第五話:岩手「北の風に、やわらかな灯」
◆北へ向かう新幹線
新幹線の車窓に、見慣れない山々の連なりが流れていく。
青森を出て二時間ほど。
空気が目に見えて澄んでいくのがわかるほどだった。
「……すごいね、こんなに景色が変わるんだ」
美緒が窓に額を寄せ、目を輝かせて外を見ている。
対して隆司は、少し微笑みながらコーヒーの缶を転がしていた。
「岩手は広いからな。山も川も、全部スケールが違う」
「なんか、空気も甘くない?」
「甘いっていうのは初めて聞いたな。でも、わかる気はする」
美緒がくすりと笑った。
新幹線のアナウンスが流れる。
「まもなく――盛岡です」
胸が少し弾む。
◇盛岡駅到着/岩手の風
ホームに降り立った瞬間、空気がひんやりとしていて、胸の奥までスッと冷たさが通った。
「わ、寒っ……!」
美緒が身を縮めると、隆司が慣れた動作でマフラーを差し出した。
「ほら、巻いとけよ。ここらへんは風が強いんだ」
「え、でも……」
「いいから」
それは思ったよりもあたたかくて、ほんの少しだけ、隆司の香りがした。
「……ありがと」
「行くぞ。腹、減ってるだろ?」
「……減ってる!」
美緒は元気よく返事をした。
◆盛岡の味――じゃじゃ麺
隆司が案内したのは、地元の人しか行かないような小さな店だった。
昼前だというのに、店内はすでに満席に近い。
「ここのじゃじゃ麺が一番うまい」
「楽しみ!」
ほどなく大きな平皿に、肉味噌、きゅうり、ネギが乗ったじゃじゃ麺が運ばれてきた。
ひと口。
「……おいしい!!」
美緒の目が丸くなる。
「麺がもちもちしてる……味噌のコクも深いけど、くどくない!」
隆司は満足げに笑った。
「最後は“ちいたんたん”だぞ」
「え、何それ?魔法の呪文?」
「まぁ見てろって」
麺を食べ終わると、店員が卵を割り入れ、スープを注ぎ、香り立つ湯気がふわっと広がる。
美緒がスプーンを口に運び、ふっと息を漏らした。
「……やさしい……」
「だろ」
――美緒が美味しそうに食べる姿が本当に嬉しい。
◇小岩井農場――広大な緑と静けさ
レンタカーで小岩井農場へ向かう。
道中はどこまでも広がる田園、雪をかぶり始めた岩手山。
一面が絵のようで、美緒は何度も窓を開け、写真を撮った。
「空が……高いね」
「東京とは、まるで別世界だろ」
「うん……なんか、心が広くなる感じがする」
「それ、岩手に来た人がよく言う」
隆司の声はどこか誇らしげだった。
農場に着くと、空気がさらに澄んでいた。
木々が風に揺れ、遠くで羊が草を食む音が微かに聞こえる。
「……こんな場所、来たことない」
「都会の暮らしにはない時間が流れてる。
何もないって思う人もいるけど、俺は……こういうの、好きなんだ」
「父さんは、静かな場所も似合う」
「そうか?」
「うん……なんか、落ち着いてるし。安心する」
隆司が笑顔で返す。その仕草に美緒は胸が温かくなった。
牧場のベンチで飲んだ新鮮な牛乳は、驚くほど甘かった。
「なにこれ……スイーツみたい!」
「普通の牛乳とは別物だろ」
美緒の頬がほころぶ。
静かに流れる風が優しく二人を撫でた。
◆一本桜――冬の光と影
農場を離れ、隆司の「どうしても見せたい場所」があるという。
車が止まったのは、一本の大きな桜の木の前だった。
冬の桜はもちろん咲いていない。
だが、雪を頂いた岩手山を背に、凛と立つ姿は圧倒的だった。
「……きれい……」
美緒が息を呑む。
「春には満開になる。一面ピンクの海だ。
でも、俺は……この冬の姿が好きなんだ」
「どうして?」
隆司は少し間を置き、言葉を探しながら答えた。
「咲いてなくても、ちゃんと生きてるだろ。
寒さに耐えて、春を待ってる。
その姿が……なんか、人間にも似てる気がして」
美緒はしばらく桜を見つめた。
「……うん。わかる気がする」
冬の一本桜は、寂しくはなかった。
むしろ強く、美しかった。
「美緒」
隆司が呼ぶ。
振り返ると、少し真剣な表情。
「店で……辛い日も、悩む日もあったろ」
美緒は驚いた。
父さんがそんなふうに気にかけてくれていたとは思わなかった。
「……あるよ。でも、父さんがいるから前に進めた」
隆司の目がやわらかくなる。
「春が来るのを待ってる桜と同じだな」
美緒はふっと笑った。
「父さんも?待ってる春がある?」
「……美緒が料理人として一人前になる事かな。」
視線はまっすぐに美緒に向けられている。
美緒は、期待に応えたい気持ちでいっぱいだった。
◇わんこそば――勝負の結末
盛岡に戻ると、隆司が提案した。
「せっかくだから……挑戦してみるか?」
「え、わんこそば!?絶対むり!」
「いいから、一回やってみろって」
店に入ると、スタッフが元気に出迎える。
「ほい、どんどん!」
小さな椀に次々と蕎麦が入れられる。
「ちょ、ちょっと待って……!早い早い!」
美緒は笑いながら必死に食べ続ける。
「ほい、どんどん!どんどん!」
「ひぃぃぃぃ!!」
隆司は横で大笑いだ。
結局、美緒の記録は――
「……32杯!?」
「初めてなら十分だ」
隆司の記録は87杯。
悔しがる美緒に、隆司は言った。
「勝負はまた今度。ゆっくりでいいからな」
その“ゆっくりでいい”という言葉に、
美緒は心が温かくなるのを感じた。
◆旅の夜――盛岡のホテル
夜。
ホテルの部屋からは、静かな盛岡の街が見える。
ネオンも少なく、遠くの山影が黒く浮かんでいた。
美緒はベッドに腰を下ろし、今日一日の写真を見返していた。
(……全部、父さんが隣にいる)
じゃじゃ麺、小岩井農場、一本桜、わんこそば。
笑った顔、照れた顔、真剣な顔。
どれも温かかった。
その横目で隆司が言った。
「美緒、ちょっと散歩しないか?」
◇盛岡の冬夜――二人の影が並ぶ
外はしんと静まり、冷たい風が頬を刺す。
けれど隆司が歩幅を合わせてくれるだけで、寒さは不思議と和らいだ。
「……今日、ありがとう」
美緒が言うと、隆司は答える。
「俺も楽しかった」
少し歩いたところで、隆司が立ち止まった。
「美緒」
ゆっくりと、美緒の方を向く。
「岩手に来て……どうだった?」
美緒は頷く。
「うん。なんかね……心が広くなった気がする」
隆司はやわらかく微笑む。
「お前はそのままでいい。
焦らなくていい。ちゃんと春が来るから」
美緒は嬉しくなった。
「父さんの……春も?」
隆司は一瞬言葉に詰まったが、ゆっくり、自分の胸に手を当てる。
「……来るといいな」
その声はとても静かで、正直だった。
二人の影が並び、冬の舗道に伸びていく。
風が吹いても、消えなかった。
◆旅の終わりに
翌朝。
盛岡駅で新幹線を待つ二人。
「また来たいね」
「……ああ。次は桜の季節に」
美緒の胸がまた高鳴った。
この旅は、ただの“岩手旅行”ではない。
静かな風が運んできたものは――
美緒にとっても隆司にとっても、
まだ名前のつけられない、あたたかな灯だった。




