第一話 旅立ちの決意と、父の背中
長谷川美緒は、中学の卒業文集に「将来の夢:最高の料理人」と書いた。
その頃から、彼女の夢は一ミリも揺らぐことはなかった。美緒にとって、料理はただの食事ではなく、人の心を温め、笑顔にする魔法だった。
その魔法使いに初めて憧れを抱いたのは、父の背中だった。
美緒の父、隆司は、創業者である祖父・清の代から三代続く老舗料亭「はせ川」の店主である。
「みーちゃん、今日の賄いは何がいい?」
厨房から聞こえてくる父の優しい声に、美緒はいつも胸を躍らせていた。
父が作る料理は、どれも信じられないほど美味しくて、一口食べれば、疲れも悩みも吹き飛んでしまうようだった。
美緒は父の姿を見て、いつしか自分もそんな料理人になりたいと強く思うようになった。
美緒が進路を決める時期、父は「高校卒業後は、もっと広い世界を見てみたらどうだ?」と、美緒に別の選択肢も与えようとした。
それは美緒を想ってのことだった。しかし、美緒の意思は固かった。
「先生、私の進路は、料理人一筋です」
高校3年生の秋、進路相談の場で、美緒は担任の先生にそう告げた。
先生は少し驚いた顔をしたが、すぐに納得したように頷いた。
「長谷川君のお父さんは、あの有名な割烹料理店の店主だもんな。小さい頃から見てきたんだもんな、夢を持つのは当然か。でも、料理の世界は厳しいぞ。それでも、本当にいいのか?」
「はい。厳しいのは承知です。でも、父を超えるような、最高の料理人になりたいんです。そして、父がくれたように、料理でたくさんの人を笑顔にしたいんです」
美緒のまっすぐな目に、先生は微笑んだ。
「そうか。お父さんには、私が話しておくよ。美緒の気持ちを、ちゃんと伝えておくからな」
高校卒業後、美緒は父の店で一年間、修行に励んだ。
包丁の握り方から出汁の取り方、野菜の切り方、魚の捌き方、そして父の料理の哲学まで、一つひとつ丁寧に教わった。
父は厳しかったが、美緒の成長を心から喜んでくれているのが伝わってきた。
「美緒、今日の賄いは、お前が作ってみろ」
ある日、父は美緒にそう言った。
美緒は緊張しながらも、これまでの練習の成果を出すべく、真剣に料理に取り組んだ。
美緒が作ったのは、母から教わった家庭料理に、セージとローズマリーを少しだけ入れて、ほんのりハーブが香る料理にアレンジした肉じゃがだった。
「いただきます」
父は一口食べると、目を丸くして美緒を見た。
「う、うまいな。…いや、これは、美緒にしか作れない味だ。美緒の料理には、優しい味がする。お母さん譲りかな」
その言葉に、美緒は嬉しくて涙が出そうになった。
父に認められたこと、そして、料理が人の心を動かすことを改めて実感した。
そして、19歳の春。美緒は一つの決意を胸に、父に話を持ちかけた。
「お父さん、私、日本と世界を旅に出ようと思うの」
「旅?急にどうした?」
父は驚いた顔で美緒を見た。
美緒は少し緊張しながらも、自分の想いを語り始めた。
「私、これまで父の料理しか知らなかった。もちろん、父の料理が世界で一番だと思ってる。でも、このままじゃ、父の背中を追うだけになってしまう気がして…」
「…そうか」
「私は、父を超える最高の料理人になりたい。そのためには、もっと広い世界を見て、いろんな料理を知って、たくさんの人に出会って、もっと自分を成長させたいの。だから、まずは日本の47都道府県と、世界を回って、その土地の郷土料理を学んで、それを私なりのレシピにしたい」
美緒の真剣な眼差しに、父は黙って耳を傾けていた。
そして、美緒の言葉が終わると、父は静かに口を開いた。
「…美緒、お前はもう、俺の背中しか見えない小鳥じゃないんだな。自分の力で大空に羽ばたこうとしている。…いいだろう。行け。お前の旅立ちを、俺は応援する」
父の言葉に、美緒の目には涙が浮かんだ。
「でも、お店はどうするの?」
「安心しろ。お前の旅の間に、店は一番弟子に任せることにした。あいつなら、任せても大丈夫だ。そして、お前が帰ってくる頃には、もっと大きくなったお前の店を用意してやるからな」
「え…?」
「美緒、お前の店だ。お前の料理を、たくさんの人に食べてもらう場所。最高の料理人になったお前が、たくさんの人を笑顔にする場所だ」
父の言葉に、美緒は胸がいっぱいになった。
父は、自分の夢を心から応援してくれていたのだ。
「行ってらっしゃい、美緒。いつでも帰っておいで」
「美緒、お前なら大丈夫だ」
母・里奈と祖父・重雄が笑顔で手を振る。
出発の日、父と母は笑顔で美緒を見送ってくれた。
美緒は大きなトランクを背負い、決意を新たにした。
「行ってきます!母さん、お爺ちゃん。」
出発の日。美緒が玄関を出ようとしたとき、父も自分の荷物を肩にかけて立っていた。
「さぁ、美緒、出発するか!」
「……父さんと一緒なら、どこまでも行ける気がする」
美緒の料理旅が、今、始まる。父を超える最高の料理人になるために。
そして、たくさんの人を笑顔にするために。
美緒の胸は、期待と少しの不安で高鳴っていた。




