第二十話 石川 ― 治部煮とハントンライス、輪島塗の輝き
春の陽気に包まれた北陸路。美緒と隆司の旅は、ついに石川県に足を踏み入れていた。
海と山の恵みに彩られたこの土地は、加賀百万石の城下町として栄え、今もなお食と文化の宝庫だ。
「金沢って、本当に空気が柔らかいね」
美緒は兼六園のそばを歩きながら、ほっと息をついた。
桜が満開で、池の水面に花びらが舞い散っている。
「そうだな。加賀百万石の文化ってやつだろう。町並みも上品で落ち着いてる」
隆司は城下町の石畳を見渡しながら頷いた。
「でも今日の目的は、観光よりも……」
美緒はにやりと笑い、隆司を見上げた。
「食だな」
「そう。特に金沢の郷土料理“治部煮”と、ちょっとユニークな“ハントンライス”!」
金沢料理の老舗にて ― 治部煮
二人は城下町の一角にある、古風な暖簾の下がる料亭へと入った。
障子戸を開けると、和紙越しの光が柔らかく室内を照らしていた。
「いらっしゃいませ。ご予約の治部煮御膳ですね」
女将が笑顔で迎えてくれる。
「わぁ、やっぱりこういう雰囲気で食べるのが最高よね」
美緒は席につき、運ばれてくる膳を待った。
やがて、蒸気を立てる椀が運ばれてきた。
漆黒の輪島塗の椀。艶やかな光沢が、料理の湯気と相まって目を奪う。
「これが治部煮……!」
美緒の目が輝いた。
椀の中には、鴨肉が一切れ一切れ並び、青菜やすだれ麩と共に、とろみのある出汁に包まれている。
「輪島塗の椀に入ると、料理まで凛として見えるな」
隆司が感心して眺めた。
「器も料理の一部なのよ。能登の漆は特に質がいいから、こうやって長年受け継がれてきたんだって」
美緒は丁寧に箸をとり、まずは鴨肉を一口。
「……! 柔らかい! しかもお出汁がすごく上品。醤油の香りも深いわ」
「なるほど、片栗粉でとろみをつけてあるんだな。だから冷めにくいし、口当たりも優しい」
隆司も頷きながら肉を味わった。
「江戸時代から続く料理だそうよ。武家料理のひとつで、おもてなしの定番だったんだって」
「なるほどな。鴨肉ってちょっとクセがあるイメージだったけど、この治部煮はすごく洗練されてる」
二人は椀を覗き込みながら、汁をすする。
「体がぽかぽか温まるね。春のまだ少し冷える日にぴったり」
「美緒、このとろみ……料理人としてはどう感じる?」
「“食べる人のことを考えてる”っていう優しさを感じるわね。とろみで味がよく絡むし、冷めにくい。江戸の人たちもきっと同じことを思ったんじゃないかしら」
美緒は小さく笑い、輪島塗の椀を撫でた。
「この漆器もすごいわ。料理を映す舞台として完璧ね。手に持つと温かみがあって、すべすべして……。これもまた食文化なのよ」
洋食屋でハントンライス
昼の料亭を後にした二人は、夕方になると金沢の洋食屋を訪れた。
ネオンサインの光が灯り、店内はレトロな洋食の香りに包まれている。
「ここが金沢の“ハントンライス”発祥のお店よ」
美緒は目を輝かせた。
「ハントンライス……ハンガリーの“ハン”、フランス語でマグロの“トン”。つまり“マグロのハンガリー風ライス”ってことか」
隆司は看板メニューを眺めながら呟いた。
注文して数分後、皿いっぱいに盛られた料理が運ばれてきた。
黄色いふわとろオムレツが、ケチャップライスを包み、その上にフライが堂々と乗っている。さらにケチャップとタルタルソースが彩りを添えていた。
「わぁ! ボリュームすごい!」
美緒は思わず歓声を上げる。
「これはがっつり系だな。俺向きかもしれん」
隆司はフォークを手に取り、フライを割った。中からはジューシーな白身魚が顔を覗かせる。
「うん! タルタルとケチャップが合わさると、すごくコクがあるな」
「オムライスに魚のフライって、ありそうでなかった組み合わせよね。ハイカラで、どこか懐かしい味」
二人は夢中で食べ進める。
「戦後、洋食が広まった時代に生まれたんだって。金沢の人が考えたオリジナル料理。庶民的で、みんなに愛されてる」
美緒はケチャップライスを頬張りながら説明する。
「なるほどな。加賀百万石の上品な治部煮と比べると、こっちはまさに庶民のパワーフードって感じだ」
「そのギャップがいいのよ! 石川って懐の深い土地だと思うわ。武家の料理もあれば、こんなユニークな洋食もあって」
食文化と器の話
食後、二人は再び町を歩きながら感想を語り合った。
「今日だけで、石川の食の多様さを実感したな。治部煮で伝統の重みを、ハントンライスで庶民の遊び心を」
隆司は満足げに息を吐いた。
「そうね。そして器の文化も大事だと思う。輪島塗みたいに、料理を引き立てる力がある。器を大事にするから、料理も大切にされるのよ」
「料理と器は表裏一体ってことか」
夜の金沢の街はライトアップされ、幻想的な雰囲気に包まれていた。
「石川の旅は、食の多様性と文化の豊かさを学ぶ旅だったね」
「そうだな。伝統と革新、その両方を味わえた」
「次は……どんな料理に出会えるかしら」
二人の視線の先には、まだまだ続く旅路が広がっていた。




