我
サブリーダーになって半年が経った頃、プロジェクトは佳境を迎えていた。
納期まで残り一ヶ月。チーム全体に緊張感が漂っている。
そんな中、問題が発生した。
「山本さん、ちょっといいですか」
藤崎さんが、いつになく深刻な顔で近づいてきた。
「どうしたんですか?」
「システムの設計に、重大なミスが見つかりました。このままだと、納期に間に合いません」
血の気が引いた。
設計の最終チェックは、私が担当していた。
「どこですか?」
藤崎さんが示した箇所を見て、私は愕然とした。
確かに、見落としていた。基本的な、しかし致命的なミス。
「すみません……私が、ちゃんとチェックしていれば……」
「今は謝罪より、対策です」
藤崎さんの声は冷静だったが、私の心臓は早鐘のように打っていた。
緊急会議が召集された。
桐谷さんも出席し、険しい表情で状況を聞いている。
「山本さん、説明してください」
「はい……」
私は震える声で、ミスの内容と、考えられる対策を説明した。
でも、頭が真っ白で、うまく言葉が出てこない。
「落ち着いて、山本さん」
桐谷さんが静かに言った。
「深呼吸して。一つずつ、整理して話してください」
私は言われた通り、深呼吸した。
そして、もう一度、ゆっくりと説明し直した。
「分かりました。では、修正案を三日以内にまとめてください。藤崎さん、サポートをお願いします」
「承知しました」
会議が終わり、私は自分のデスクに戻った。
座り込んで、頭を抱える。
やっぱり、私には無理だったんだ。
サブリーダーなんて、荷が重すぎた。
自信を持ち始めていた矢先に、こんな大きなミスをするなんて。
「山本さん」
藤崎さんが隣に座った。
「私、やっぱりサブリーダー向いてないかもしれません」
「なぜそう思うんですか?」
「だって、こんな基本的なミスを……」
「ミスをしない人間なんていませんよ」
藤崎さんは、静かに言った。
「大事なのは、ミスをした後、どう対処するか。そして、同じミスを繰り返さないために何を学ぶか」
「でも……」
「山本さん、あなたはこの半年で本当に成長しました。私、ずっと見てましたから」
藤崎さんの言葉に、少し救われた気がした。
「最初の頃のあなたは、自分に自信がなくて、決断するたびに迷っていた。でも今は違う。ちゃんと、リーダーとしての責任を果たそうとしている」
「でも、今回のミスは……」
「今回のミスは、確かにあなたの責任です。でも、それで全てが終わるわけじゃない。ここから、どう立て直すか。それが問われているんです」
藤崎さんは立ち上がった。
「一緒に、修正案を作りましょう。私も手伝います」
*
その日から、私と藤崎さんは遅くまで残業した。
設計を一から見直し、修正案を練る。
二日目の夜、二人だけのオフィスで、藤崎さんがぽつりと言った。
「実は私も、前の会社で大きなミスをしたことがあるんです」
「え?」
「プロジェクトリーダーとして、重要な判断ミスをした。会社に大きな損害を与えました」
藤崎さんは、パソコンの画面を見つめたまま続けた。
「その時、私は自分を責めて責めて、もう立ち直れないと思いました」
「でも……」
「でも、上司に言われたんです。『ミスから学べない人間は成長しない。お前は、このミスから何を学ぶんだ』って」
藤崎さんは、私の方を向いた。
「それから、私は変わりました。完璧を目指すのではなく、失敗から学ぶことを大切にするようになった」
「藤崎さん……」
「山本さん、あなたは今、同じ岐路に立っています。このミスを、自分を責める理由にするのか。それとも、成長の糧にするのか」
その言葉が、深く胸に響いた。
*
三日目の夜、修正案が完成した。
桐谷さんに提出すると、彼女は時間をかけて目を通した。
「よくまとめましたね。これなら、納期にも間に合いそうです」
「本当ですか?」
「ええ。藤崎さんのサポートも大きかったと思いますが、山本さんの判断も的確でした」
桐谷さんは、優しく微笑んだ。
「ミスは誰にでもあります。でも、そこからどう立ち直るか。それが、本当の実力なんです」
涙が溢れそうになった。
「ありがとうございます」
「それに、山本さん」
「はい」
「今回のミス、実は私も気づいていたんです」
「え……?」
「でも、あえて言いませんでした。あなたが自分で気づいて、自分で対処する。その経験が必要だと思ったから」
桐谷さんの言葉に、私は驚いた。
「それは……」
「厳しいやり方だったかもしれません。でも、あなたならできると信じていました」
桐谷さんは、私の肩に手を置いた。
「信じてますよ、山本さん。あなたは、もっと成長できる」
*
その夜、家に帰ってから、私はノートを開いた。
『今日気づいたこと』
ペンを走らせる。
・ミスは誰にでもある
・大事なのは、ミスから何を学ぶか
・完璧を目指すより、失敗から学ぶことを大切にする
・自分を信じてくれる人がいる
書き終えて、前のページを振り返った。
半年前の私が書いた言葉。
『私は、まだ自分のことを完璧には知らない』
今も、その思いは変わらない。
でも、少しずつ、自分の輪郭が見えてきた気がする。
私は、完璧主義で、自分に厳しすぎる。
でも同時に、努力家で、成長しようとする意欲がある。
ミスを恐れるけれど、ミスから学ぶこともできる。
自信がないけれど、責任を果たそうとする。
矛盾だらけの、不完全な人間。
でも、それが私なんだ。
*
翌週、プロジェクトは無事に軌道に乗った。
チーム全員が一丸となって、納期に向けて動いている。
ある日の昼休み、井上君が嬉しそうに話しかけてきた。
「山本さん、この前のミスの対応、すごかったです」
「え?」
「僕も、いつかあんな風に、冷静に対処できるようになりたいです」
井上君の言葉に、私は驚いた。
私は全然冷静じゃなかった。パニックになって、藤崎さんや桐谷さんに助けられただけ。
でも、井上君の目には、そう映っていたらしい。
「ありがとう。でも、私一人じゃなくて、みんなのおかげだよ」
「そうやって、周りを立てられるのも、山本さんの良いところだと思います」
井上君は、にこりと笑って去っていった。
私は、その場に立ち尽くした。
周りを立てる。
それは、自信のなさの表れだと思っていた。
でも、違う見方もあるんだ。
謙虚さ。協調性。
同じ行動でも、見る人によって、解釈が変わる。
欠点は長所になる。
長所は欠点になる。
全ては、状況次第。見る人次第。
*
夕方、藤崎さんに呼び止められた。
「山本さん、少し時間いいですか?」
「はい」
会議室に入ると、藤崎さんは真剣な顔で言った。
「実は、私、来月で退職するんです」
「え……!」
「前の会社に戻ることになりました。向こうから、もう一度来てほしいと言われて」
突然の知らせに、私は動揺した。
「そう、だったんですね……」
「ええ。だから、山本さんに伝えておきたいことがあって」
藤崎さんは、私の目をまっすぐ見た。
「あなたは、自分が思っているより、ずっと優秀です」
「そんな……」
「本当です。ただ、自分を信じる力が足りない。それだけ」
藤崎さんは、微笑んだ。
「この半年、あなたを見てきて思ったんです。この人は、きっと素晴らしいリーダーになるって」
「藤崎さん……」
「だから、自分を信じてください。あなたには、その資格がある」
藤崎さんは立ち上がり、私の肩に手を置いた。
「そして、これからも、他人という鏡を大切にしてください。でも、鏡に映る全てを真に受ける必要はありません」
「どういう……ことですか?」
「人は、それぞれ違う鏡です。ある鏡は、あなたの欠点を映す。ある鏡は、あなたの長所を映す。大事なのは、どの鏡を信じるかではなく、全ての鏡を参考にしながら、自分で自分を決めること」
その言葉が、胸に深く刻まれた。
「自分で、自分を決める……」
「そうです。他人の評価は参考にする。でも、最終的に自分を定義するのは、自分自身。それを忘れないでください」
*
藤崎さんの送別会は、チーム全員で行われた。
和やかな雰囲気の中、藤崎さんは一人一人に言葉をかけていった。
私の番が来た時、藤崎さんは笑顔で言った。
「山本さん、あなたとの出会いは、私にとっても学びでした」
「私の方こそ……本当にありがとうございました」
「これから、もっと大変なことがあると思います。でも、あなたなら大丈夫」
藤崎さんは、グラスを掲げた。
「あなたの成長を、これからも応援しています」
*
送別会が終わり、一人で帰路についた。
夜の街を歩きながら、藤崎さんの言葉を反芻する。
自分で、自分を決める。
他人の評価は参考にする。でも、それに振り回されない。
私は、この一年で本当にたくさんのことを学んだ。
自分の欠点を知った。
でも同時に、欠点は見方を変えれば個性になることも知った。
完璧な人間なんていない。
みんな、欠点を抱えながら、それでも前に進んでいる。
私も、そうしていけばいい。
アパートに着き、鏡の前に立った。
茶色い瞳が、静かに私を見つめている。
「あなたは誰?」
もう、この問いに怯えることはない。
「私は、山本和美。不完全で、まだまだ成長途中の人間」
鏡に向かって、そう答えた。
そして、微笑んだ。
「でも、それでいい。これからも、少しずつ、自分を知っていくから」
スマホを取り出し、柊木涼のインタビュー記事を開く。
もう何度も読んだ言葉。
『欠点も個性になる。それをどう生かすか。それを常に考えていますね』
画面に映る自分の顔が、穏やかに微笑んでいた。
「ありがとう」
誰に言うでもなく、呟いた。
自分の欠点を指摘してくれた、全ての人に。
自分を信じてくれた、全ての人に。
そして、不完全な自分を受け入れられるようになった、今の自分に。
終章 私という物語
それから一年が経った。
私は、正式にリーダーに昇進していた。
新しいプロジェクトを任され、今度は自分がチームを率いる立場になった。
メンバーの中に、入社したばかりの新人、田村さんがいた。
二十二歳の、まだ初々しい女性。
ある日、彼女が私に相談してきた。
「山本さん、私……自分に自信が持てなくて」
その言葉に、一年前の自分を見た気がした。
「どうして?」
「先輩に指摘されたんです。私、話すのが遅いって」
「話すのが遅い?」
「はい。もっとテキパキ話せって言われて……でも、これが私の話し方で、どうしたらいいか分からなくて」
田村さんは、泣きそうな顔をしている。
私は、少し考えてから言った。
「田村さん、話すのが遅いって、悪いことだと思う?」
「え……?」
「私は、田村さんの話し方、丁寧で好きだよ。ゆっくりだからこそ、言葉を選んで話してるのが伝わる」
田村さんは、驚いた顔をした。
「でも……」
「確かに、状況によっては素早く話す必要もある。でも、それはスキルとして身につければいい。あなたの本質的な話し方を、否定する必要はないよ」
私は、彼女の肩に手を置いた。
「欠点って、見方を変えれば個性になるんだ。大事なのは、それをどう生かすか」
田村さんの目が、少し明るくなった。
「本当……ですか?」
「うん。私も、昔はたくさん欠点を指摘されて悩んだ。でも、今は思うの。欠点を知ることは、自分を知ること。そして、どう生かすか考えるチャンスなんだって」
田村さんは、小さく頷いた。
「ありがとうございます……少し、楽になりました」
彼女が去った後、私は窓の外を見た。
一年前の自分が、ここにいる気がした。
欠点ばかりが気になって、自分を責めていた自分。
でも、あの経験があったからこそ、今の私がいる。
*
週末、私は紗英と久しぶりに会った。
「和美、本当に変わったね」
カフェで向かい合いながら、紗英が嬉しそうに言った。
「そう?」
「うん。表情が全然違う。自信に満ちてる」
「自信……かな。まだまだ不安なことはたくさんあるけど」
「でも、その不安と上手く付き合えるようになったんでしょ?」
紗英の言葉に、私は頷いた。
「そうかもね。完璧じゃなくてもいいって、思えるようになった」
「覚えてる?高校の時、私が和美の目が茶色いって言ったこと」
「うん、もちろん」
「あの時の和美、すごく驚いてたよね。自分の目の色も知らなかったんだって」
紗英は笑った。
「でも今は?」
「今は……」
私は少し考えた。
「今は、この茶色い目が好き。個性的で、私らしいって思える」
「そうそう、それだよ」
紗英は満足そうに頷いた。
「自分を知って、受け入れて、好きになる。それが成長ってことなんだと思う」
*
その夜、家に帰ってから、久しぶりにノートを開いた。
一年前に書き始めた『私について知ったこと』のページ。
リストは、以前より長くなっていた。
・目が茶色い
・足首が太い
・小指が短い
・音痴
・同じ話を繰り返す
・人の話を遮る
・表情が硬い
・見下しているように見える
・近寄りがたい
・真面目すぎる
・完璧主義
・自分に厳しすぎる
・決断が遅い
・謙虚すぎる
そして、その隣のページ。
『私の長所だと思うこと』
こちらも、リストが増えていた。
・茶色い瞳は綺麗
・積極的に意見を言える
・真面目で誠実
・優しい
・変わろうと努力できる
・慎重で丁寧
・周りを立てられる
・責任感がある
・失敗から学べる
・他人の痛みが分かる
欠点と長所。
表裏一体のリスト。
同じ性質が、状況によって欠点にも長所にもなる。
私は、新しいページを開いた。
そして、タイトルを書いた。
『私という物語』
ペンを走らせる。
『私は、山本和美。二十七歳。
不完全で、欠点だらけの人間。
でも、それでいい。
完璧じゃないから、成長できる。
欠点があるから、他人の痛みが分かる。
自信がないから、慎重になれる。
まだまだ知らないことがたくさんある。
これからも、新しい欠点に気づくだろう。
でも、それは怖いことじゃない。
それは、自分をもっと知るチャンス。
他人という鏡を通して、少しずつ自分の輪郭が見えてくる。
でも、最終的に自分を定義するのは、自分自身。
私は、これからも変わり続ける。
成長し続ける。
そして、いつか、この不完全な自分を、心から愛せるようになりたい。
それが、私の物語。
まだ途中の、これからも続いていく物語』
書き終えて、満足げにノートを閉じた。
鏡の前に立ち、茶色い瞳を見つめる。
「ねえ、あなたは誰?」
もう、この問いに怯えることはない。
「私は、山本和美。まだ途中の、不完全な人間」
鏡の中の私が、微笑んでいる。
「でも、それでいい。これが、私の物語だから」
*
翌朝、出勤すると、田村さんが嬉しそうに話しかけてきた。
「山本さん、昨日のアドバイス、ありがとうございました」
「どういたしまして」
「私、考えたんです。話すのが遅いなら、それを逆に生かそうって」
「いいね。具体的には?」
「重要な説明をする時は、私が担当する。ゆっくり丁寧に話せるから、相手に伝わりやすいんじゃないかって」
田村さんの目が、輝いていた。
「素晴らしい。その調子だよ」
「はい!頑張ります」
田村さんは、元気よく自分のデスクに戻っていった。
その姿を見ながら、私は思った。
私が学んだことを、次の世代に伝えられた。
それは、とても嬉しいことだ。
欠点も個性になる。
それをどう生かすか。
この言葉を、私はこれからも大切にしていこう。
そして、いつか完全に自分を受け入れられる日まで、少しずつ、前に進んでいこう。
窓の外を見ると、朝日が昇っている。
新しい一日の始まり。
新しい発見があるかもしれない一日。
私は、深呼吸をして、仕事に向かった。
不完全な私で、それでも精一杯。
それが、私の生き方。
私という、まだ途中の物語。
──完──




