第三十二話 鳥取編 かに汁と大山おこわととうふちくわ
春の澄んだ空気が漂う鳥取の港町。
日本海から吹きつける潮風は冷たく、道を歩く人々の吐く息は白く漂っていた。
美緒と隆司は、大きな市場の前に立っていた。
軒先からは威勢のいい声が飛び交い、真っ赤な松葉ガニがずらりと並べられている。
「お父さん、見て! カニがいっぱい! しかも、すごく大きい……!」
「おお、これは立派だな。やっぱり鳥取といえば松葉ガニだ。味覚の王様だな」
二人が近づくと、威勢のいい声の漁師風の男性が声をかけてきた。
「お嬢ちゃん、よく見ていきな! 今朝獲れたばっかりの松葉ガニだよ。足がぴんぴんしてるだろ?」
美緒は興奮した様子でカニをじっと見つめる。
「本当に動いてる……。こんなに活きがいいの、初めて見た!」
「そりゃあそうさ。鳥取じゃこの時期、カニが主役だ。観光客も地元の人も、みんなこの味を待ち望んでるんだよ」
隆司がにこやかに話に加わる。
「カニはやっぱり刺身や焼きガニもいいですが、かに汁も格別ですよね」
すると漁師は嬉しそうに笑った。
「お、よくわかってるね! 寒い日はかに汁に限る。味噌とカニの旨味が溶け合って、体の芯から温まるんだ」
「わぁ……食べてみたい!」
美緒が目を輝かせると、漁師が市場の奥にある食堂を指差した。
「あそこの食堂で出してるよ。市場で買ったカニを持ち込めば、かに汁にしてくれるんだ」
「それはいいですね。じゃあ、お願いしようか」
二人は松葉ガニを一匹選び、食堂に入った。
中は温かい湯気で包まれ、地元の人々が楽しそうに食事をしている。
テーブルにはすでにかに汁の香りが漂い、空腹を刺激する。
席につくと、女将さんが笑顔でやってきた。
「いらっしゃい。市場で買ったカニね? すぐにかに汁にしてあげるよ。ちょっと待っててね」
「お願いします!」
待つ間、美緒は壁に貼られたメニューを見つめた。
「大山おこわって書いてあるよ、お父さん。おこわって、もち米を使うご飯だよね?」
「そうだ。鳥取の名峰・大山で昔から食べられている郷土料理だ。山菜や鶏肉を入れて炊くんだ。おこわならではのもちもちした食感と、具材の旨味が染み込んで、絶品なんだぞ」
「へぇ……おこわって行事とか特別な日に食べるイメージだけど、ここでは普段から食べられるんだね」
「そうそう。祭りやお祝いごとでもよく作られる。土地の人にとっては特別でもあり、日常でもある味なんだ」
そんな会話をしていると、湯気を立てたかに汁が運ばれてきた。
大きな椀に、真っ赤なカニの足が豪快に入っている。
「わぁぁ……! いい匂い!」
「ほら、美緒、まずは汁を一口すすってみろ」
美緒はレンゲで汁をすくい、そっと口に含んだ。
「……あっ……おいしい! カニの旨味がすごく濃い! 味噌のコクと合わさって、体がぽかぽかしてくる!」
「だろう? この濃厚な旨味は、カニを丸ごと使ってこそ出るんだ」
隆司もすすり、思わず目を細めた。
「ふぅ……。寒い日のかに汁は最高だな」
女将さんが笑顔で追加の料理を運んできた。
「はい、大山おこわもできたよ。熱いうちにどうぞ」
木の器に盛られたおこわは、山菜や鶏肉が彩りよく混ざり、もち米の光沢が美しい。
「うわぁ……見ただけでおいしそう!」
美緒は箸で一口すくい、口に入れた。
「んっ! もちもちしてる! 鶏肉の旨味がご飯全体にしみこんでて、山菜の香りがすごくいいアクセントになってる!」
「これは……滋味深いなぁ。素朴だけど奥深い。自然の恵みを大切にした料理だ」
女将さんは嬉しそうにうなずく。
「大山の山麓は水も土もいいからね。米も野菜もおいしいの。だから、このおこわは地元の人にとっては誇りなんだよ」
「なるほど……土地の力が詰まってるご飯なんですね」
さらに女将さんがもう一皿持ってきた。
「忘れちゃいけないのがこれ。とうふちくわだよ」
白くて柔らかそうなちくわが皿に並んでいる。
「とうふちくわ……? ちくわって魚のすり身で作るんじゃないんですか?」
美緒の疑問に、女将さんが説明する。
「そうなの。でも鳥取じゃ、昔は魚が高価だったからね。そこで豆腐を混ぜて量を増やしたのが始まりなの。今では豆腐のふわっとした食感が人気で、立派な郷土料理になったのよ」
隆司がひと口食べてみる。
「おお……これは面白い。ちくわの弾力と豆腐の柔らかさが合わさって、優しい味わいだ」
美緒も口に入れ、目を輝かせた。
「わぁ! ふわふわで軽い! ちくわってこんなに優しい食感になるんだ……!」
「昔の人の工夫の賜物だね。豆腐を混ぜるなんて、まさに知恵の味だ」
女将さんは少し誇らしげに言った。
「そうなの。魚が貴重でも、みんなで工夫しておいしいものを作ろうとしたの。だから、とうふちくわは貧しさの象徴じゃなくて、知恵と誇りの味なのよ」
「すごいなぁ……。料理って、ただお腹を満たすだけじゃなくて、その土地の歴史や暮らし方が詰まってるんだね」
「その通りだ、美緒。鳥取の料理は、海と山、両方の恵みを受けて発展してきたんだ。だからこそ、かに汁も大山おこわも、とうふちくわも、この土地ならではの味なんだ」
食堂の外では、漁師たちの笑い声が響き、潮の香りが漂っている。
美緒は湯気に包まれた料理を前に、しみじみとつぶやいた。
「鳥取って……豊かだね。自然があって、人の知恵があって、温かさがあって」
隆司は頷き、娘の手元を見ながら微笑む。
「そうだな。料理は土地そのものだ。今日学んだ味は、きっとお前の料理にも生きてくるだろう」
美緒は嬉しそうに頷き、再びかに汁をすすった。
体も心も温まりながら、父娘の鳥取の一日は、豊かな食の記憶とともに過ぎていった。




