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第二十九話 兵庫編 ― 明石焼きと神戸牛


 神戸の街を歩くと、洋風建築と異国情緒あふれる通りに混じって、ふと香ばしい匂いが鼻をくすぐる。

商店街を抜けると、看板に大きく「明石焼」と書かれた店が立ち並んでいた。


「うわぁ……ここ一帯、卵の匂いが漂ってる!」

美緒が顔をほころばせる。


「さすが本場明石。粉もんっていっても、大阪のたこ焼きとは違う香りだな」

隆司も鼻をひくつかせながら、興味津々に店先を覗き込む。


 暖簾をくぐると、鉄板の前で店主が慣れた手つきで、ふわふわの生地を丸い穴に流し込んでいく。

その動きは芸術的なリズムを刻んでいた。


「いらっしゃい。初めてかい?」

白い手ぬぐいを巻いた店主が笑顔を見せる。


「はい。本場の明石焼きを食べに来ました!」

美緒が元気よく答える。


「なら楽しみにしときな。ここのは玉子たっぷりで、だしにつけて食べるんやで」


「だしに、ですか? ソースじゃなくて?」

隆司が驚いた顔をする。


「そうや。ふわっと軽い食感を、あったかいだしで引き立てるんや。まあ、まずは食べてみぃ」


 鉄板の上で、丸く膨らんだ明石焼きが竹串で器用にくるりと返され、黄金色に焼き上がっていく。

その横で、澄んだ香りのだしが湯気を立てていた。


「はい、お待ち!」

木の器に盛られただしと、明石焼きが運ばれてくる。


「見た目はたこ焼きだけど……すごく柔らかそう!」

美緒が箸でそっとつまむと、ぷるんと揺れる。


「崩れそうだから気をつけろよ」

隆司も慎重に一つ持ち上げ、だしにくぐらせて口に運ぶ。


「……おぉ! これは……たこ焼きとはまったく別物だ!」

隆司の目が見開かれる。


「ふわふわで、口の中で溶けちゃう! だしの香りと卵の甘みが一体になって……優しい味!」

美緒も感動の声をあげる。


「だしに浸すと、いくらでも食べられそう。軽いのに、奥深い」


「でしょ?」

店主がにこやかにうなずく。

「たこ焼きはおやつやけど、明石焼きはどっちかいうと食事やな。昔は『玉子焼き』って呼んでて、地元の人は今もそう言うんや」


「玉子焼き……なるほど。確かに卵の存在感がすごいです」

隆司が感心してうなずく。


「この生地に入れる小麦粉は控えめでな。卵の比率をぐっと上げることで、この柔らかさが生まれるんや。ほんで、明石のタコを使うんやけど、これがまた噛み応えと甘みがある」


「タコまでこだわってるんですね」

美緒が感心する。


「そらそうよ。明石の海は潮の流れが速いから、タコがしっかり育つ。歯ごたえが違うんや」


「いやぁ……これは何個でもいけるな」

隆司はすでに三つ目に手を伸ばしている。


「ほんと、するすると食べちゃう。あったかいだしがまた、心に染みる感じ」

美緒も笑みを浮かべる。


「観光客にはソースを出す店もあるけど、本場の味はやっぱりだしやな。気に入ってくれたみたいやな」

店主が嬉しそうに目を細める。


 二人はすっかり明石焼きの虜になり、追加で注文するほどだった。

食べ終えると、今度は神戸の別の街へと足を伸ばすことにした。


 港町ならではの空気を味わいながら歩いていくと、次なる目的の店にたどり着いた。

看板には大きく「神戸牛」の文字が光っている。


「ついに来たな……神戸牛!」

隆司が目を輝かせる。


「テレビや雑誌で見たことはあるけど、実際に食べるのは初めてだよね」

美緒も胸を高鳴らせる。


 店内に入ると、鉄板を前にしたカウンター席に案内された。

目の前ではシェフが白衣姿でナイフとフォークを持ち、静かに微笑んでいる。


「ようこそ。当店自慢の神戸牛を堪能していただきます」


「わぁ……本当に鉄板で焼くんですね」

美緒がきょろきょろと周囲を見渡す。


「そう。目の前で焼くことで、肉の状態を一番いい瞬間で味わっていただけるんです」


 冷蔵庫から取り出されたのは、美しく霜降りが入った神戸牛のステーキ肉だった。


「うわぁ……サシがまるで大理石みたい」

隆司が思わず見惚れる。


「脂の入り方が均等で細かいですね」

美緒も感心する。


「これが神戸牛の特徴です。脂の融点が低いので、口に入れた瞬間にとろけるんです」

シェフが説明をしながら、肉を鉄板に乗せる。


ジューッという音とともに、香ばしい匂いが立ち上る。


「この音と香りだけでご飯が食べられそう……」

美緒が笑いながらつぶやく。


「ほんと、期待が高まるな」

隆司も思わず唾を飲み込む。


 シェフは絶妙なタイミングで肉を返し、余分な脂を鉄板に落としていく。

焼き上がった肉は一口サイズに切り分けられ、美しい皿に並べられた。


「どうぞ。まずは塩でお試しください」


二人はナイフとフォークで一切れを口に運ぶ。


「……っ! なにこれ……すごい!」

美緒の瞳が輝く。


「柔らかい! 噛むというより、舌にのせた瞬間にほどける感じだ!」

隆司も驚嘆の声をあげる。


「脂が甘い……全然くどくなくて、旨味がすっと広がる」


「これが神戸牛の真骨頂ですね」

シェフが穏やかに微笑む。

「肉の味を楽しむなら塩。赤ワインソースやわさびも相性がいいですよ」


 二人は順に試し、そのたびに新しい驚きを味わった。


「同じ肉でも、味わいが全然違う……奥深い」

美緒が感心する。


「食材を最高の状態で出すって、まさに芸術だな」

隆司が真剣に言うと、シェフも静かにうなずいた。


 食事を終えると、二人は店を後にし、夜の港町を歩いた。

ライトアップされた街並みと潮風が、贅沢な時間の余韻を包み込む。


「今日は明石焼きと神戸牛、どっちも衝撃的だったな」

隆司がしみじみと語る。


「うん。庶民的な明石焼きと、最高級の神戸牛。対照的だけど、どちらもこの土地に根付いた味だった」

美緒も満足げに微笑む。


「やっぱり、食文化って土地そのものを映すんだな」

「うん。だから旅はやめられないね」


 二人はそう語り合いながら、兵庫の夜を楽しんだ。


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