第三十三話 島根編 出雲そばとぜんざい
春の柔らかな陽光が、出雲の町並みに静かに差し込んでいた。
石畳の道を歩く美緒と隆司の前には、木造の古い家々が連なり、どこか懐かしい空気を醸し出している。
風が吹き、どこからともなく漂うそばの香ばしい匂いが、二人を足早にさせた。
「お父さん……! この香り、そばだよね? すっごく香ばしい!」
「そうだな。出雲に来たら、やっぱりそばを食べないとな。しかも、ここでは独特の『割子そば』が有名なんだ」
「割子そば……? どういうそばなの?」
「ふふふ、食べてからのお楽しみだ。きっと驚くぞ」
二人は「出雲そば本舗」と書かれた暖簾をくぐった。
店内は木の温もりがあふれ、地元の人や観光客で賑わっている。
カウンターの奥では、そば職人が力強く生地を伸ばしていた。
席に座ると、元気な声の店員が迎えてくれる。
「いらっしゃいませ! 今日は割子そばですか?」
「はい、ぜひお願いします」
注文を済ませると、美緒が興味津々で厨房を覗き込んだ。
「わぁ……お父さん見て! そば粉をすっごくたっぷり使ってる!」
「ああ。出雲そばはそばの実を丸ごと石臼でひいて作るんだ。だから香りも栄養もぎゅっと詰まってる」
「へぇ! 普通のそばより黒っぽい色してるね」
「そうだな。それがまたコクのある味になるんだ」
ほどなくして、丸い朱塗りの器が三段重ねで運ばれてきた。
「これが割子そばです!」
「わぁぁ……きれい! 器が重なってるんだ!」
美緒は思わず身を乗り出した。
朱塗りの器に盛られたそばは、つややかに光り、上に刻み海苔やネギ、大根おろしがのっている。
「割子そばは、こうやって一段ずつに具材をのせて、そこに汁をかけて食べるんです」
店員が笑顔で説明する。
「なるほど……普通は器にそばを全部盛るのに、これは重ねるんだね」
「そうそう。一段食べたら、その器に次のそばを重ねて、汁を足して……って続けていくんです」
「へぇぇ! ちょっと食べ方が遊びみたいで楽しい!」
美緒はさっそく箸をとり、汁をかけて一口すすった。
「んっ……! 香りが濃い! すごく香ばしいそばの風味が口いっぱいに広がる!」
驚いたように目を見開く美緒に、隆司も一口すする。
「ふむ……確かに力強い味だ。噛むほどに香りが立つ。これは蕎麦粉を丸ごと使うからこその味だな」
店員がにこやかにうなずいた。
「そうなんですよ。出雲そばは香りを大事にしてるんです。だからのどごしよりも、噛んで味わうそばなんです」
「ほんとだ……しっかり噛むと甘みも出てくる」
「それにしても食べ方が楽しいな。器を重ねながら、味を少しずつ変えて楽しめる」
「そうですね。薬味も色々ありますから、自分の好きな組み合わせを見つけてください」
美緒は二段目に山芋をのせ、三段目には卵黄を落とした。
「うん! 山芋で食べるとすごくまろやか。卵黄だと濃厚で贅沢な味になる!」
「食べ進めるごとに違う味が楽しめるのはいいな。まるでコース料理のようだ」
店内では他の客も楽しそうに器を重ね、笑い合っている。
食べるというより「そばで遊んでいる」ような雰囲気が広がっていた。
食べ終えたころ、店主が顔を出して声をかけてきた。
「お味はいかがでしたか?」
「すごくおいしかったです! そばってこんなに香り豊かなんだって驚きました!」
「ありがとうございます。実は、出雲の水もそば作りに欠かせないんです。きれいな水があるから、そばの風味が引き立つんですよ」
「なるほど……水まで大事なんですね」
隆司が感心して頷いた。
「料理は素材だけでなく、水や空気、その土地の全部が関わってくる。やっぱり土地の料理は土地で食べるのが一番だな」
「はい。その言葉、嬉しいです」
店を出ると、風がまた頬をなでた。だが、美緒の顔はそばで温まって輝いていた。
「お父さん、そばって奥が深いね……! 次は甘いものが食べたいな」
「そうだな。出雲といえば『ぜんざい』も有名だぞ」
「ぜんざい!? おしるこみたいな感じ?」
「そうだな。小豆を煮て甘く仕立てたものだ。ただ、こっちのぜんざいは少し違うんだ」
二人は町の甘味処へ向かった。
店内に入ると、炭火の香りと甘い匂いが混ざり合い、どこかほっとする空気が広がっていた。
席につくと、着物姿の女将さんがにこやかに迎えてくれる。
「いらっしゃいませ。ぜんざいでよろしいですか?」
「はい、ぜひお願いします」
しばらくして運ばれてきたのは、熱々の小豆汁に焼き餅が浮かんだぜんざい。
「わぁぁ……! すっごくいい匂い! 小豆がつやつやしてる!」
美緒はスプーンですくって口に入れた。
「ん……! あま〜い! でもただ甘いだけじゃなくて、小豆の風味がしっかりしてる!」
隆司もひと口味わう。
「ふむ……これは上品だな。甘さがすっと口に広がって、しつこくない」
女将さんが嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます。うちは砂糖を控えめにして、小豆本来の味を大切にしているんです」
「確かに……小豆ってこんなに香りがあるんだ」
美緒は感心して餅を頬張る。
「お餅も香ばしくてもちもち……小豆とすごく合う!」
「ぜんざいは冬の定番ですからね。体も心も温まりますよ」
店内では他のお客も笑顔でぜんざいをすすっていた。
湯気に包まれた空間は、まるで家族の食卓のような温もりがあった。
「お父さん……そばもぜんざいも、どっちも土地の人の工夫や思いやりが詰まってるね」
「そうだな。料理はその土地の歴史や暮らしの知恵を映している。出雲の味を知ったことで、お前の料理の幅もまた広がっただろう」
美緒は頷き、嬉しそうにスプーンを動かした。
「うん! そばの香り、ぜんざいの甘さ……全部忘れられない味になったよ」
外に出ると、夕暮れが町をオレンジ色に染めていた。
冷たい風の中でも、美緒の頬はほんのりと赤く、心は温かさで満ちていた。




