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第二話:東京下町、老舗天ぷら屋の親子


 美緒と父・隆司の料理旅は、まず東京から始まった。

美緒は胸の高鳴りを抑えきれず、大きなトランクを引いて隆司の隣を歩く。

父と二人で旅をするなんて、想像もしていなかったことだ。


 「お父さん、どこに行くの?」


 美緒が尋ねると、隆司はにやりと笑った。


 「まずは、俺の昔馴染みのところに挨拶だ。東京の郷土料理を学ぶなら、ここを外すわけにはいかない」


 向かったのは、昔ながらの商店街にある老舗の天ぷら屋だった。

「天冨久」と書かれた古びた看板が、歴史を物語っている。

暖簾をくぐると、ごま油の香ばしい匂いが美緒の鼻腔をくすぐった。

カウンターの向こうには、美緒の祖父と同じくらいの年の男性が、真っ白なコック帽を被り、静かに天ぷらを揚げている。


 「おや、隆司じゃないか。ずいぶん久しぶりだな」


 「大将、お久しぶりです。ご無沙汰しております」


 「そっちの可愛らしいお嬢さんは?」


 「私の娘の美緒です。一人前の料理人になるために、旅に出ました。まずは東京の郷土料理を学ばせてもらおうと思って、大将に会いに来たんですよ」


 大将は美緒の顔をじっと見つめ、優しく微笑んだ。


 「そうか、隆司の娘さんか。面構えがいいな。よし、今日からここで働くんだ」


 「えっ、大将?」


 美緒が驚いて声を上げると、大将はさらに続けた。


 「……冗談冗談、ただ、料理は見て盗むもんだ。お前たち親子は特別だ。今日は特別に、俺の天ぷらの秘伝を教えてやる」


 「ありがとうございます!」


 美緒は目を輝かせ、隆司は深々と頭を下げた。


 その日から、美緒の修行が始まった。

最初は、食材の下準備や皿洗いなど、地味な作業ばかりだった。

しかし、美緒は一つ一つの作業に真剣に取り組んだ。

大将の息子で、美緒と年の近い伸一は、そんな美緒を興味深そうに見ていた。


 「へえ、あんた、本当に料理人になりたいのか?」


 休憩中、伸一が美緒に話しかけた。

伸一は、天ぷら屋の跡取りとして、幼い頃から店の手伝いをしてきた。

しかし、料理への情熱は美緒ほどではないようだった。


 「うん。父を超えるような、最高の料理人になりたいの」


 「ふーん。俺はさ、別に店を継ぎたくてやってるわけじゃないんだ。親父が辛そうにしてるのを見てるから、手伝ってるだけ」


 伸一の言葉に、美緒は少し寂しさを感じた。


 「でも、伸一さんの作る天ぷら、すごく美味しいよ。父さんのとはまた違う、優しい味がする」


 美緒が正直な感想を伝えると、伸一は少し照れくさそうに笑った。


 「そうかな。…ま、親父の背中を見て育ったから、自然と手が動くようになっただけだけどな」


 その日の夜、美緒と隆司は宿に戻る前に、大将と伸一と一緒に食事をすることになった。

大将が作ってくれたのは、江戸前天ぷらだった。

アナゴやキス、ハゼ、そして新鮮な旬の野菜が、美しく盛り付けられていた。


 「いただきます」


 美緒が一口食べると、サクッとした軽快な音が響いた。

衣は薄く、具材の旨味が口いっぱいに広がる。


 「美味しい…!この天ぷら、揚げ方が全然違う。父さんの天ぷらはもっと力強い感じだけど、大将の天ぷらは、なんていうか…繊細で、優しい」


美緒の言葉に、隆司は頷いた。


 「大将の天ぷらは、素材の味を最大限に引き出す、まさに芸術だよ」


 「隆司、褒めすぎだ」


 大将は照れくさそうに笑いながら、美緒に語りかけた。


 「美緒ちゃん、料理は、ただ美味しいものを作るだけじゃない。その土地の風土や歴史、そして、食べる人のことを考えて作るもんなんだ。そして、料理には作り手の心が宿る。だから、俺の天ぷらは優しい味がすると思うんだ」


 大将の言葉は、美緒の心に深く響いた。


 数日後、美緒と隆司は、銀座の裏通りにある小さな寿司屋の暖簾をくぐった。

「すし匠」と書かれた木札が、静かに存在感を放っている。

カウンターに座ると、四十代くらいの職人が、静かに美緒たちを迎えた。


 「隆司さん、お久しぶりです。お嬢さんとご一緒に」


 「健太、相変わらずいい面構えしてるな。こいつは美緒だ。娘の料理修行の旅に付き合っててな。今日は健太の握りを食べさせてやりたくてな」


 「ありがとうございます。…お嬢さん、うちの握りは、何もかもが普通ですよ。普通に、お腹いっぱいになってください」


 そう言って、健太は握り始めた。

美緒は、その手つきに見入った。

無駄な動きが一切ない。

シャリを握り、ネタを乗せ、スッと形を整える。


 「美緒、寿司というのは、ただ魚を乗せるだけじゃない。シャリとネタのバランスが命だ。シャリの温度、米の粒の立ち方、そして酢加減。すべてが完璧でないといけない」


 隆司が美緒に語る。

美緒は、目の前に置かれたマグロの握りを、そっと口に運んだ。

「美味しい…!」

美緒は思わず声を上げた。

口の中でシャリがホロリとほどけ、マグロの旨みが広がる。

「シャリが温かい…」


 健太は静かに微笑んだ。

「寿司は、手の温もりを伝える料理です。お客様に、一番美味しい状態で食べてほしい。だから、シャリは人肌に温めておくんです」


 美緒は感動で胸がいっぱいになった。

天ぷら屋の大将から「作り手の心」を学んだ美緒は、寿司屋の健太から「食べ手への思いやり」を学んだ。


 その日の夜、美緒は隆司に言った。


 「お父さん、私、分かった気がする。父さんや大将、健太さんの料理には、それぞれ個性がある。それは、その人が生きてきた人生そのものなんだね」


 隆司は美緒の言葉に静かに耳を傾けていた。

そして、美緒の頭を優しく撫でた。


 「そうか。お前も、一人前の料理人になってきたな。よし、明日は、俺がお前の作ったもんじゃを食べてやる。お前だけの、最高の肉じゃがみたいに、誰にも真似できない、お前だけの料理を作ってみろ」


 「うん!」


 翌日、美緒は一人で、東京の街を散策した。

築地の場外市場に行き、新鮮な魚介類を見て回り、浅草の仲見世通りを歩き、人形焼を味わった。

そして、夜には隆司と二人で、もんじゃ焼き屋に入った。


 「お父さん、これ、もんじゃ焼きだよね?」


 「そうだ。東京の下町を代表する料理だ」


 隆司は手際よくもんじゃを焼き始めた。

キャベツやイカ、エビなどの具材を細かく切り、小麦粉を溶いた生地と一緒に鉄板の上で混ぜる。

そして、土手を作って、真ん中に生地を流し込む。


 「熱いから、気をつけろよ」


 隆司が小さなヘラで熱いもんじゃを美緒の皿に乗せると、美緒はフーフーと冷ましながら食べた。


 「美味しい!ソースの味が香ばしくて、具材の旨味が口の中で広がる…」


 その日の夜、美緒は宿に戻ると、早速、隆司に言われた「美緒だけのもんじゃ」作りに取り掛かった。

美緒は豚バラ肉とジャガイモ、玉ねぎ、そして、隠し味に味噌とみりんを購入した。故郷の味、母の肉じゃがをもんじゃにアレンジしようと考えたのだ。


 「お父さんをびっくりさせる自信があるよ」


 そう意気込んで、美緒は調理を始めた。

隆司に教わった包丁さばきで、手際よくジャガイモと玉ねぎを刻み、豚バラ肉も細かく切っていく。

そして、熱した鉄板の上に具材を乗せ、ヘラで細かく刻みながら炒めていく。


 「いい香りだな。味噌とみりんの香りが、もんじゃ焼きの香ばしい匂いと混ざって、食欲をそそる」


 隆司の言葉に、美緒は自信を深めた。

具材が十分に炒まったところで、美緒は土手を作り、中心に生地を流し込んだ。

ジュワーという音とともに、味噌とみりんの甘じょっぱい香りが、あたりに広がる。


 「さあ、お父さん、食べてみて」


 隆司は小さなヘラを手に取ると、熱いもんじゃを一口食べた。


 「う、うまい…」


 隆司は目を丸くして、美緒を見た。

「これは、お前だけの味だ。肉じゃがの優しい味がする。お母さんの味に、お前の料理の哲学が加わった…」

隆司は言葉を詰まらせた。


 「お父さん、私ね、大将に言われたの。料理には、その人が生きてきた人生が宿るって。そして、健太さんからは、食べ手への思いやりを教えてもらった。だから、私も、私だけの、誰かの心を温かくする料理を作りたいって思ったんだ」


 美緒はそう言って、照れくさそうに笑った。


「そうか。お前はもう、俺の背中を追うだけの料理人じゃない。自分の力で、新しい世界を切り開く、最高の料理人だ」


 隆司はそう言って、美緒の頭を優しく撫でた。

その手は、美緒の幼い頃と変わらない、温かい手だった。


 「美緒、次はお前が、俺に料理を教えてくれ」


 隆司の言葉に、美緒は満面の笑みを浮かべた。

父と二人で始まった東京の料理修行の旅は、美緒の心に新たな光を灯し始めていた。

 

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