第2話:赤子の涙は、香に染まる
午後の作業が始まって間もなく、洗濯場の空気がざわついた。
「ねえ、聞いた? また、赤子が――」
井戸端で桶をすすいでいた女官が、声を潜めてささやく。
玲玲は手を止めるふりもせず、さりげなく耳をそばだてた。
「さっき『梔子くちなしの間』で……下級妃の子らしいけど、産まれて一月もしないうちに……」
「三人目よ。今月だけで。どう考えても、おかしいわ」
「呪いじゃない? ほら、先代の妃があの部屋で……」
玲玲は洗濯籠の布を軽く叩きながら、胸の奥がざらりとするのを感じた。
呪い? 冗談じゃない。
薬屋の娘として育った彼女には、“呪い”とやらの曖昧な概念よりも、原因と結果の筋道の方がずっと信じられた。
(赤子が、三人も。しかも、同じ部屋で?)
偶然にしては出来すぎている。
しかも話によれば、どの子も病気の兆候は見られなかったという。ただ、夜になるとぐずり、翌朝には息をしていなかったのだと。
眠ったまま、冷たくなって。
(……それ、薬で眠らされていたのでは?)
思考の端で、経験が警鐘を鳴らす。だが、玲玲は口を閉ざしたまま仕事を続けた。下女の分際で首を突っ込めば、命を落とす。それが後宮の掟である。
だが、偶然にもその夜、機会は訪れる。
「くちなしの間に洗濯籠を届けてこい」
夕刻前、洗濯場の年嵩の女官から命じられた。断る理由はない。
「梔子の間」――噂のあの部屋。
玲玲は籠を抱え、歩きながら心を巡らせる。
もしも“何か”が部屋にあるとしたら、原因は二つ。空気に溶ける毒か、肌に触れるもの。赤子の症状からして、体内に取り込まれるもの――つまり「吸入系」の可能性が高い。
部屋に着き、扉を叩く。
「入って」
年配の乳母が出迎えた。どこか疲れた表情をしている。部屋の奥には、まだ布で覆われた小さな寝台があった。
死んだ赤子のものだろう。
(……合掌)
胸の内で小さく祈り、玲玲は洗濯籠を所定の場所に置いた。
その時、ふと鼻をくすぐる匂いに気づく。
甘く、けれどどこか不自然な香り。
(この香……)
香炉があった。寝台の脇に、細工の施された銀の香炉。細長い脚を持つ、後宮でも高級な品だ。
ただ、香が強すぎる。小さな部屋で焚くには明らかに過剰だ。玲玲はさりげなく近づき、目を凝らした。
(白檀、丁子、それに……桂皮。いや、違う……これは“トリカブト”!?)
香の奥に、わずかに混じる薬毒の匂い。薬屋の鼻はごまかせない。
(香に混ぜられてる? 気付かれないように、少量ずつ……?)
玲玲は静かに後退した。
これは、呪いなんかじゃない。意図的に仕込まれた毒の香だ。
その夜、玲玲は部屋で眠るふりをしながら、薄布にくるんだ小さな包みを取り出した。
昼間こっそり採取した、香炉の中の香灰。
それを煎じて、反応を確かめる。
湯の色が、淡い紫から、赤黒く変わった。
(やっぱり……)
毒性の高い植物由来の成分が含まれている証拠。
しかも、少量なら大人にはほとんど影響がないが、赤子の身体には致命的なものだ。
(香に混ぜて、誰にも気づかれず、赤子を殺す……)
それは、まさに**「香の中の毒」**。
だが、なぜ? 誰がそんなことを?
梔子の間の妃は、低い位の妃で、目立った動きもなく、むしろ陰で哀れまれていた存在のはず。
(目的は、妃じゃない……)
玲玲の目が鋭くなる。
──狙われていたのは、「赤子」そのものだ。
位の低い妃が帝の子を産めば、一夜にして地位は変わる。逆に言えば、誰かにとっては“邪魔”な存在になり得る。
(香炉に手を加えたのは誰? 乳母? 侍女? それとも……)
玲玲は静かに息を吐いた。
この事件、見過ごすわけにはいかない。
香を毒に変えるなんて、薬屋として許せない。
それに、なにより――
(……気になる。気になって、眠れない)
好奇心と、正義感。
玲玲の中で、眠っていたものが目を覚ました。
その夜、後宮の奥で、小さな決意が生まれた。
少女はまだ知らない。
この一件の真相が、彼女の運命だけでなく、帝の心をも動かしていくことを──




