プロローグ:香の檻
──あの時。ちゃんと父さんに言われたことを守っておけばよかったな。
曇天の下、玲玲は後宮の白壁を見上げて、心の中でぼやいた。
高く、閉ざされた城の壁。その向こうにあるのは、香の匂いと女の息遣いが満ちた、煌びやかで濁った檻の中。
ここに来て、はや三ヶ月が経った。
薬草を探しに森へ出たところを、人攫いに捕まり、そのまま後宮送りとなったのだ。
いわく、妙齢の娘をかき集める「宮廷選抜」の一環らしい。だが、別に選ばれたわけでも、自ら望んだわけでもない。玲玲は薬師の家の娘として、父と共に小さな店を営んでいたに過ぎなかった。
にもかかわらず、今では香と絹にまみれた後宮の、最下層で洗濯を担う下女である。
(父さん、元気にしてるかな……)
ぽつりと心の中で呟きながら、石畳に置かれた洗濯籠を抱える。
女の匂いがする。甘い香、強すぎる白粉、まるで隠しきれない毒のようだ。
美しい女たちの微笑の裏に、数え切れない策と争いが潜んでいる。
玲玲は知っている。毒とは、必ずしも薬壺の中にあるものではない。
それでも、ここで生きていくしかないのだ。給金が出る限り、働いて、耐えて、いつかここを出ていく。そう決めていた。
──けれど、人生は思い通りにならない。
玲玲はまだ知らない。この数日後、自分が後宮で語り継がれる「毒の事件」に巻き込まれることを。
死に至る香、呪いと囁かれた謎。
そしてそれを解き明かした者が、皇帝の心に触れるとは──
誰一人、予想していなかった。