第三十話 奈良編 ― 柿の葉寿司と三輪素麺
近鉄電車を降りると、ふわりと広がる奈良の春の空気。
青々とした若葉がそよぎ、遠くに大和三山の姿が霞んで見える。
街並みは歴史の趣を残しつつ、どこか穏やかで落ち着いた雰囲気を漂わせていた。
「奈良って、歩いてるだけで心が静かになるね」
美緒がリュックを背負い直しながら、ゆっくりと景色を眺める。
「そうだな。京都とも違うし、大阪や神戸ともまた違う……時間の流れがゆったりしてる」
隆司も深呼吸をしながら頷いた。
二人が向かうのは、奈良の郷土料理を味わえる店。
そこでは、柿の葉寿司と三輪素麺を堪能できるという。
柿の葉寿司との出会い
古民家風の落ち着いた店に入ると、木の香りが漂い、窓際には小さな庭が見えた。
そこには、ちょうど柿の木が芽吹いている。
「いらっしゃいませ。奈良の味を楽しみに来てくださったんですね」
店を切り盛りする女将が、にこやかに迎えてくれる。
「はい! 本場の柿の葉寿司を食べたくて」
美緒が声を弾ませる。
「おぉ、柿の葉寿司か。あれってお祭りや行事のときに食べるもんなんだろ?」
隆司が興味深そうに尋ねる。
「ええ、昔から保存食として作られてきたんですよ。魚を酢でしめて、柿の葉で包むことで日持ちもする。山の中で海の幸を楽しむための知恵なんです」
やがて運ばれてきたのは、木箱に整然と並んだ柿の葉寿司。
柿の葉の緑が鮮やかで、まるで宝石箱のようだ。
「うわぁ、きれい……包みを開ける前からワクワクする!」
美緒が手を伸ばす。
「いただきます!」
葉をそっとめくると、中から酢でしめた鯖と酢飯が姿を現した。
「ん……! 鯖の旨味と酢の爽やかさ、それを柿の葉の香りが包んでる!」
美緒が目を輝かせる。
「ほんとだ。葉っぱの香りがほんのり移って、全体が調和してるな。これ、電車旅のお供に最高だ」
隆司も感心してうなずく。
「そうそう。昔は行楽などのときに持っていったんです。時間が経つほど味がなじんで、おいしくなるんですよ」
女将がにこやかに説明する。
「なるほど。保存のためだけじゃなくて、時間が育てる味なんだ」
隆司が納得するようにつぶやく。
「それにしても、葉っぱで包むだけでこんなに香りが違うなんて。お寿司って海沿いだけのものじゃなかったんだね」
美緒がしみじみと語る。
「奈良の人にとっては、海は遠い存在。でも工夫すれば、山国でもこうして魚を楽しめる。知恵と工夫の結晶だな」
隆司の言葉に、美緒も深く頷いた。
三輪素麺の奥深さ
柿の葉寿司を堪能したあと、女将は次の料理を運んできた。
木の桶に氷水を張り、その中で白い素麺が清らかに揺れている。
「これが三輪素麺です。奈良県桜井市の三輪は素麺発祥の地とされていて、千年以上の歴史があるんですよ」
「千年以上!」
美緒が驚きの声をあげる。
「そう、細くて繊細だけど、コシが強くて喉越しが良い。ぜひ味わってください」
二人は箸を氷水に入れ、素麺をすくい上げてつゆにつける。
「……! 冷たくて気持ちいい! それに、すごくしっかりしてる。細いのにコシがある!」
美緒が嬉しそうに声をあげる。
「確かに。喉をすっと通っていく感じが爽やかだ。夏にぴったりだな」
隆司も感心する。
「でも、今日は春。素麺って夏のイメージだけど……春に食べるのもいいね」
美緒が目を細める。
「そうですね。春は春で、新緑を眺めながらいただくのも格別ですよ」
女将が柔らかく微笑む。
「ところで、この三輪素麺ってどうやって作るんですか?」
隆司が興味津々で尋ねる。
「小麦粉と塩と水を練って、油を塗りながら細く細く延ばしていくんです。手延べといって、人の手で何度も延ばすから、このコシと滑らかさが出るんです」
「へぇ……麺一本にどれだけ手間がかかってるんだろう」
美緒が目を丸くする。
「それに、熟成させることで味が深まるんですよ。職人さんたちが冬の寒さを利用して作るからこそ、この風味が生まれるんです」
「なるほど……自然の恵みと人の技術が合わさってるんだな」
隆司がしみじみと語る。
郷土料理が教えてくれること
二人は柿の葉寿司と三輪素麺を食べ比べながら、感想を言い合った。
「どっちもシンプルなのに、すごく奥が深い。柿の葉寿司は山の中でも海を感じられる工夫で、三輪素麺は人の手が繊細に重ねた努力の味」
美緒が言葉を選ぶように語る。
「ほんとだな。豪華な食材じゃなくても、工夫と心でこんなに豊かになる。奈良の食って、静かなのに強い」
隆司も頷いた。
「静かなのに強い……いい表現ですね。奈良の食文化を一言で表すなら、それかもしれません」
女将も嬉しそうに微笑む。
「いやぁ……奈良の食って、まるでこの街そのものみたいだな」
隆司がふとつぶやく。
「うん。派手じゃないけど、ずっと心に残る味。忘れられない」
美緒も笑顔を浮かべた。
二人は満ち足りた気持ちで店を後にし、奈良の春の街並みを歩き出した。
柿の葉の香りと素麺の涼やかさは、これからも二人の旅の記憶に刻まれていくだろう。




