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第3話:香炉と乳母と、紅い月

 夜が更け、月が朱く染まり始めたころ、静寂の後宮にまたしても波紋が広がった。


「誰か……っ、早く、御典医を──!」


 叫び声に目を覚ました玲玲は、急いで上着を羽織って部屋を飛び出した。声の方角は、翡翠館。先日倒れた薛麗花が養生している別棟だ。


 走りながら、玲玲は直感的に感じていた。何かがおかしい。誰かが──この後宮で、意図的に毒を用いている。


 現場に駆けつけると、若い女官が二人、泣きながら扉の外に立ち尽くしていた。


「どうしたの?」


 玲玲が尋ねると、年嵩の女官が震える声で答える。


「夜伽に備えて、香を焚いていたのです。でも急に、麗花様の乳母が苦しみ出して──!」


「乳母が?」


 部屋に入ると、そこにはうずくまる老女──薛麗花の乳母・孫嬢嬢そんじょうじょうがいた。口元に血を滲ませ、苦しげに胸を押さえている。彼女の前には香炉が据えられており、まだかすかに香が立ちのぼっていた。


 玲玲は迷わず、部屋の窓を開けて通気を確保し、女官に水と布を持って来させる。


「息はある。……でも、この痙攣、吐血……おそらく香に毒が……」


「でも、同じ部屋にいた麗花様は無事です!」


「それが逆におかしい。毒の濃度は高いのに、彼女は無傷……」


 玲玲は香炉に近づき、香灰の中に竹の細片が混ざっているのを見つけた。


(竹芯香──中に異物を仕込める造り。しかも、この香り……竜脳に似ているが、何かが混ざってる)


 わずかな残り香から、薬草の名を頭の中で呼び出す。


(……連翹、苦参、そして……細辛。呼吸器に作用する毒だ)


 彼女は乳母の手を握りしめながら、脈と舌を診た。


「おそらく、細辛に含まれるアリストロキア酸。香に混ぜると穏やかに香るけど、密室で長時間吸えば中毒症状を起こす」


 玲玲は脈拍のリズムと眼球の震えを確かめ、診断を下す。


「心臓と腎を直接痛めつける毒……でも、なぜ乳母だけが?」


 そのとき、背後から薛麗花が立ち現れた。彼女はすでに着替えを済ませていた。


「嬢嬢を助けて……彼女は、わたくしの家族なの」


 麗花の声は震えていたが、恐怖というよりは怒りに近い感情が滲んでいた。


「昨夜も、あの香炉を使いましたか?」


「ええ。ずっと同じ香よ。……でも、こんなこと初めて」


 玲玲は乳母の首元にある細い針の跡に気づいた。異変は、香だけではなかった。


「これは……灸ではない。微量の薬を刺し入れる手口……」


(誰かが、香に加えてさらに毒を盛った?)


 それを阻止するように、部屋の奥で何かが倒れる音がした。女官が慌てて扉を開けると、そこには倒れた小さな陶瓶──香油が散らばっていた。


 瓶の中から、乾いた白い粉が広がっている。


「これは……紅花の粉? いや、違う、硫黄も混ざってる」


「硫黄香……! それじゃ、火を使えば一気に毒化する!」


 玲玲の頭の中で、すべてがつながった。


「この香炉は、最初から誰かが仕掛けたもの。香に紛れて乳母を狙った。しかも──」


 彼女はそっと、香炉の底をめくった。そこには、赤い印が刻まれていた。三つ巴のような模様。


(これ……反物の文様と似てる。以前、内職をしていた侍女が見せてくれた……)


 玲玲は、わずかに微笑んだ。


「犯人は……私に気づかせたいのね。『香を扱える者が後宮にもう一人いる』って」


 夜空を見上げれば、紅い月がじっと彼女を見下ろしていた。


(この月の色は、偶然じゃない)


(きっとまた──香を使った"何か"が、始まる)


 玲玲は静かに乳母の手を握った。


「大丈夫。……私が、あなたを守ります」


 乳母の痙攣がわずかにおさまる。玲玲の処置が効き始めていた。


「香と毒と、この月の夜。何かが、起ころうとしている」


 その背に、紅い月がさらに大きく、膨らんでいた。

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