第三十一話 和歌山編 ― 梅干しとめはり寿司
紀伊半島の山道を抜けると、視界に広がるのは穏やかな海と、緑に包まれた丘陵。
潮風とともに、ほんのりと酸っぱくて懐かしい香りが鼻をかすめた。
「お父さん……今、梅干しの匂いがした!」
美緒が鼻をひくつかせながら、嬉しそうに振り返る。
「ははは、さすが料理人の嗅覚だな。ここは和歌山、梅の一大産地だ。南高梅は全国でも有名だからな」
隆司が笑ってうなずいた。
「南高梅って、あの皮が薄くて大きな梅だよね? 私、梅干しはお弁当のイメージが強いけど……本場の味ってやっぱり違うのかな」
「食べてみりゃわかるさ。今日は梅干しと、熊野地方の郷土料理“めはり寿司”を食べられる店に行くぞ」
「めはり寿司? 名前からして目がぱっちり開きそう!」
美緒が両手で目を大きく開くポーズをしてみせ、二人で思わず笑い合った。
南高梅と梅干し
町に入ると、あちこちに「梅干し」「梅酒」と書かれた看板。
木箱や瓶が並ぶ店先からは、酸っぱくて甘い独特の香りが漂っていた。
「わぁ……どの店も梅だらけ! 圧巻だね」
美緒が目を輝かせる。
「和歌山の梅は全国シェアの6割以上を占めてるらしい。ここはまさに梅の王国だ」
隆司が店に入り、木の樽をのぞき込むと、中には真っ赤に漬け込まれた梅干しがぎっしり。
「うわぁ……これ、全部食べ比べしたい!」
「いらっしゃいませ。よかったら試食どうぞ」
店員が差し出した小皿に、一粒の梅干しが載っている。
美緒が恐る恐る口に入れると――
「……! んっ、すっぱぁい! でも、すっぱさの奥にふんわりした甘さと香りがある!」
「梅干しっていうと塩辛いだけのイメージがあるかもしれませんが、南高梅は皮が薄くて果肉が柔らかいから、味に奥行きが出るんです」
店員が説明する。
「ほんとだ。酸味が強いのに、嫌な刺々しさがない。これ、ご飯にのせたら最高だな」
隆司が感心してうなずく。
「うん! しかもこの酸っぱさ、なんだか体の芯から元気が出る感じがする」
美緒も笑顔を見せる。
梅干し作りの話
「ところで、梅干しってどうやって作るんですか?」
美緒が尋ねると、店員は樽の中の梅を見ながら語り始めた。
「まず、青梅を収穫して、塩漬けにします。しばらくすると梅酢が上がってくる。それを天日で干すんです。三日三晩、夜露に当てながら干す“土用干し”が仕上げの決め手なんですよ」
「夜露に当てる……? それってどういう意味があるんですか?」
隆司が首をかしげる。
「夜露に当てることで、梅がしっとり柔らかくなるんです。昼間の太陽で乾かし、夜露で潤す。その繰り返しが、皮を破れにくくして、果肉をふっくら仕上げるんです」
「へぇ……自然の力を借りて仕上げるんだね。単に保存食じゃなくて、手間と時間をかけて完成させるのか」
美緒が感心する。
「そうなんです。だから梅干しはただの酸っぱい食べ物じゃなく、“長寿食”とか“みたいに、人々の生活に深く根付いてきたんですよ」
「なるほど。お弁当の真ん中に梅干しを置く“日の丸弁当”も、傷みにくくする知恵だったんだろうな」
隆司がうなずく。
「うん……私、梅干しを一粒食べただけで、なんだか昔の人たちの工夫を味わった気がする」
美緒の言葉に、店員もにこやかに微笑んだ。
めはり寿司との出会い
梅干しを堪能した二人は、次に「めはり寿司」の暖簾を掲げる食堂へ入った。
「いらっしゃい。今日はめはり寿司と熊野の郷土料理を用意してますよ」
元気な大将が迎えてくれる。
「めはり寿司って、どんな料理なんですか?」
美緒が尋ねると、大将は大きな桶を指さした。
「ご飯に高菜の漬物を大きく巻いた寿司だ。昔、山仕事や漁の弁当として親しまれてきたんだよ。ひと口じゃ食べきれないくらい大きいから、“目を見張る”=“めはる”って名前がついたんだ」
「なるほど! 名前の由来も面白い!」
美緒が嬉しそうに手を叩いた。
運ばれてきためはり寿司は、緑の高菜に包まれた大きなおにぎりのような姿。
「わぁ、ほんとに大きい! 私の手のひらより大きいよ」
美緒が驚く。
「さぁ、かぶりつけ!」
大将が豪快に笑う。
美緒は両手でめはり寿司を持ち上げ、がぶりと大きな口でかじった。
「……んんっ! 高菜の塩気と香りが、ご飯にしみこんで最高! 素朴なのに、やたらうまい!」
「ほう、いい食べっぷりだな! 昔の人は山でこれを食べて、また力を出したんだ」
「確かに……これ、一個で元気が出るね。シンプルだけど力強い」
隆司も頬張りながら笑った。
食の知恵を学ぶ
「高菜の漬物でご飯を包むのは、保存のためでもあるんですか?」
美緒が聞くと、大将はうなずいた。
「そうだ。漬物の塩分でご飯が傷みにくくなる。しかも持ち運びやすい。山道や漁場に持っていくにはうってつけだったんだ」
「梅干しも保存の知恵だったし、めはり寿司もそうなんだね。和歌山の料理って、ただおいしいだけじゃなくて、生活の知恵が詰まってる」
「ほんとだな。自然と共に暮らす中で生まれた知恵が、今もこうして残ってる。ありがたいことだ」
隆司がしみじみと言う。
「うん……こういうのを食べてると、料理って時間を超えて伝わるものなんだなって思う」
美緒の言葉に、大将が満足そうに笑った。
旅のまとめ
食後、二人は店を出て、海辺の道を歩いた。
潮風に梅の香りが混ざり、どこか懐かしい気分に包まれる。
「お父さん、今日の和歌山は、“酸っぱくて大きい”がテーマだったね」
美緒が冗談めかして言う。
「ははは、確かにな。梅干しの酸っぱさと、めはり寿司の大きさか」
「でもどっちも、ただの味や大きさじゃなくて、人の暮らしや工夫が詰まってた。私、こういう料理こそ大事にしていきたいな」
「美緒、それを感じ取れたのは大きいぞ。料理人として、ただ味を追うんじゃなく、その背景にある人々の思いを汲み取れるのは強みだ」
「うん! 私、もっと旅を続けて、もっと色んな土地の知恵を学びたい」
隆司は娘の横顔を見て、静かにうなずいた。
「よし、次の土地も楽しみだな。どんな知恵と味に出会えるか……」
二人の笑い声が潮風に乗り、和歌山の空へと溶けていった。




