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第二十六話 滋賀編 鮒寿司とじゅんじゅん ― 発酵の神秘と守り手の情熱


 春の陽光が琵琶湖の水面にきらきらと反射する。

滋賀県の小さな町を歩く美緒と隆司の目の前には、湖の波のように静かに広がる田園風景があった。

風に揺れる稲穂の香りと、遠くから漂ってくる魚の匂いが混ざり合い、独特の滋賀の香りを作り出している。


「お父さん、琵琶湖って大きいね……。湖っていうより海みたいに広い」


「そうだな。日本一の湖だからな。ここには昔から、人々の生活と食文化が深く結びついてきたんだ」


 二人は湖畔の道を歩きながら、古い町並みに差し掛かる。

町の路地を曲がると、「鮒寿司」と書かれた木の看板が目に入った。

何百年も続く伝統の空気が漂い、木桶の匂いが通りまで漂っている。


「鮒寿司……名前は知ってるけど、食べたことはないな。すごく独特の香りがあるって聞いたことある」


「そうだ、発酵食品の極みだ。好き嫌いが分かれるけど、守り手の情熱が込められた一品だ。味わえば、琵琶湖の恵みと土地の知恵がわかる」


 二人は店に入り、カウンターに腰を下ろした。

店内には木桶や甕が並び、熟成中の鮒が静かに眠る。

奥から店主が現れ、にこやかに声をかけた。


「いらっしゃいませ。鮒寿司ですか?」


「はい、初めて食べるんです。どんな味か楽しみで……」


 店主は笑みを浮かべ、木桶の蓋を開けた。

中には琵琶湖で獲れた鮒が整然と並び、米とともに発酵している。


「わぁ……香りが……! 思ったより強いですね」


「ははは、初めてだと驚くかもしれません。この香りは発酵の証拠。乳酸発酵で、魚と米が独特の旨味を生み出すんです」


「乳酸発酵……納豆や味噌と同じ仕組みですか?」


「そうだ。でも鮒を丸ごと使うから、味も香りも強烈だ。昔は保存食として、漁師や農家に重宝されたんだ」


 美緒はおそるおそる箸を伸ばし、少し切って口に運ぶ。

最初に感じたのは独特の酸味。

だがその後に米の甘みと鮒の旨味が追いかけてきて、舌の上で複雑なハーモニーを奏でる。


「……酸っぱいけど、深い味わい! クセになるかも」


「そうだろう。食べ慣れると、発酵の旨味がどんどん好きになる。琵琶湖の水と米、時間が作り出した味なんだ」


 店主が微笑みながら話す。


「鮒寿司は作るのが本当に大変です。鮒をさばいて塩漬けにし、米と一緒に樽に詰めて発酵させる。完成まで半年から一年かかります。発酵の進み具合を見極めるのは、経験と勘。若い人にはなかなかできない技術です」


「発酵食品って、毎回味が微妙に違うんですよね?」


「その通り。同じ店でも一口ごとに違う。それもまた、鮒寿司の面白さです」


 美緒は目を輝かせ、店主に訊ねた。


「どうして鮒寿司を今でも作り続けているんですか?」


 店主は少し考えて答える。


「伝統を守る喜びかな。先代から受け継いだ味を次世代に伝えるのが使命です。毎日、鮒に話しかけながら作るんですよ」


「話しかける……?」


「ええ、魚を扱うとき、樽を覗くときに自然に声をかけます。発酵も生き物だから、気をかけるほどいい状態になるんです」


「生き物と向き合うって、こういうことなんだ」


「そう、料理は食材との対話でもある。時間をかけて自然の力と人間の手が一体になる料理なんです」


 美緒は箸を止めて考え込む。


「私、料理人として、この発酵の深さをもっと知りたいな。味を作るだけじゃなく、時間や環境、素材の性質を読む勉強になる」


「美緒、それがわかるのは大事なことだ。発酵食品は味だけじゃなく、作る人の思いや生活の知恵も含まれているからな」


 店主はにっこり笑い、最後に添える。


「鮒寿司は滋賀の象徴です。琵琶湖の恵みを生かし、土地の人が長年磨き上げた味。それを楽しんでくれる人がいるだけで作り続ける価値があります」


 二人は店を出て、湖畔の道を歩きながら波の音を聞いた。

湖面に映る青空と緑の山々、漁船の影。美緒はつぶやく。


「お父さん……鮒寿司って、ただの食べ物じゃないね。時間や人の努力、土地の環境……全部が文化なんだ」


「そうだ。料理は文化の一部だ。味だけじゃなく、人の思いや土地の力まで感じ取れたな」


 湖畔を歩く二人の視線に、さらに食欲をそそる香ばしい匂いが漂ってきた。

小さな屋台の前には、「じゅんじゅん」の文字が踊る。


「じゅんじゅん……? 聞いたことないな」


「滋賀の郷土料理だ。味噌ベースのタレで豚肉や野菜を串に刺して焼く。素朴で温かい味が、湖の風景にぴったりなんだ」


 二人は屋台に近づき、じゅんじゅんを注文する。

店主が串を丁寧に焼き、香ばしい味噌の香りが立ち上がる。


「わぁ、味噌の香ばしい匂い……! 食欲をそそるね」


「これを食べると、昔からの滋賀の家庭の味が感じられるんだ。漁や農作業の合間に、簡単で栄養があっておいしい。土地の暮らしの知恵だな」


 美緒は一口かじる。味噌の甘みとコク、豚肉の脂と野菜の香りが口の中で混ざり合い、滋賀の風景と一体になるような味わいだ。


「お父さん、これもまた生活の知恵なんだね。素朴なのに、心がほっと温まる」


「そう。じゅんじゅんも鮒寿司も、土地の人たちの生活と時間の知恵が形になった料理だ」


 二人は湖畔のベンチに腰を下ろし、夕日が琵琶湖を金色に染めるのを眺めた。

鮒寿司の酸味とじゅんじゅんの味噌の香りがまだ口に残る。


「お父さん、旅を続けて、もっともっと学びたい。味の奥にある人の息づかい、時間のかけ方、情熱……全部感じ取りたい」


「美緒、お前の旅はまだ始まったばかりだ。滋賀で学んだことは、これから先、きっと大きな糧になるだろう」


 湖の波とともに、二人の足取りはゆっくりと進み、発酵の香り、漁師や職人たちの息遣い、そして伝統を守る情熱が心に深く刻まれていった。

 

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