第4話:薔薇の香りと女官の涙
夜が明けるころ、宮中は不穏な空気に包まれていた。
玲玲は、梅香の遺体が運び出されたあとの「梨花宮」の後始末を見届けると、ひとり静かに香炉の灰を布に包んで隠し持っていた。香炉の底に残っていた灰の匂いは、薔薇とも違う――もっと甘く、そしてどこか金属的な香りが混じっていた。
「やはり……あの香はただの薔薇香ではない」
下女たちの間でささやかれる噂は、すでに玲玲の耳にも届いていた。
「乳母様は呪われていたのだ」
「いや、毒に違いないわ。そうでなければ、あんな顔で死ぬはずない」
玲玲は心の中で否定する。呪いでも自然死でもない。あれは明らかに毒の症状だ。ただし――普通の毒ではなかった。
そのとき、背後から声がした。
「……あんたが玲玲ね?」
振り返ると、見覚えのない若い女官が立っていた。華美ではないが、端正な顔立ち。薄紅の唇が引き結ばれている。
「あなたは?」
「翠蓮。梅香様のお世話をしていた者よ。……最後の晩、あの方に香炉を手渡したのは私だった」
玲玲の目が細められる。なぜ今になって名乗り出た?
「話があるなら、詳しく聞かせて。あの夜、何があったの?」
ふたりは人気のない納戸に入り、そっと扉を閉めた。
翠蓮の語るところによると、梅香は事件の三日前から何者かに脅迫されていたという。枕元に置かれた紙切れには、「紅い月の夜、すべては終わる」と、朱墨で書かれていたらしい。
「脅された? 梅香様が、誰に?」
「分かりません……でも、その夜、香炉の香を替えるよう命じられたのです。紅薔薇香から“あの灰”にね」
玲玲は、包んでいた香灰を取り出し、慎重にそれを嗅いだ。
「やっぱり……含まれてる。これ、雲南渡来の“紅銀粉”ね。薔薇の香りに似せてあるけど、ごく微量で神経を麻痺させる。高齢者なら即死もありえるわ」
「毒……やっぱり……」
翠蓮は小さく嗚咽した。
「でも、私じゃない! 私はただ言われたとおりに……!」
玲玲は沈黙しながらも、その涙の震えをじっと見つめていた。
涙には本物と偽物がある。声が震えていても、視線が揺れていなければ、それは演技だ。
翠蓮の目は、揺れていた。迷いと、恐れと、もう一つ――罪悪感。
「翠蓮……その香灰、誰が渡したの?」
「……あれは……上衣に包まれていて……何者かが、部屋に……」
玲玲は立ち上がる。
「分かった。これ以上話すと、あなたの身が危ない。ここからは私に任せて」
彼女は香灰を再び包み、袖に隠した。
その夜、玲玲は寝所に戻ると、簾を下ろして誰にも気づかれぬように蝋燭を灯した。
取り出したのは、梅香の枕元で見つけた小さな文書。人払いのとき、偶然見つけたものだ。開いてみると、中には「過去の医術記録」が並んでいた。中には、十年前に起きた「ある妃の不審死」の記録も……。
「十年前と……今?」
玲玲は目を細める。
梅香が守っていたのは、ただの乳児ではない。――何か、大きな秘密の鍵を握っていた。
そしてその口を封じるために、毒が使われた。
誰が? 何のために? そしてなぜ今?
その時、窓の外に一筋の光が走った。雷――だが、空には月。
紅い、月。
また何かが、始まろうとしていた。




