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もしも〇〇だったら  作者: rir


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もしも聖女が死んだら

かつて世界を魔物の脅威から守っていた「光の砦」の聖女、セレナは、五年前に死んだと信じられていた。彼女の死とともに、砦の結界は崩壊し、世界は影に覆われた。黒い霧が平原を這い、歪んだ咆哮が夜風に混じる。人々は砦の残骸に祈りを捧げ、失われた光を悼んだ。


しかし、死は真実ではなかった。


北の果て、人を寄せ付けない「沈黙の森」の深奥に、一人の女性がひっそりと暮らしていた。粗末な木立の小屋、自給の小さな畑、そして彼女を警戒しながらも共存する森の精霊たち。彼女の名はセレナ。かつて万人に敬愛された聖女その人である。今、彼女の銀髪には森の露が光り、かつて聖なる光を放ったその手には、土の匂いが染みついていた。


彼女は死ななかった。裏切られたのだ。


すべては「浄化の儀式」の夜に起きた。最愛の騎士団長レオンと、無二の親友で補佐官のミリアが、彼女を儀式の祭壇に縛りつけた。王国と教会の上層部が画策した陰謀だった。強大すぎる聖女の力は、もはや「道具」として扱いにくい。新たな、より従順な聖女を擁立するため、セレナは生贄に選ばれたのだ。


「君の力は、新たな光へと引き継がれる。許してくれ、セレナ…これが王国のためだ」

レオンの冷たい剣が閃き、儀式の剣が彼女の心臓を貫いた。ミリアは目を背け、何も言わなかった。絶望と裏切り、そして深い虚無がセレナを飲み込んだ。しかし、死は訪れなかった。森の古い精霊が、かすかな命の火を守り、この人跡未踏の地へと運んだのだ。


目覚めた時、彼女の心の光は消えていた。世界がどうなろうと、もうどうでもよかった。人を信じることも、守ることも、愛することも。森の静寂だけが、傷を癒やす麻薬だった。


ある雨の午後、森の結界がかすかに震えた。侵入者だ。セレナは窓辺に立ち、冷たい目で外を見た。よろめきながら近づいてくるのは、傷だらけの若い戦士と、彼を支える少女の神官——かつての彼女のように純白のローブを着た。彼らは追われていた。森の外縁で増殖する影魔物の群れに。


二人は小屋の前で倒れ、戦士は意識を失った。神官の少女、エラは必死で扉を叩いた。

「お願いです!誰か助けてください!彼が…彼が死んでしまいます!」


セレナは扉を開けた。埃っぽい作業服姿の彼女に、聖女の面影は微塵もない。エラは一瞬、失望したように見えたが、すぐに懇願の目を向けた。

「どうか、傷の手当てを…水だけでいいんです」


セレナは無言で二人を招き入れた。手際よく傷を洗い、森の薬草で包帯を巻く。その動作には、かつて戦場で兵士を癒やした名医の記憶が残っていた。エラは彼女の手つきに見入った。

「あなた…どうしてこんな深い森に? ここは魔物だらけだと聞いていましたが、不思議と平穏で…」


「静かだからだ」

セレナの声は低く、感情を剥ぎ取られていた。

「手当てが済んだら出て行け。森はお前たちのような騒がしい客を好まない」


その夜、エラは震えながら炉辺に座り、語り始めた。

「外の世界は…地獄です。聖女セレナ様がお亡くなりになってから、砦の光は消え、魔物が溢れました。町は次々と襲われ、人々は希望を失っています。私たちは…『最後の希望』を探しに来たのです。聖女様が残したかもしれない、何か力を復活させる手がかりを、この森に…」


セレナは炉の火を見つめたまま、微動だにしなかった。

「その聖女は死んだ。そして世界も死んだ。探すものなど何もない」


「そんなことありません!」

エラの目に涙が光った。

「私は信じています。セレナ様は、私たちを見捨てたりしなかったと。たとえ物理的には亡くなっても、その意志や光は、どこかに残っているはずだって…」


「愚か者め」

セレナの声に、初めてかすかな軋みが生じた。

「お前が信じるその聖女は、信じた者たちに裏切られ、見捨てられた。世界が彼女を見捨てたのだ。それでもなお、彼女が世界を想うと?」


エラは息を呑んだ。その言葉の重みに、何か気づきかけた瞬間、外で不気味な咆哮が轟いた。影魔物の群れが、生ける者の気配を嗅ぎつけ、森の結界を押し破ってきたのだ。


戦士はまだ動けない。エラは聖杖を握りしめ、震えながら立ち上がった。

「あなたは逃げてください! 私が…時間を稼ぎます。せめてあなただけは…」


セレナはゆっくりと立ち上がり、埃を払った。そして、小屋の隅の古い木箱を開けた。中から、曇った水晶の首飾りと、一振りの簡素な——しかし、かつて光り輝いていた——短剣を取り出した。

「時間を稼ぐ?」

彼女は埃を吹き飛ばすように短剣を軽く振り、かすかに青白い火花を散らした。かつての輝きの名残だ。

「お前のような未熟者ができることなど、たかが知れている」


セレナは扉に向かった。背中で言う。

「中にいるがいい。そして…目を閉じろ」


彼女が一歩外へ出た時、暗闇がうごめいた。無数の赤い目が、彼女を取り囲む。影魔物たちは、かつて自分たちを滅ぼした強大な力の残り香に、畏怖と憎悪を震わせた。


セレナは首飾りを握りしめた。水晶は冷たいままだった。彼女の心に、かつて人々を守ろうとした熱い思いは、もうない。あるのは、虚無と、諦め、そして…この森でようやく見つけた、わずかな「静けさ」を乱されることへの、些細な怒りだけだ。


「私の森から…出て行け」


それは命令ではなく、呪いのように低く響いた。


次の瞬間、セレナの短剣から、かつてのような黄金の光ではなく、森そのものの深い緑と闇が混ざり合った、荒々しい「奔流」が迸った。それは守護の光ではなく、領域を侵犯する者への排除の力だった。影魔物たちは悲鳴を上げて霧散し、森は再び深い静寂に包まれた。


小屋の戸口からそれを目撃したエラは、声も出なかった。その力の性質は違えど、その規模、その圧倒的な存在感…そして、無意識に傷ついた戦士を守るために結んだ小さな結界の形。それは、聖典に描かれた「聖女の守護陣」そのものだった。


セレナが振り返り、埃まみれの短剣をしまおうとした時、エラは涙を浮かべて跪いた。

「セレナ…様…?」


風が止んだ。


セレナは首飾りを木箱に放り込み、冷たく言った。

「そう呼ぶな。その名の者は、もういない」


しかし、エラの目には、確信が灯っていた。そして、その確信は、セレナが長年閉ざしてきた心の扉を、かすかにではあるが、揺るがすものだった。世界は彼女を見捨て、彼女も世界を捨てた。それなのに、なぜこの少女は、そんな彼女を「希望」として見るのか?


森は静まり返り、再び降り始めた雨の音だけが響いていた。失われた聖女と、絶望した世界。その間に、ほんの一筋の、か細すぎる光が、偶然にも差し込んだ瞬間だった。

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