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第二十五話 三重編 伊勢うどんとてこね寿司 ― 素朴な土地の豊かさ


 春の風が海から吹き寄せる。

三重の町を歩くと、潮の香りとともにどこか懐かしいような温かさが漂っていた。

白壁の家や古い木造の商家が並ぶ通りには、観光客がゆったりと歩き、店先には伊勢名物の看板がいくつも掲げられている。


「お父さん、伊勢ってこういう町並みなんだね。観光地って感じはあるけど、肩の力が抜けてて落ち着く」


「そうだな。人の流れは多いが、どこか素朴だ。海も山も近いし、土地の人たちの暮らしがそのまま食に出てる感じがする」


 二人は小さな通りを抜け、香ばしい香りに足を止めた。

暖簾には大きく「伊勢うどん」と染め抜かれている。


「伊勢うどん……。あ、これ! 太くてやわらかい麺なんだよね?」


「そうだ。コシがある讃岐うどんと真逆で、ふわふわでとろけるような食感だ。汁は真っ黒だけど、思ったほどしょっぱくない」


 店に入ると、すぐに湯気が立ち上り、太く白い麺が顔を出す丼が二つ運ばれてきた。

たっぷりと濃い色のたまり醤油ベースのつゆがかかり、刻みネギが鮮やかに映えている。


「わぁ……ほんとに太い! なんだか赤ちゃんの腕みたい」


 美緒は箸でそっと麺を持ち上げる。

するすると伸びていくが、弾力というよりも柔らかさが先に伝わる。


「じゃあ、いただきます!」


 一口含むと、ふわっとした麺が舌にのり、たまり醤油の甘辛さが広がった。


「……あれ? 思ったより優しい味。見た目よりずっと食べやすい!」


「そうだろう。昔の伊勢は港町の往来で人の出入りが多かった。手早く作れて、誰でも食べやすいように柔らかくしたんだ」


「なるほど……。確かにこれならお年寄りも子どもも食べやすいね。しかも見た目よりしょっぱくなくて、甘みすら感じる」


「たまり醤油の旨味がきいてるからな。単純に濃いだけじゃなく、深みがあるんだ」


 美緒は笑顔で頷きながら、箸を進めた。

モチモチではなく、ふんわり、ほろりとほどける麺。

素朴なのに、不思議と飽きない。


「ねえお父さん、これって薬味を入れたりするの?」


「刻みネギくらいだな。あとは七味を少しかけてもいい。味を足すより、この素のままを楽しむのが伊勢うどんの魅力だ」


「なるほど……料理って、見た目の派手さより、その土地の人の暮らし方が形になってるんだね」


 二人が丼を空にするころには、体の内側までほっと温まっていた。

外に出ると、潮風と春の陽射しが再び迎えてくれる。


「さて、次はてこね寿司だな」


「待ってました! 鰹を使ったお寿司だよね?」


「そう。漁師たちが船上で簡単に作ったのが始まりだ。獲れたての鰹を漬けにして、酢飯に混ぜ込む。豪快で、しかも新鮮さを生かした料理だ」


 二人は港町の方へ歩みを進めた。

通りには魚の干物を売る店や、海産物を並べた露店が軒を連ね、活気があった。


「お父さん見て、このアジの開き! もうピカピカしてる」


「こっちの店には伊勢海老もあるぞ。さすが海の町だな」


 歩きながら、海からの潮風に混じって魚を焼く香ばしい匂いが漂ってくる。

その先の食堂に「てこね寿司」の看板を見つけ、二人は吸い寄せられるように入った。


 木の温もりがある店内で、女将が笑顔で迎える。


「いらっしゃい。てこね寿司にするかい?」


「はい、お願いします!」


 待つことしばし。

大きな鉢に、つややかな酢飯の上に赤身の鰹がたっぷりと並べられ、青じそと生姜が彩りを添える料理が運ばれてきた。


「わぁ……見てるだけで元気が出そう!」


 美緒は思わず声を上げた。


「これが漁師料理の迫力ってやつだな。いただこうか」


 一口ほおばると、漬けにした鰹の濃厚な旨味と、酢飯の酸味が一体になり、さらに大葉の爽やかさが後を引いた。


「んーっ! おいしい! 鰹ってこんなに柔らかくて甘いんだね」


「漬けにすると生臭さも消えるし、海の上でもすぐ食べられる。忙しい漁師たちの知恵だな」


「なるほど……。しかも、このボリューム感! 仕事で疲れた体にぴったりだね」


 美緒は次々と箸を進め、気づけば頬を紅潮させていた。


「やっぱり料理って、土地の仕事や暮らし方そのものなんだな。伊勢うどんも、てこね寿司も、生活の知恵と人の温かさを感じる」


「そうだ。豪華さじゃなくて、日々を支えてきた実直な味だ。旅の途中でこういう料理に出会えるのはありがたい」


 美緒は店内を見回し、ふと声を上げた。


「ねえお父さん、漁師さんたちはこの料理、どんな器で食べてたんだろうね」


「昔は木製の小鉢や桶のような器だっただろうな。今みたいに陶器が一般的じゃなかったし、船の上でも扱いやすい丈夫さが必要だからな」


「なるほど。漁師料理って、味だけじゃなくて、食べる器や作り方にも知恵が詰まってるんだ」


「そうだ。土地の環境に合わせて、食も器も進化するんだよ」


 二人は店を出て、港を見下ろす堤防に腰を下ろした。

遠くには小さな漁船が波間に揺れている。


「お父さん、私……こういう料理に出会うとね、料理人ってただおいしいものを作るだけじゃないんだって思う。土地の人たちがどう生きてきたか、そこに寄り添うことなんだって」


 隆司はゆっくりと頷いた。


「美緒。料理は人の暮らしを映す鏡だ。伊勢の味を知ったお前は、また一つ深みを増したな」


「次の土地でも、もっともっと学びたい。味の奥にある、人の息づかいまで」


 潮風に髪を揺らしながら、美緒はまっすぐ前を見つめた。


 水平線の彼方に沈みかけた夕日が、伊勢の海を金色に染め、港町の町並みや漁船、干物の香りまでを赤く染め上げた。

その光景を眺めながら、美緒は心の中で、土地の味と人の暮らしを結びつける大切さを噛み締めた。

潮風の中、二人の影は長く伸び、海に揺れる波と一緒に、静かに暮れていった。

 

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