第二十三話 静岡県 富士の麓、香ばしいやきそばと山葵のしびれ
春の光に照らされながら、美緒と父・隆司は静岡県富士宮市の大石寺を訪れていた。
大石寺――。
日蓮正宗の総本山として知られる広大な寺院で、その境内はとにかくだだっ広い。
参道を歩いても歩いても、まだ先がある。
「お父さん、ここ……本当にお寺? まるで町みたいに広い」
美緒が目を丸くすると、隆司は頷いた。
「そうだな。ここは全国から参拝者が訪れるから、一度に数万人が集まることもあるらしい。境内の広さも桁違いだ」
さらに歩を進めると、売店の一角から香ばしい匂いが漂ってきた。
美緒の鼻がぴくりと反応する。
「……あれ? なんか焼きそばの匂いしない?」
「お、気付いたか。実は大石寺の売店でも『富士宮やきそば』が売られてるんだ。参拝者の腹ごしらえにぴったりで、人気があるんだぞ」
「えぇ!? お寺で焼きそば?」
美緒は思わず笑ってしまった。
「なんかミスマッチだけど……面白いね」
売店の富士宮やきそばの店に着くと活きの良い声が聞こえてきた。
「いつものください!」
顔を上げると、同じぐらの年代の人たちだ。
「あら、いらっしゃい。今日は団体さんかい?」
「はい!みんなで御開扉に来たんです。本門戒壇の大御本尊様にお題目をあげてご祈念して……、そんで、帰り道は絶対ここでって、約束してて!」
鉄板の上で小麦色の麺がジュージューと焼かれている。
ラードを溶かし、キャベツ、肉かす、イワシの削り粉が次々に加えられると、水蒸気とともに立ちのぼる香りは一気に広まり、若い学生たちの空腹を刺激する。
「お参りの時は、これ食べなきゃ帰れないって、よく言われるんだよ。ほら、できたよ!」
出来上がったやきそばを店主がカウンター越しに渡す。
学生は熱い鉄板の上から、焦げ付かないよう、急いで口に運んでいく。
「やきそば、すごく美味しいです!」
それを見た美緒は言った。
「私と同じぐらいの年の子たちなのに……、信仰に熱心なんだね。」
隆司は答えた。
「そうだな。見習いたくもあるな。」
店内を覗くと、あたりは一面香ばしい香りに包まれていた。
「わぁ……お寺の境内でこんな香り嗅いだら、もうたまらないよ」
「信仰も大事だが、腹が減っては祈りもできんってことだな」
隆司が冗談めかして笑うと、美緒も「ぷっ」と吹き出した。
二人は小皿に盛られた富士宮やきそばを手に取り、境内のベンチに腰を下ろした。
「……麺が、もちもちというか、ちょっと硬い?」
美緒が一口すすると、驚いたように首を傾げる。
「そうだ。富士宮やきそばは普通の蒸し麺じゃなくて、製麺の段階で独特の製法を使ってる。だからコシが強くて噛み応えがあるんだ」
「なるほど。……うん、歯ごたえがあって、ソースがよく絡む」
さらにもう一口。
「イワシの削り粉の風味がすごい! ラードで炒めた香ばしさと合わさって、めっちゃクセになるよ」
「そうそう。富士宮やきそばは、削り粉が決め手だな。魚の旨味が全体をまとめてくれる」
「へぇ……お寺の境内で食べるなんて想像もしなかったけど、なんか楽しい」
大石寺を後にした二人は、富士宮の中心街へと移動した。
商店街には「富士宮やきそば学会認定」の旗を掲げる店が並んでいる。
「お父さん、また焼きそば食べるの?」
「もちろん。今度はちゃんと専門店の味を確かめないとな」
暖簾をくぐると、地元の学生や家族連れで店はにぎわっていた。
鉄板の前に立つ店主が、熟練の手つきで麺をあおる。
「大盛り二つ、お願いできますか?」
「はいよ!」
運ばれてきた焼きそばは、やはりどっしりとした麺に、濃いソースの照りが美しい。
美緒は割り箸を握り直した。
「うんっ……境内の屋台も美味いが、こちらも本格的。ソースが奥深いし、キャベツが甘い」
「麺の弾力がすごいだろう? 普通の焼きそばに慣れてると、これがクセになる」
食べ進めながら、隆司が解説を加える。
「富士宮やきそばは、戦後の食糧難の時代に生まれたって言われてる。製麺所が工夫して保存性の高い麺を作ったのが始まりだ」
「へぇ……生きるための工夫が、こうして名物料理になったんだ」
満腹になった二人は、食後の散歩にと静岡市の老舗のわさび漬けへ向かった。
途中も、富士山の美しい絶景が見られた。
「やっぱり、富士山って特別だね。料理も景色も、この山に守られてきた感じがする」
「その通り。富士山の湧水は、わさび栽培にも欠かせないんだ」
隆司の言葉に、美緒の目が輝いた。
「わさび! 本場のわさび漬け、食べてみたい!」
二人はわさび漬けの販売店へ足を運んだ。
店内には、爽やかな香りが漂っている。
「いらっしゃいませ。試食どうぞ」
店員が小皿を差し出す。白い酒粕に緑のわさびが混ざったものだ。
「いただきます……」
美緒が口に入れた瞬間、ツンとした刺激が鼻に抜けた。
「うわっ……! でも……クセになる! 酒粕の甘みと、わさびの辛さが絶妙」
「ははは、慣れるとご飯が止まらなくなるぞ」
隆司も笑いながら一口。
「昔から酒蔵の副産物を利用して作られてきた保存食なんだ。わさびは殺菌効果もあるし、理にかなっている」
「なるほど……。ただの辛い漬物じゃなくて、生活の知恵なんだね」
わさび漬けを土産に包んでもらい、次に向かったのは由比の港だった。
そこは桜えびの名産地で、漁港の食堂には「桜えびのかき揚げ丼」の文字が並んでいる。
「わぁ……桜えびって、ピンク色で透き通ってて、すごくきれい」
「駿河湾でしか本格的に獲れないんだ。春と秋の漁期にだけ、新鮮なものが食べられる」
揚げたてのかき揚げ丼が運ばれてきた。
黄金色の衣の中に、桜えびがぎっしりと詰まっている。
「サクッ……! わぁ、香ばしい! えびの殻がパリパリして、旨味が口いっぱいに広がる」
「この香ばしさが桜えびの醍醐味だな。駿河湾の恵みそのものだ」
美緒は丼を抱えながら、しみじみと呟いた。
「富士宮やきそばも、わさび漬けも、桜えびも……全部、その土地の自然と暮らしが生んだ味なんだね」
「そうだ。山の水、海の恵み、人の工夫。それが合わさって、この土地の料理になる」
食後、二人は港から見える富士山を眺めた。
夕日に染まる姿は荘厳で、美緒の胸に強く刻まれた。
「お父さん、私……料理を通して、日本の景色や人の暮らしをもっともっと学んでいきたい」
「美緒、その気持ちを忘れなければ、きっと素晴らしい料理人になれる」
潮風の中、二人は富士山に向かって深く一礼した。
富士の麓の味わいとともに、その決意を心に刻みながら。




