第5話:白磁の椀と、毒見の朝
梅香の死が後宮を揺るがせてから、三日が経った。
その間、梨花宮の空気は重く澱んでいた。怪しい影が忍び寄るかのように、どこか張り詰めている。
朝靄の中、白磁の椀が整然と並べられた膳が、宮殿の奥深くに運び込まれる。いずれも新調されたもので、麗花妃が日常的に用いるものとは一線を画していた。
「玲玲、これが今日の妃嬪の膳よ。毒見役が復活したから、注意深く確認してね」
隣に控える侍女・鈴音の声は、緊張に震えていた。
玲玲は頷きながら、白磁の椀をそっと手に取った。蓮根、山薬、黄耆など、体を温める薬膳の匂いが優しく鼻をくすぐる。だが、その中に微かに異質な香りが混じっていることに、玲玲の敏感な嗅覚が気づいた。
その香りは――炒った杏仁のほのかな苦みを帯びていた。
杏仁に含まれる青酸配糖体は、適切な加工がなされなければ致命的な毒となる。漢方でも用いられるが、炮製(ほうせい=加熱処理)を誤れば、神経麻痺や呼吸困難を引き起こす。
玲玲は匙を持ち上げ、口元へと運んだ。
だが、直前で匙を止める。
「鈴音、この粥には異常がある。杏仁の香りが混じっている。もしや毒が仕込まれているのかもしれない」
「えっ……でも、毒見役はもう味見しているはずよ?」
玲玲は眉をひそめた。妃嬪の粥は複数人の毒見役が試すのが通例だが、それでも不安は拭えない。
「私が改めて確かめよう」
ゆっくりと匙に盛られた粥を口に含むと、じわりと舌先にピリピリとした痺れが走った。
「やはり、炮附子か……。これでは分量が過ぎる。火入れが不十分で、毒性が残っている」
火入れによって毒性を抑える炮附子は、後宮の薬膳では極めて慎重に扱われる。誤れば妃の命を危険に晒すからだ。
「すぐに厨房へ知らせ、調合した者を問いただしなさい」
玲玲の言葉に、鈴音は緊迫した面持ちで走り去った。
厨房では、騒然とした声が飛び交っていた。
「杏仁の粉末が、いつの間にか消えていたのだそうだ」
「それに配合記録も改竄されているらしい。誰かが意図的に帳簿を操作している……」
玲玲は背筋を伸ばし、鋭い目で厨房の者たちを見渡した。
「誰がやったのかはまだわかりません。ただ、この調合の過失は決して偶然ではない。誰かが狙っている」
厨房での不自然な動きを調べるうちに、玲玲はある事実に気づいた。
調合の際に用いられた香料や薬草の一部に、外来品が混ざっていること。中でも、雲南産の「紅銀粉」は神経麻痺を引き起こす毒性物質として知られているが、これが紛れ込んでいた痕跡があった。
その痕跡は、梅香の香炉に残っていたものと一致していた。
翌朝。
梨花宮の庭では、紅い月がまだ沈まぬうちから、侍女たちが忙しなく動き回っていた。
「玲玲様、また不穏な動きがありました。宦官の一人が、昨夜密かに物資を運び込んでいたのを見かけました」
報告を受けた玲玲は、表情を引き締めた。
「ますます、犯行は巧妙になっている。狙われたのは妃嬪だけではないかもしれない」
彼女は静かに呟く。
「ここは後宮だ。命を賭けた謀略が日常の裏側に潜んでいる。私は、この毒の連鎖を断ち切らなければならない」
それから数日後。
玲玲は新たに採取した粥と香料のサンプルを携え、御薬房へと足を運んだ。そこでは宮廷医官が細心の注意を払いながら、成分の検査を進めていた。
「玲玲様、この検査結果を御覧ください」
主医の劉博士が手渡したのは、白磁の皿に載せた微量成分分析の結果だった。
「紅銀粉だけでなく、砒素も混入されていました。砒素は急性毒としても知られていますが、長期に少量摂取すると慢性毒となり、体調を徐々に蝕みます」
玲玲は眉を寄せた。
「これほどの毒が宮中に紛れ込むとは……。誰かが確信犯で仕組んでいる」
夜。
玲玲はいつものように寝所の香炉の灰を慎重に包み、隠した。
その香炉の底には、未だに謎めいた紅銀粉が残っている。
「これを使い続ける者は、何を狙っているのか」
彼女は自らの心臓の鼓動を感じつつ、窓の外に輝く紅い月を見上げた。
「終わりは、まだ遠いな――」




