09.手掛かりを追いかける(1)(side:セセリア)
翌朝、目を覚ましたときはまだ窓の外が薄暗かった。
小鳥のさえずりすら聞こえないような早朝だ。使用人がようやく起き出すという時間帯に起きたが、まったく健康的ではない。単純に眠りが浅く、短時間で覚醒してしまっただけだ。
これもすべて、昨夜ロマンもへったくれもない告白をした婚約者のせいだ。
「何が『好きだからに決まっている』よ。決まっていないのが貴族同士の婚姻というものでしょう。こちらから言わせてもらえば『政略だと思うに決まっている』だわ」
昨夜のことを思い出したら、起き抜けだというのに顔が熱くなってきた。
どうやら私は相当ヴィンセントに対して腹を立てているようだ。心臓の鼓動が速まるのも、戦いに備えて血液を送り出そうとしているのだろう。
別にヴィンセントと戦うつもりはないが、戦いに挑むような気持ちでベッドから足を降ろす。
ヴィンセントには明日話すという言質を取っている。
夜が明けたのだから、もうその「明日」になったと判断してもいいはずだ。
言った当人はまだ夢の中かもしれないが、知ったことではなかった。叩き起こして胸ぐらを掴んででも答えてもらうつもりだ。私を好きな理由、そしていつから好きだったのかを。
返答次第ではただではおかない。
なぜならヴィンセントが早い時期から私を好ましく思っていたのだとしたら、私の貴族学院時代に起きた出来事の解釈が変わってしまう可能性があるからだ。
規律違反や振る舞いを口うるさくとがめてきたのは、私に対する嫌悪感のあらわれなのだと思い込んでいた。だがそうではなかった。
ならなぜあんなに手厳しかったのか。最初に思いついたのが好きな子ほどいじめてしまうアレだ。だがヴィンセントはそんな非合理的な行動を取る男ではない。何か他に事情があったに違いないのだ。
鏡台の前でひとまず寝癖を直していると、物音で察したのか使用人用の控え室の扉からメイドたちが現れた。
お声がけくださればいいのに、と笑うジェシカたちに身支度を整えてもらうと、私は鏡に映る自分をまっすぐに見つめた。
金の髪に若草色の瞳をした令嬢が鋭い眼差しを向けてくる。完璧な令嬢とはほど遠い、戦に挑む女騎士の顔だ。
もっと優美に、しとやかに微笑まなければ。そう思った後、これでいいのかもしれないと思い直す。
昨夜、ヴィンセントはありのままでいてくれと言った。彼が貴族学院時代の私を好いていたのだとしたら当然だろう。
だからといって、ここ数カ月間の淑女教育が無駄だったとは思わない。令嬢らしい振る舞い、淑女の仮面は侯爵夫人になるのならいずれ絶対に必要になる。
そこまで考えたところで、とてもいまさらな事実に気がついた。
私は私を好いてくれる人の奥方になるらしい、ということに。
「セセリア様、お熱があるのではありませんか? お顔が真っ赤ですわ」
「な、なんでもないわ。こういう体質なだけだから気にしないで」
心配そうなメイドたちにそう告げると、私は散歩に行くと告げて部屋を出た。
メイドたちはついてきたそうにしていたが、私がヴィンセントの部屋に向かっていると察してやめたようだった。婚約者と二人きりで散歩をしたいのだと思ってくれたらしい。あながち間違っていないので、誤解はとかないでおく。
淑女の身支度には時間がかかる。だから私がその部屋を訪れたときには窓の外は明るく、小鳥のさえずりも軽やかに響き渡っていた。
だというのに、扉を何度ノックしても中から返事がない。主が深く寝入っているならば代わりに従者が顔を出すはずだが、それもなかった。
居留守でも使われているのだろうかと少し被害妄想を膨らませながら扉を開けると、ふわりと冷たい風が私の髪を後ろになびかせた。
窓が開いているのだ。
換気中ならば固定されているはずだが、ガラス戸は風を受けて不安定に開いたり閉じたりを繰り返している。
おかしい。何かが変だ。
私は主の許可を得ず部屋へ踏み込んだ。奥の寝室の扉も開けてみると、天蓋付の大きな寝台に主の姿はなかった。
念のためにクローゼットを開けたり他の窓を開けて下をのぞいたりしていたからだろうか、物音を聞きつけてか執事長がやってきた。ヴィンセントがいないという話をすると、彼はあからさまに顔を曇らせ、神妙そうに打ち明けた。
「……実は、今朝の打ち合わせにブラッドが現れなかったのです。ヴィンセント様からの頼まれ事を優先することはよくありますので、今日もそのたぐいかと思っていたのですが……」
どうやら従者のブラッドさんもいないらしい。
貴族ならば朝の散歩や乗馬の可能性もあったが、執事長の話によるとヴィンセントは早朝に庭で剣の鍛錬をすることはあっても、朝食前に散歩や乗馬をする習慣はないらしい。
使用人たちによるヴィンセントとブラッドさんの捜索がはじまった。そうしてしばらくした頃、裏庭で血のついたハンカチが発見された。ブラッドさんのものだった。
「ブラッドに何かあったのかもしれません。それでヴィンセント様が探しに行かれたのかも……」
「だとしたらハンカチを残していくのはおかしいわ。ヴィンスは探知魔法が使えるから。でもハンカチが落ちていたということは、ブラッドさんはヴィンスの目の前で怪我をして連れ去られ、ヴィンスも同行させられたのよ。ブラッドさんを人質にとられて」
私は執事長たちに推論を語りながらも困惑していた。
いったいこの屋敷で、いやハズウェル領で何が起きているのだろうか。ヴィンセントは何か知っていたのだろうか。
私は昨夜のヴィンセントの態度を必死に思い起こす。
そうだ。彼は『今夜中に片付けなければならない手紙や案件がある』と語っていた。手紙はともかく、案件とはなんだろう。
領内での仕事や問題事を差しているようにも受け取れるが、執事長の話ではそういうことは現領主であるハズウェル侯爵がみずから動いているという。そのハズウェル侯爵は愛息の結婚式のため戻る旅路の途中で、連絡を取り合うのは難しい。
ひとまずこの件はハズウェル領騎士団に一任し、侯爵邸の使用人たちは日々の業務と二日後に迫った結婚式の準備に戻ることになった。
しかし肝心の花婿であるヴィンセントが行方不明という状況で、使用人たちはこのまま準備を進めていいのか、本当に結婚式は行われるのか不安を隠せない様子だった。
もちろん私も不安はないというわけではなかった。それでも当事者でありながら取り乱すほどではなかったのは、ヴィンセントの実力を知っていたからだ。
ヴィンセントならば問題を解決し、ブラッドさんも無事に取り返してくるだろう。もしかしたら時間はかかるかもしれないし、結婚式に間に合わないかもしれない。それでも婚約が反故になったわけではないのだから大丈夫だ。きっと大丈夫。
なかば自分に言い聞かせるようにしながら紅茶を飲んでいると、部屋の扉がノックされた。メイドのゾーイが銀盆にティーセットを載せて入ってくる。彼女が部屋に入った瞬間、ふわりとカモミールの優しい香りが漂ってくる。
「お茶ならもう淹れてもらったけれど」
「はい」
ゾーイが眼鏡の奥から不安そうな眼差しを向けてくる。それでぴんと来た。
ちょうどおかわりがほしかったの、と嘘をついて、私は他のメイドたちを控え室に下がらせた。
それから風属性の防音魔法を部屋全体にかける。貴族学院時代に初歩的な魔法は習得している。特に風属性の防音魔法、消音魔法、増音魔法はアーチボルト騎士団でもよく作戦行動で使っていたので慣れている。
ゾーイからティーカップを受け取って一口飲むと、香草のクセを消しきらない程度の甘味がほどよかった。まだここに来て二日だというのに、私好みのはちみつの量を把握して再現している。なかなかポイントが高い。
「紅茶でなくてよかったわ。ちょうど気分を変えたいと思っていたの」
「……恐縮です。あの」
「よかったら隣に座って。一人で飲むのも味気ないわ」
私はゾーイの手を引いて長椅子の隣に座らせた。
居心地悪そうにする彼女に代って立ち上がると、予備のティーカップと受け皿を取り出す。
自分がやりますと言う彼女をいいからいいからと座らせたままにし、新しいカップへ温まったティーポットの湯をそそぐ。琥珀色の液体がカップに溜まり、カモミールの香りが強まった。
「あ、ありがとうございます……」
「いいのよ。それで、私に話があるのよね?」
私は少し先回りをする。急かすようで悪いとは思ったが、現在この屋敷では非常事態が起きている。あまりもじもじさせてあげられる時間はなかった。
ゾーイは手にしたカップを持ち上げてこくりと一口飲んでから、ややあって控えめに視線を合わせてきた。まだ少し瞳を揺らがせながら、ためらいがちに口を開く。
「……私、もしかしたらヴィンセント様の抱えていらっしゃる問題を知っているかもしれません」