第十話:茨城、丸ごとの恵みと発酵の深み
会津の学びを胸に刻んだ美緒と隆司は、常磐線に乗って南へ向かっていた。
窓の外には太平洋の海が広がり、波が白く弾けていた。
「茨城か……。俺の若いころ、あんこう鍋を初めて食べて衝撃を受けたな」
隆司が懐かしそうに呟いた。
「えっ、あんこう? あの、ちょっとグロテスクな魚?」
美緒が目を丸くする。
「そうだ。見た目はごついが、捨てるところがない魚として有名だ。身、皮、肝、胃、卵巣……全部食べられる」
「へぇぇ! 魚って骨や頭を除いたら残る部分は限られるのに……。あんこうって、そんなに余すところがないんだ!」
「その知恵を料理に昇華させたのが“あんこう鍋”だ。寒い冬にぴったりのご馳走だぞ」
「うーん、楽しみだなぁ。でももう一つは……茨城といえば納豆、だよね?」
「そう。発酵の国宝だ。あれも、ただ臭い食べ物だと思ったら大間違いだ。人類の知恵が凝縮された宝だぞ」
「ふふっ。あんこうと納豆……。なんだかインパクト強すぎる組み合わせ!」
二人は笑い合いながら、水戸の駅に降り立った。
あんこう鍋との出会い
駅前で出迎えてくれたのは、地元で割烹を営む板前・松本だった。
「ようこそ、茨城へ。今日は漁港であんこうを下ろすところから見せてあげよう」
「よろしくお願いします!」美緒は元気よく頭を下げる。
大洗の漁港に着くと、巨大なあんこうが吊り下げられていた。
「うわぁ……! やっぱり迫力ある!」
美緒が思わず後ずさる。
松本が手際よく「吊るし切り」を始める。
「あんこうはまな板の上で捌くには大きすぎてね。こうして吊るして捌くんだ」
包丁が入るたびに、皮や肝、身が次々と切り分けられていく。
「見てごらん。皮はぷるぷるでゼラチン質、肝は濃厚な旨み。身は淡泊で柔らかい。どれも料理に使えるんだ」
「すごい……! 本当に捨てるところがない!」
美緒の瞳が輝く。
「昔の人はね、“どんな命も余すところなくいただく”という精神を持っていたんだ。それがあんこう料理の根底にある」
その言葉に美緒は大きく頷いた。
鍋を囲む温かさ
店に戻ると、大きな土鍋にあんこうの各部位が次々と投入された。
肝をすり潰して味噌と合わせ、鍋に溶かし込むと、濃厚な香りが漂った。
「わぁ……香りだけで体が温まりそう!」
美緒が思わず深呼吸する。
「この肝が、鍋全体の旨みをまとめるんだ。栄養も豊富で“海のフォアグラ”とも呼ばれている」
松本が笑顔で説明する。
一口すすると、美緒の目が見開かれた。
「……! とろける! 皮はぷるぷる、身はほろほろ……。しかも肝のコクが全体を包み込んでる!」
「だろう? 冬の漁師たちは、この鍋で体を温め、命をつないだんだ」
隆司がしみじみと語る。
「一匹の魚を丸ごといただくって……“命を食べる”ことを実感するなぁ」
美緒はしばし箸を止めて呟いた。
納豆の奥深さ
翌日、二人は納豆の老舗を訪れた。
軒先から藁苞が吊るされ、香ばしい匂いが漂っていた。
「いらっしゃい。今日は納豆づくりを体験してもらおう」
案内してくれたのは、納豆職人の吉田だった。
煮た大豆を藁に詰め込む作業を手伝いながら、美緒は尋ねた。
「どうして納豆って藁で包むんですか?」
「藁の中には納豆菌が自然に棲んでいるんだ。それが大豆を発酵させて納豆になる」
「へぇぇ! 発酵って、見えない力が働いてるんだ……」
美緒は感嘆の声を上げる。
「発酵はね、人間の知恵と自然の力が合わさって生まれる奇跡だ。保存が効くだけじゃなく、旨みや栄養も増す」
試食の時間になると、熱々のご飯の上に納豆がのせられた。
美緒は恐る恐る箸を伸ばす。
「……ん! 思ったより臭くない! むしろ、豆の甘みと旨みが引き立ってる!」
「そうだろう? 大事なのは“菌をどう育てるか”だ。発酵は手を抜くとすぐに台無しになる。まるで子育てみたいなものさ」
隆司が横で頷く。
「発酵は待つ料理だ。そして、食べる人を思う心がないと続けられない」
美緒の気づき
その夜、宿の食卓で美緒はノートを広げながら呟いた。
「……あんこうも、納豆も、“全部を活かす”料理なんだな」
「ほう、どういうことだ?」
隆司が酒をちびちび飲みながら問う。
「命を丸ごといただくあんこう。菌の力まで借りて豆を育てる納豆。どちらも“無駄にしない”“活かし切る”知恵が詰まってる」
「そうだな。料理人にとって大切なのは、素材と真剣に向き合い、最後まで責任を持つことだ」
「……お父さん。私、今まで“美味しく作ること”ばかり考えてた。でもこれからは“素材の命をどう活かすか”を考えたい」
美緒の言葉に、隆司はにやりと笑った。
「いい心がけだ。お前も、少しは“料理人の目”になってきたな」
二人は湯気の立つ鍋を前に、しみじみと杯を交わした。
こうして茨城で、美緒は 「丸ごとの知恵」と「発酵の深み」 を学んだ。
その学びは、これからの旅と成長の大きな糧となるのだった。




